第一章 転送−濁流に呑まれる若き狼

第一話 運命の渦

 日本と呼ばれる国の神奈川県という所に彼は住んでいた。名を土方翔という。家から近くの県立高校に通う、十七歳の高校二年生である。身長は高いと言って良い方。ほどほどに筋肉がついていて、均整のとれた体つきであるが、際立って目立つところはない。顔もごく普通で、唯一彼を特徴付けているのは、「目つきが悪い」と表現されることもある三白眼ぐらいのものであろう。そんな彼はある日、朝のホームルームが終わった後、担任の教師に言われた。
「土方、今日の放課後に進路指導室まで来い」
 なぜ呼ばれたのかは分かっていた。この学校では三年生になると、受験を想定してクラスが文系・理系と分けて編成される。そのため、二年の終わりごろになるとどちらのコースを希望するのか調査をするのであるが、その調査用紙をまだ翔は提出していなかった。だから呼ばれたのである。
 そして放課後。
「失礼します」
 そう言って戸を開けると、彼を呼び出した張本人がすでに椅子に座っていた。
「おお、来たか。まあ、座れや」
 翔は無言で椅子に掛け、膝の上に鞄を置いた。そして顔を上げると無表情のまま、担任教師の顔を見つめた。
「何で呼び出されたのかは分かっているだろう。文系、理系、どっちにするんだ。もう、期限はとっくに過ぎているんだぞ」
 翔は顔を動かしはしなかったが、その視線は彷徨い始め、何かを考えている様子であった。しばらくの沈黙の後、翔は答えた。
「もう少し考えさせてください」
「お前、一週間前もそう言ったな」
 担任はじれったそうにペンをいじりながら言った。
「まったく、何をそんなに悩んでいるんだ。何か、行きたい学科とか、将来やりたいこととかはないのか」
 その言葉に反応して翔は言った。
「やりたいことはあります」
「何だ、何がやりたいんだ」
担任はペンの動きを止め、今まで組んでいた足を戻し、少し前屈みになった。
「裁判官になりたいんです」
「そうか、立派な目標があるじゃないか。なら、文系に決まりだな」
 そう言うと担任は机の方へ向き直り、ペンのキャップをはずして書類に何かを書こうとした。翔はそれを制するように言った。
「ちょ、ちょっと待ってください。明日、明日までにはきっと考えてきますから、それまで待ってください」
 そう言うと翔は立ち上がって一礼し、担任が呼び止める声も無視して部屋を出た。そこには一人の女性徒が声を掛けてきた。
「土方君、先生何だって」
「あ、羽諸さん。何でもないよ。それより待っていてくれたの」
「うん、委員会があったからね。ついでよ、ついで」
 彼女の名は羽諸澪。身長は翔より大分低く、ほっそりとした体は彼女をさらに小さく見せている。光沢のある黒髪を肩の辺りまで伸ばしている。肌は雪のように白くきめ細かで、顔も悪くはない。印象的な大きな瞳していて、いつもニコニコと笑っている。かわいいと表現しても差し支えない外見である。彼女は翔とは違う中学校であった。しかしその頃に通っていた塾が同じで、そこで知り合った。同じ高校を目指していたため、話をする機会も多く、そのため自然と仲良くなった。高校に入ってからあまり友達を作らなかった翔にとって、一番よく話をする相手でもある。お互いの家が近いという訳ではないが、一緒に帰ることもしばしばある。この日も、いつも二人が別れる交差点まで一緒に行くこととなった。
 二人が帰るその途中の道で、電柱に寄りかかって腕を組んでいる男がいた。年の頃は二十歳過ぎぐらい。着ている服は緑色のシャツに茶色っぽいズボン、と普通であった。しかし、オレンジ色の髪の毛、左耳には金のピアス。頭に赤いバンダナ、首に青紫のスカーフ。そして左の手首には白い長い布を巻いている、といった人込みの中でもすぐに見つけられそうな姿をしていた。
「すごい格好だな」
 翔は思わず呟いた。と同時に男は翔たちの方を向いた。
「ちょっと土方君、聞こえたんじゃない」
「だとしたら、ちょっとまずいかな」
 二人が小声で話していると、男は歩み寄って来た。翔も澪も、言葉一つ発することもせずにそれを見ていた。
「やあ、翔君。待っていたよ」
 男がそう言うと、澪は怪訝な顔付きで翔の方を見た。
「知り合いなの?」
 翔は少し考えるような表情を見せ、澪に答えた。
