読切小説(一)

思いもかけないハッピーエンド


「そろそろどうだろうか」
 日曜日の、午前もまだ早い時間。待ち合わせた喫茶店で、彼はいきなりそう切り出した。
「そうね、お互いにとってその方がいいかもね」
 わたしは即答した。考えるまでもない。すでに覚悟はできていたのだ。付き合い始めてから三年。かつては普通の恋人同士のように語らい、見つめあい、そして求め合ったこともある。毎日のように会い、互いのことを深く知るために話し合ったり、思い出を深めるために色々な所へ遊びに行ったりもした。でももうそれは過去の話。今ではそんな情熱などはなくなってしまっている。会うのは週に一度。交わす言葉の数も減った。遊びに行くといっても、ただ二人して街をブラつくだけということが多い。お互い仕事を持つ身でもあれば、自由になる時間も少なくなるし、ある程度は仕方のないことかもしれない。恋人同士のあり方、というものは人それぞれだろうけど、それでもわたし達のこの状態は何か違うと感じていた。これも『倦怠期』って言うのかしら?別れの周期は三週間目、三ヶ月目、三年目、という話を聞いたことがある。ちょうど今がその時。わたしも彼も、今年でもう二十五になる。こんな状態でいつまでもいるわけには行かない。遠からずこういう日が来ることは分かっていたし、心の整理もつけていた。だからわたしは即答した。
「…なあ、聞いているのか?」
 物思いに耽っている間、彼は何か、しゃべっていたらしい。
「ごめんなさい。何かしら?」
「いや、後でいいよ」
『後で』っていつのこと?話したいことがあるなら、今、話すべき。そう思ったわたしは、彼にもう一度、機会を与えた。
「何?」
「いいって、後で。何か考え事してるみたいだし」
 彼はいつも、自分よりも他人を優先する。三年前からそうだった。それはきっと、『優しさ』からくるものなのだろう。わたしが惹かれた理由もこの優しさだったと思う。正直言って、別れてしまうのはちょっともったいない気もする。彼のことが嫌いになったわけではないから。だからと言って、かつてのように強い想いがあるわけでもない。無関心、と言ったら言い過ぎかもしれないけど、それがもっとも近いような気もする。きっと彼もそう。だから話を切り出したのだろう。ただ、彼の方から、というのはちょっと意外だった。どちらかと言えばわたしがリードをすることの方が多かったから。付き合うことになったのもわたしが仕掛けたからだったし、遊びに行く場所はほとんどわたしが決めていたし、会話の主導権も主にわたしのものだった。だから別れる時も、わたしの方から話を切り出すものとなんとなく思っていた。
「どうした?」
また意識が飛んでしまっていたらしい。気がつけば彼はじっとこちらを見つめている。
「何か大事なことを考えてるんだったら、また別の日にするけど」
「こんな話、仕切り直しできるものじゃないでしょう?」
「まあ、そうだな。じゃあマリリン、返事はYESってことでいいのか?」
「ええ。…でも、もうその呼び方はやめたほうがいいと思う」
 彼はわたしのことを『茉莉』ではなく、『マリリン』とか『マリー』とか呼ぶ。名前で呼ぶのが照れ臭いらしい。そっちの方が恥ずかしいような気がするけど…。とにかく付き合い始めからずっと今日まで、それは続いてきた。でも恋人同士でなくなる以上、変えるべきなのだろう。
