■第二十七回■
あしたのジョー(ちばてつや・高森朝雄)

『そして、あとにはまっ白な灰だけが残る……
  燃えかすなんかのこりやしない……
  まっ白な灰だけだ』

【作品概説】
 ドヤ街にフラリと現れた少年・矢吹丈(やぶきじょう)。そこで住人達を相手に大立ち回りをする彼の姿を見た丹下段平(たんげだんぺい)に才能を見出され、ボクサーとなることを勧められる。当初は反発していたものの、少年院での力石徹(りきいしとおる)との出会いをきっかけにボクシングに情熱を燃やすようになる。

【所感】
 これまた有名な作品で名前を知らない人はいないというぐらいのものである。『巨人の星』(注1)や『タイガーマスク』(注2)と同じ原作者(注3)だが、作品の雰囲気がまるで違う。ジョーはクールでニヒルでワルで、飛雄馬やタイガーと比べて『いかにもないいコ』ではないこともあるが、最もそう感じるのはちばてつやの作画力のためだろう。彼の描き方の特徴としては、前述の2作品のようなインパクトのある荒々しい迫力ではなく、細かな表情や動きなどにより人物の心の機微を巧みに表現していることが挙げられる。そこが、この作品の魅力の一つであり、比較的高い年齢層の支持を集めている要因ではないかと思う。しかし非常にストイックで物事に真剣に向かっていく様はやはり同じ原作者の子であると思わせる。
 ジョーは自分で『拳闘が好きだ』と言っていた。だが、本当に彼が充実して闘っていたのは、力石徹、カーロス・リベラ、ホセ・メンドーサの時だけである。基本的に彼らとの試合以外は、この三者とやるためにしなければならなかった試合であった。しかしその切望した試合の後、力石は死に(注4)、カーロスは廃人(注5)となってしまった。拳を交わして得た友情の結末としてはあまりに悲しい結果であると言えよう。
 ところでホセとの闘いを終えた時、ジョーは燃え尽きてまっ白な灰になる(注6)が、私はこれに疑問を感じる。ジョーはホセとの闘いで本当に充実していたのだろうか?確かにホセ・メンドーサは偉大なチャンピオンであった。だが、彼からは力石やカーロスのようなボクシングへの執着といったものがあまり感じられない。ジョーの最後の、そして燃え尽きるべき相手は力石やカーロスを、ボクシングの実力ではなく心構えや覚悟といった面で超える人物でなくてはならなかった。あるいはジョーと同タイプの強い野性を感じさせる者か。いずれにせよホセは最後の相手としては役不足であったように思う。必要なのはマイケル・アーロン(注7)ではなく、アリオス・キルレイン(注8)であったのではないだろうか。そのことが唯一、この作品で気にかかったことであった。
 しかし、それを差し引いてもこの作品は名作である。青春をボクシングにかけたジョーの生き様に、誰もが胸を打たれることは間違いないだろう。(2006年2月6日)

(注1)『漫画博覧会』第十二回参照。
(注2)『漫画博覧会』第十八回参照。
(注3)同時期に同じ雑誌で『巨人の星』を連載していたために、別名義を使用することになった。
(注4)その死を悼むファンによって実際に葬儀が執り行われた。死因としては過度の減量と壮絶な試合によるダメージであった。力石初登場のシーンで原作者が体を大きく描いてしまい、それ故に減量せざるをえなくなったというのも有名な話。
(注5)実際にはジョーに完全に直接的な原因がある訳ではない。
(注6)あまりにも有名なラストであるが、原作者と作画者の間で意見が分かれたことでも有名である。
(注7)川原正敏作・『修羅の門』に登場するボクサー。チャンピオンではあったが、戦士という感じではなかった。
(注8)同じく『修羅の門』に登場するボクサー。ボクシング編の最後に相応しい相手だったと言える。

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