「いや、知らない。人違いじゃないかな」
「でも今、翔君って…」
 そんな二人のやり取りを遮るように男は言った。
「人違いじゃないよ。君は土方翔君、だろう。まあ、今日初めて会う訳だから分からなくて当然だけどね」
「一体どういうことだ。君は誰だ」
 たまらず翔は聞いた。
「少しずつ説明していくよ。取り敢えず、僕の名前は海老名龍一朗。君を運命の渦に巻き込みに来た、とでも言っておこうか」
 この回答に対して先に反応したのは翔ではなく、澪の方であった。しかし彼女の言葉はその海老名と名乗る男にではなく、翔に向かって耳打ちされた。
「ねえ、行きましょう。なんだかこの人、アブナイって言うか、嫌な感じがするわ」
 聞こえているのかいないのか、海老名は薄い笑いを浮かべながら二人を見ているだけであった。
「う、うん」
 翔は海老名に向かって言った。
「俺ら、ちょっと急いでるんだ。悪いけど帰らせてもらうよ」
それを聞いて男は軽く笑って言った。
「つれないなあ、やっと逢えたっていうのに。ま、いいや。またすぐに会えるからね」
 そして海老名は翔たちが今来た道の方へと立ち去って行った。その後ろ姿を見送りながら翔は無意識のうちに呟いた。
「運命の渦…」
「もう、何言っているのよ」
澪は呆れ顔で言った。
「知らない人にあんまり関わっちゃ駄目よ」
「小学生じゃないんだから・・・」
「冗談よ。そんなことより、今度の日曜日に映画でも見に行きましょう。ちょうど見たいのがやっているのよ」
 二人は家路へと向かって再び歩き始め、いつもの会話に戻った。そして二人が別れるべき交差点に来たとき、澪が言った。
「じゃあ、また明日。日曜日、ちゃんと空けておいてよ」
「分かってるって。じゃあ、また明日」
 澪と別れた後、歩きながら翔は考え事をしていた。明日までに文理選択を決めなくてはいけない。翔は確かに法律を勉強したい、という気持ちがある。ではなぜ迷うのか。それは翔の父親が関係している。彼の父親は病院を経営している。口に出してこそ言わないが、父親としては当然、その病院を一人息子である翔に継いで欲しいと思っているに違いない。しかし父は翔には自分の好きな道を選べ、と言っている。だからといって、はいそうします、などと言える人間ではないのだ。そうして色々と考えるうちに自宅に着いた。自分の部屋に入って上着を脱ぎ、ベッドに寝転がって先程の考え事を再開した。しかし今までずっと迷いつづけたものが今すぐに決まるはずもなく、同じことを堂々巡りで考えている。いっそのこと父が、医師になれ、と言ってくれれば何も考えずにそれに従うのに、などと意味のない仮定を持ち出したりするのだ。頭の中が引出しを全て開けた箪笥のような状態になってしまったので、外へ出て気分転換をすることにした。
黒い皮ジャンを羽織り、バイクのキーを手にして部屋を出た。居間には人の気配はない。翔の両親は仕事が忙しく、いつも帰りは十二時頃になってしまう。兄弟のいない翔にとって、その状況は幼い頃は寂しくて仕方がなかった。しかし十年以上もそれが続くと、それももう慣れっこになってしまっていた。コップに半分くらい水を入れて飲むと翔は家の鍵を閉めてバイクに跨り、よく行く海岸へと向かった。
 夕暮れも過ぎて辺りが暗くなり始める時刻、この海岸には翔以外の人影はほとんど見当たらない。もう冬と呼んでも良い時期であればなおさらである。冬の海はどこか物悲しい。まるで祭りが終わって皆が帰った後のようである。そんな海を眺めながら、翔は熱い缶コーヒーを片手に煙草を吸っていた。すると後ろから声を掛けてくる者があった。
「未成年の喫煙は法律により禁じられています」
びっくりして振り返ると、そこには一度見たら忘れられないオレンジ色をした髪の男が立っていた。
「なんだ、君か。一体何なんだ。俺に何か用なのか」
「だから言っただろう。君を運命の渦に巻き込みに来た、ってさ。君の力が必要なんだ」
「俺の…力?何のことだ。俺はごくごく普通の、ただの学生だ。それに運命の渦ってのは何だ。言っていることがさっぱり分からない」
「君はまだ自分の力に気が付いていないようだけど、君には大きな力があるんだ。そしてその力を僕たちは必要としている。僕について来てくれないか」
「よく分からないな。俺の力って、何だ。その力で何をしようっていうんだ。まずそれを説明してくれ」