「そうか?じゃあ俺のことも『シュート』じゃなく『秀人』って呼ぶか?」
 わたしもまた、彼を名前では呼んではいなかった。『ヒデト』よりも発音しやすかったから。でもやっぱり、もうやめるべきなのだろう。
「そうね、そうするわ」
 彼は軽く笑って頷きながらタバコを一本、取り出した。そして火をつけ一呼吸分、吸った後、二本の指で挟んだタバコでわたしを指して言った。
「あと一つ、忠告するけど、話をしている途中で目線を切るクセ、止めたほうがいいな」
「わたし、そんなことしてた?」
 今の今まで気が付かなかった。彼に言われなければきっと永久に気が付かなかっただろう。
「なんで今まで言ってくれなかったの?」
「俺は別に気にしなかったし、それに気に障ったら悪いと思ったからな」
 別れ行く恋人に対する最後の忠告、なのだろうか。これも、これからの私のことを案じる彼の優しさなのかもしれない。
「じゃ、わたしも。前から言ってることだけど、タバコは止めたほうがいいと思うわ」
「わかった、やめるよ」
 彼はすぐにタバコを灰皿に押し付けた。今日はやけに素直だ。今までわたしが何度言っても決してやめなかったのに。これが最後だから?そう、今日でもう『最後』。この店を出た瞬間、わたしたちは赤の他人になる。後戻りはできない。もう答えてしまったから。もっとも、後戻りするつもりもないけれど。それに彼の方から切り出したということは、彼自身にもそれなりの覚悟があったはず。
「なあ、記念に、どこかに遊びに行かないか?」
 こんなことが記念になるのかしら?でも、お互い嫌いになって別れるわけじゃなし、最後にそういうのもいいかもしれない。
「いいわよ」
「よし。じゃ、どこか行きたい所、あるか?」
「そうね、ネズミーシー、かな」
 最初のデートはネズミーランドだった。ありふれていて恥ずかしいけど。だから最後はネズミーシーで。ちょっと短絡的かしら?
「シーか。日曜だけど、まだ時間も早いから大丈夫だろう。でもあんまり案内できないぞ。俺も一回しか行ったことないから」
 誰と!?わたしは一回も行った事がないのに。…なんて、今さら言うことではないわね。
「じゃあ、車まわすから表で待ってろよ」
 そう言うと彼はお金を置いて先に店を出て行った。会計を済ませて外に出ると、すでに赤いロードスターが待ち構えていた。車のことは全然分からないけど、この車は大好きだった。オープンにして風を浴びて走るのが気持ちいいから。でももう、これに乗るのも最後。この助手席にも誰か別の人が座るんだわ。いえ、すでに座ってシーに行ったのだろう。
「シートベルト、締めたな?」
 車はゆっくりとスピードを上げていく。彼はいつも安全運転だから、隣に乗っていて安心できる。わたしが乗っていない時はどうか知らないけど。
「ま、一時間半もあれば着くだろう」
 そうやって丁寧に運転する彼の横顔を眺めているうちに、わたしの中に何かがもやもやと現れた。そして思わず言った。
「ねぇ、やっぱり別の所がいい」
「ん?ああ、構わないよ。どこ行く?」
「映画が見たい」
「わかった」
 別に映画でなくても構わなかった。ネズミーシー以外なら。最後の時に、別の女の影が見え隠れするところなんて行きたくない。だから行き先を変えた。これはたぶん、嫉妬。すでに覚悟を決めたつもりだったのに、わたしの中にこんな感情がまだ残っていたなんてね。