 海老名は目を閉じると、頭を振って答えた。
「僕について来てくれる、と約束してくれるのなら話そう。あまり人に言うべき話じゃないんでね」
「そんなそっちに都合の良い約束はできないな」
「仕方がないな、出直すことにするよ。とにかく、よく考えておいてくれないか」
そう言うと海老名はどこかへと消えていった。
「…帰ろう」
 スッキリしない気分を抱え、翔は家へと帰った。

 家に着くと珍しく母がもう帰ってきていた。翔の母親も医師であり、父親の病院で働いている。そのため両親の帰宅はいつも遅い。一週間全く顔を合わせないこともしばしばあるほどだ。だから、父親、あるいは病院に何かあったのではないかと翔は思った。
「あら、お帰りなさい。どこかへ出かけていたの?」
「母さん、どうしたのさ。こんな時間に帰ってきてるなんて」
「あなたいつも店屋物ばかりでしょう。たまにはちゃんとしたもの、食べないとね。もうできているから、早く手を洗ってらっしゃい」
 久しぶりの母の手料理であったが、翔は先程の出来事について考え事をしていたため、あまり食事に集中できなかった。
 夕食後、ベッドの上で海老名龍一朗という男のことを考えていた。
(あのオレンジ頭、一体何者なんだ。訳のわからないことばかり言うし。羽諸さんの言う通り、あまり関わらない方が良さそうだな。…でも、何だか気になるんだよな。俺の力って何だろう。自分でも気が付いていない大きな力、か)
 あれこれ考え込んでいるうちに、いつの間にか寝入ってしまっていた。気が付いたときにはもう朝になっていた。翔はシャワーを浴び、急いで服を着て家を出た。急ぎ足で学校へと向かうその途中で、澪にあった。
「遅いよ、土方君」
「何言ってんだい。羽諸さんだって、こんな時間にまだこんな所にいるじゃないか」
「待ってたのよ」
「え?」
「待ってたって言ってるのよ。昨日、あの派手な人に妙なこと言われてたでしょう。それで何だか気になってね。ちゃんと学校に来るのかなって思ったのよ。来るのが遅いから焦っちゃったわ。土方君がどこかへ行っちゃったのかと思って」
「ふうん、心配してくれたんだ」
「ち、違うわよ。ただ、ちょっと、気になっただけよ」
「…ま、いいや。でもどこかに行く、なんて発想がどうして出てきたんだ。よく分からないことを言うね」
「何だかそんな気がしただけ。何もなかったのなら、それでいいわ。それより急ぎましょう。遅刻しちゃうわよ」
 二人は走って学校へと向かった。走りながら翔は考えた。
(昨日あの後、またあの男に会ったことは黙っておいた方が良さそうだな)
 学校に着いたとき、翔は今日までに決めておくべきであった志望コースをまだ決めていないことを思い出した。案の定、朝のホームルームの後で担任に、昼休みに進路指導室へ来るように言われた。これで昼休みまでに決断を下さねばならなくなったのだが、やはり何も決まらないまま昼休みになってしまった。仕方がなく進路指導室へと行くと、まだ担任は来ていなかった。そのまま戻りたかったが、そうもいかない。しばらくぼうっとして待っていると、担任が入ってきた。
「お、もう来ていたか。で、どうする。やっぱり文系か」
 翔はどう答えたものか迷っていたが、正直に話すことにした。
「すいません。まだ決まっていないんです」
 担任はやれやれといった表情で言った。
「土方、何をそんなに迷っているんだ。お前は法律をやりたいんだろう。なら、文系でいいじゃないか。それともほかにもやりたいことがあるのか」
 少し悩んでから、翔は答えた。
「医者、というのも考えているんです」
「…ああ、そうか。お前の両親は医者だったな。でも、今の時代、何も子が親の職業を継がなくてはならないということはないだろう。それに、お前は文系の方が成績はいい。まあ、理系でも学年で十五番から下がったことはないから、決して悪いという訳ではないがな」
 担任は何かを考えているのか、何も考えていないのか判断のつきかねる表情で書類を眺めながら言った。
「よし、なら納得がいくまで考えてみろ。親ともよく話し合ってみるといい」
「え、でもそれじゃあ…」
「いいからいいから。俺に任せておけ。学年主任の方には何とか言ってごまかしておくから」
そして翔は釈放され、教室へと戻った。そして自分の席に着いた途端、クラスメイトに声を掛けられた。
「おい、土方。お前に話があるって奴が来てたよ」
「誰?」
「隣のクラスの、確か南雲とか言ってたな。今、お前はいないって言ったら、中庭にいるから戻ってきたらそう伝えてくれってさ」
「南雲、南雲ねぇ。聞いたことないな。ま、いいや。中庭だね。分かった、行ってみる」
 そう言って翔は中庭へと向かった。しかし、よくよく考えてみると、南雲などという人間などは見たことがないのに、どうやって探せばよいのだろうか。男か女かすら聞いていない。しかも昼休みともなれば中庭には大勢の人がいる。どうしたものかと途方に暮れていると、後ろから声を掛けられた。
「土方翔、だな」
 振り返ると男が一人いた。翔よりも背が高い。おそらく、一八五センチ位はありそうだ。髪は金髪で、昼の光を浴びて輝いている。不自然な印象はなく、染めたというわけではなさそうだ。瞳も深い青色であることから、どうやら天然のものであると思われる。見たことのない、派手なデザインのシャツを着て、なぜか真っ白なマントを羽織っている。いくら私服が許されている学校であるとはいえ、これはやり過ぎという感じがしないでもない。昨日の海老名の格好を見ていなければ、きっと仰天したことであろう。
「君が、南雲…君?」
「そうだ、単刀直入に用件だけを言おう。君はもう、海老名という男に会っただろう。それでだ、彼の言うことには従わないで欲しいんだ」
「海老名の言うことって、力を貸すとか何とか…」
「ああ。確かに君の力は必要だ。十二人の一人としてのな。だが、見たところ君はまだ自分の力に気が付いていないようだ。そんな人間をこっちに連れてくるのは危険なんだ。だからまだ、海老名の言うことには従わないでくれ」
「言われなくたって、従うつもりなんかはないさ。あんな訳の分からないこと。もっとも、訳が分からないのは君も同じだけどね」
 南雲は表情一つ変えずに言った。
「いずれ分かるようになるさ。話というのはそれだけだ」
 そう言うと、別れの挨拶もせずに南雲は立ち去ってしまった。翔はしばらくあっけに取られていたが、気を取り直して教室に戻った。そしてクラスの人間に、南雲という男について聞いてみた。しかしその答えは、
「南雲?知らないな」
「そんな奴、いたっけか」
「聞いたことないな」
といったものばかりであった。翔に南雲のことを伝えた本人ですら、
「そう言えばあんな奴、はじめて見たな。あんな金髪なんて目立つはずなのに」
という返事であった。
 もやもやした気分のまま放課後になり、翔は澪に一緒に帰らないかと声を掛けた。
「ゴメンネ、今日も委員会で遅くなっちゃうから、先に帰ってて」
「待ってようか?」
「ううん、本当に遅くなるからいいわ。それに、土方君には考えなくっちゃいけないことがあるんじゃないの?」
「何のこと?」
「トボけないで。志望コースのことよ」
「なんだ、知ってたの」
「うん、まあね。そういうわけだから、今日は先に帰ってて」
「分かった」
 結局、翔は一人で帰ることになり、その帰途で海老名と南雲のことを考えていた。

 翔の家から少し離れたところには公園がある。あまり人が来ない静かなところだが、住宅街の中にあるためにしっかりと管理がなされていて、常にきれいな状態が保たれている。その公園のベンチに、一人の男が座っていた。冷たくなり始めた夕刻の風が彼のオレンジ色の髪を揺らしている。男は何する訳でもなく、ただぼんやりと噴水を眺めている。夏の間は見ているだけで少しは涼を与えてくれたこの噴水も、これからの季節は寒々しさしか与えない。その噴水の向こう側から歩み寄って来る男がいた。その男はベンチの前で立ち止まった。オレンジ色の髪の毛と金髪が向かい合う様は、何か異様な雰囲気を醸し出している。この二人の男とは当然、海老名と南雲である。先に口を開いたのは海老名の方であった。
「やあ」
「海老名、探したぞ。勝手にこっちに来て、勝手に土方を誘って…」
「彼にはもう、あったのかい?」
「ああ」
不機嫌そうな声で南雲は答えた。
「それで、どう思った?」
 南雲の様子などはお構いなしに海老名は質問を続けた。
「思った通り、奴は未だ自分の力に気が付いていない。そんな奴を向こうに連れて行くのは危険だ。だから俺は前から反対していたんだ。せめて、覚醒を待つべきだと。それなのにお前は・・・」