 適当に決めたものだから見たい映画なんてあるはずもなく、何を見るかは彼に任せた。チケットを買って中に入ろうとした時、彼は言った。
「これが終わったら、一ヶ所、付き合ってくれ」
「…?いいわよ」
 何かしら?何だかちょっと、声が上ずっているような感じがしたけど、あまり深くは考えなかった。映画はヒューマンドラマっぽいものだった。別に期待はしていなかったけど、それなりには楽しめた。感受性の強い彼は、感動して涙を流している。そんな姿を見て、思わず微笑んだ。こういう所も好きだった。

 映画が終わって再び車に乗り込んだ。映画館でどこか行くから付き合ってくれ、とか言っていたわね。このままサヨナラも味気ないし、それもいいかもしれない。
「んじゃ、行くぞ」
「ねぇ、どこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみだ」
 しばらく国道を走っていたけど、わたしも彼も何もしゃべらなかった。わたしはこんな時にベラベラとおしゃべりする気にはなれなかったし、彼もわたしが話しかけなければ必要なこと以外はほとんどしゃべらないタチだったから。そうして車内には沈黙が流れる。それでも不思議と気まずさは感じられなかった。

 目的地に着いたらしく、車は止まった。大きな駐車場を後にして彼についていくと、そこはちょっと高そうな店が軒を連ねるショッピングモールだった。服、家具、食器、鞄、靴、アクセサリー…。それぞれの店のショーウィンドーに飾られた商品はどれも衝動買いできるようなものではなかった。その中で彼が選んだのは、よりにもよって宝石店だった。
「いらっしゃいませ」
 良く通るが決して甲高くはない上品な挨拶。やっぱりちょっと違う。ジーンズなんかで来ていい店じゃない。よくよく見てみれば彼はきちんと折り目の入ったスラックスにジャケット。ちゃんと考えてたのね。
「マリリ…、茉莉。これ、どう思う?」
 彼が指差したのはダイヤの指輪だった。ちょっと派手目な感じ。少なくとも、私向きじゃない。でも、ちょっといいかも。
「高そうね」
 思わず口にした一言に対し、彼は困ったような顔をした。
「…お前が買うんじゃないんだから」
 誰に贈るのかしら?やっぱり、一緒にシーに行った人?
「ちょっと付けてみてくれよ」
 そう言うと彼は、近くにいた店員に声を掛けた。新しい女へのプレゼントをわたしで試そうというらしい。いい度胸ね。
「どうぞ」
 わたしのプライドもこの素敵な白い輝きの魅力には敵わなかった。差し出されるまま指輪を受け取り、右手の薬指にはめてみた。
「よくお似合いですよ」
 お世辞だと分かっていても、ちょっと嬉しい。
「どう?」
 彼に見せてみる。どうせ首から上を挿げ替えて確認しているんでしょうけど。
「うん…。いいんだけど、左にはめない?」
「どうして?」
「だって普通は左でしょ?」
 ああ、そう、そういうことなのね。もうそこまで考えてるのね。別にもう、どうでもいいことだけど。
「ま、いいか。じゃ、これで」
「はい、ありがとうございます」
 いきなり買うの!?よっぽどなのね。わたしは呆れたような、感心したような何とも表現しがたい気持ちで店員が包装する様を眺めていた。

 帰りは彼の車でわたしのマンションまで送ってくれることになった。やっぱり今度もお互いに何もしゃべらなかった。でももうこれで全てが終わる。そろそろ本当に最後。別れ際には何かちょっと洒落たことを言って終わりにしたい。映画のラストシーンのように。そして今日までのことをすべて思い出に変えてしまう。最後の時を演出する、ちょっと気の利いた、それでいてさり気なく別れられるような一言はないかしら?
「着いたよ」
 色々と考えたけど、結局何も思いつかないままその時が来た。このドアを開けて外に出れば、全てが終わる。その前に何か一言…
「じゃあ、さようなら」
 ああ、なんてつまらない、なんて工夫のない、なんて気の利かない一言!…でももう、しょうがない。わたしはドアを開けて外に出ようとした。その時、彼の声が聞こえた。
「ああ、またな」
 またな?どういう意味?わたしはドアを閉じようとしたままの体勢で固まってしまった。そんなわたしの後ろから、彼は再び声をかけた。
「おい、茉莉。忘れ物だよ」
 振り返ると、笑顔で先程の宝石店で購入したものを差し出した。
「困るな、こんな大事なものを忘れられちゃ」
 運転席から身を乗り出してわたしの手に箱を握らせると、彼は真剣な表情をして語り始めた。
「今日はありがとな。…俺さ、前から決めてたんだ。お前のことをあんまり意識しないで、俺にとって空気のように自然に感じられるような存在になったらプロポーズしようってさ」
 プロポーズ?どういうこと?
「何年も待たせちゃって、そろそろ愛想尽かされないか心配だったけど、これでやっと安心した。すぐにOKしてくれたし。本当に良かったよ」
 その時、わたしは彼の言葉を思い出した。
『そろそろどうだろうか』
 あれは別れ話なんかじゃなく…、プロポーズ!?
「あ、悪い、もう行かなきゃ。本当は今日、午後は香奈をお台場に連れて行く約束だったんだ」
「そう、妹想いなのね」
 わたしは半分、上の空で答えていた。
「まったく、この間シーに連れて行ってやったばっかだってのにな。ま、明後日には青森に帰るって言うから、そうしたらもうちょっとゆっくり会えるかな」
「そうね…」
「じゃ」
 呆然とするわたしを残して赤いロードスターは走り去った。予想とは正反対の成り行き。いえ、ある意味、予想通り。『恋人同士』は今日で最後になったから。でももう、後戻りはできない。そう、答えてしまったから。そしてわたしは指輪の入った箱を弄びながら思った。これもまた、ハッピーエンド、なのかしら?

<完>

外伝目次へ戻る  ホームへ戻る