「仕方ないだろう、僕の仕事だもの。それに、向こうに連れて行けばその影響で覚醒しやすくなるかもしれないよ」
「だが向こうはこちらほど安全な世界ではない。命の危険に晒される事だって十分にありえる」
「こっちの世界でも、そうは変わらないみたいだよ。一見平和に見えるけど、こっちだって結構、とんでもない所だよ」
 海老名はおどけて言った。
「お前はこっちに来ていたから知らないだろうが、昨日皇子が誘拐された。大京でさえ何が起こるか分からないんだ。そんな所には連れて行けないだろう。それに、もし十二神将が揃いつつあることを知られたら、魔神が動き出すということもあり得る。だから今は目立つ行動は控えたいんだ」
「でも、こっちにいる限り、彼は普通の人間のまま、覚醒しないままかもしれない。それに、いずれにせよ魔神は動き出すよ。その時になっても、まだ彼が使い物にならなかったらどうするんだい。クルセイダーズだけでは対抗できないと思うよ。十二神将が揃わなければ、アレも役に立たないし」
「しかし、向こうに連れて行ったからといって、必ずしも覚醒する訳ではない」
「ま、一つの賭けであることは確かだけどね」
「ともかく、俺は反対だ。今は何の準備もできていない状態だ。彼の存在を知られて、向こうを刺激するような真似はしたくはない」
「分かった、君がそういうならもう少し様子を見ようか」
「済まんな」
「いや、君の言うことにも一理あるし、物事を進めるにあたって、慎重になってなり過ぎることはないからね」
 ちょうどその時、翔がその公園の前を通りかかった。
「噂をすれば影が差す、というやつか」
「そうだね。でも、お互い随分とこっちの言葉に慣れてきたね」
「慣れるも何も、慣用句以外はほとんど同じ言葉じゃないか」
「ま、そうなんだけど…。おっと、こんなことをしている場合じゃない。見つからないうちに行こうか」
「そうだな」
 二人の男は一瞬にしてその場から姿を消していた。しかし翔はそこに人がいたということにすら気付いた様子もなく、そのまま公園の横を通り過ぎて行った。

 その日の夜、いつものように一人きりの食事を終えてから風呂に入った後、翔はふと思い出したように電話の受話器を取った。そして手帳を見ながら番号を押した。数回のコールの後、反応があった。電話口に出た声は、落ち着いた感じの女性の声であった。高く澄んでいたために年齢が非常に分かりづらかった。
「はい。羽諸でございます」
 翔は多少、緊張して言葉を発した。
「夜分にすみません。土方と申しますが、澪さんは御在宅でしょうか」
「はい、土方さんですね。しばらくお待ちください」
電話の保留音が流れると、翔はほっとして大きく息を吐いた。
(今のがお母さんかな。やっぱりなんとなく声が似てるなぁ。…へえ、ムソルグスキーか。意外と妙な選曲だな)
 電話の保留音は『展覧会の絵』の『プロムナード』であった。それを聞きながら澪を待っていると、曲の半分あたりで澪が出た。
「お待たせ、土方君。どうしたの」
「うん、聞きたいことがあってね。隣のクラスの南雲って、知ってるかな」
「ちょっと分からないわ。その人がどうかしたの?」
「今日の昼休みにさ、呼び出されたんだ。大した用事じゃなかったんだけど、どういう人なのかなって」
「ふうん。あ、ちょっと待ってて。今、名簿を見てみるから」
 この学校の名簿には、名前や住所、電話番号と一緒に顔写真も載っている。毎年名簿を作る時に、顔写真を載せるのはそれほど意味がないからやめるべきだという意見が出る。実際、名簿で顔写真を確認するのは澪もこれが初めてのことであった。しかしそれでも毎年顔写真が載るのは、何かの理由があってのことなのだろう。あるいは悪徳教師が名簿業者に売るためか。まあしかし、そんなことは翔にとってはどうでも良いことであった。
「ああ、名簿か。そう言えば俺、なくしちゃったんだよな」
 翔は澪に話し掛けているとも、独り言ともつかない声で呟いた。澪は聞いていないのか、ぶつぶつ言いながら名簿を調べているようである。
「ええっと、なぐも、なぐも…。男子?それとも女子?」
「男のはずだが」
「なぐもなんて人、いないわよ」
「おかしいな」
「確かにE組なの?」
 翔たちの学年はF組までしかなく、そのF組が翔たちのクラスである。だから、隣のクラスと言えばもちろんE組のことになる。
「女子にもいないわよ。ほかのクラスってことはない?」
「いや、隣のクラスって聞いたよ」
「ちょっと待って、ほかも見てみるから」
 名簿で確認したからといって、その人物が何者なのか分かるはずはないのだが、載っていないとなると却って気に掛かってしまう。澪が名簿を調べている間、翔は自分の部屋の中を眺めながら待った。思考が別の事へと飛びそうになったとき、澪の声で現実に引き戻された。
「やっぱりないわ。転校生かしら」
「転校生が来たなんて話は聞いたことないけど」
「そうよねえ」
「ま、いいや。大したことじゃないし」
「ゴメンネ、役に立てなくて」
「いや、俺の方こそ。いろいろとありがとう」
「で、結局何なの、その人」
「うん。どうやらその南雲ってのは、昨日会った海老名とかいう男と知り合いらしいんだ」
聞かれたので何気なく答えてしまったが、口に出してから翔は、しまった、と思った。
「土方君、あんな人と関わっちゃ駄目って言ったでしょ。変なことに巻き込まれるかもしれないわよ。それでなくったって今は大事な時期なんだし」
 澪の声はさっきまでより少し大きくなっていた。本当に心配してくれているらしく、翔は少し嬉しくなった。
「大丈夫、分かってるよ。たださ、何も分からないっていうのもスッキリしないしさ。そういうことって、あるでしょ」
「本当に分かっているならいいけど…。それで、コース選択は決まったの?」
「いや、まだ。でも先生も納得いくまで考えてみろって言ってくれてるし、もう少しよく考えてみるよ。…羽諸さんは文系だったよね」
「うん」
「どうしたらいいと思う?」
「うぅん…、あのね、土方君。人生の中でこういった選択っていうのは、今だけじゃなくてこれからも沢山あると思うの。大なり小なりね。そのどっちを選べば幸せになれる、なんて誰にも分からないわ。でもそういう選択の積み重ねがその人の人生になるんじゃないかしら。だから、ね、人に頼っちゃ駄目。自分の人生なんだから、自分で考えて」
 翔としては軽い気持ちで聞いてみたつもりだったが、思いの外、澪から真面目な回答が返ってきたので、翔はいい加減な気持ちで質問をした自分を恥じると同時に、澪に対して尊敬の念を抱いた。
「…そうか、そうだよね。ありがとう」
「ううん、偉そうなこと言ってごめんなさい。でも、できれば土方君も文系で、来年も一緒のクラスならいいのにね。それじゃ、遅くなるからもう切るね。あ、明後日の約束、忘れないでね。それじゃ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 翔は両手で静かに受話器を置いて、自分の部屋へと戻った。そしてベッドに横たわりながら、明日、授業がある科目の教科書をパラパラとめくって眺めた。一通り目を通すとそれを投げ出し、そのまま眠りについた。
 翌朝、目が覚めて居間へ行くと、やはりもう両親は出かけた後であった。翔は、学校へ着ていく服を選び始めた。
(今日は黒で統一しよう。黒いシャツ、黒いジーンズ、ついでに黒いバンダナ。シューズも黒いのにしておこう。後はやっぱり黒い皮ジャン。…カラスのように真っ黒だが、まあいいだろう。あっと、お守りを忘れるところだった)
 翔は昨年亡くなった祖母から幼い頃にもらった、宝石のついたペンダントを首から下げ、鞄を抱えて家を出た。
(なんで鞄だけは決められているんだろう。せっかくの私服なのに鞄だけ決められてるなんて、変な感じ)
などと考えながら家の鍵を掛け、ポストから休み時間に読むための新聞を取り出して、鞄に入れて門から出た。

 その家から近くの公園に二人の男の姿があった。もちろん、海老名と南雲である。南雲は真剣な表情で話し始めた。
「昨日、あの後あっちに戻ったら、とんでもないことになっていた」
「皇子が誘拐されたことなら、昨日聞いたよ」
「そんなことじゃない。もっと大変なことだ」
「一体、何だい。深刻そうな顔をして」
「魔神が目覚めた」
この一言を聞いた途端、海老名の表情が変わった。
「それは、本当かい」
「こんなことで嘘をついてどうなる。俺があっちに戻った時、ちょうどその報告が入って来た。まだ一体だけらしいが、な」
「確かなのか?」
「風魔の情報だ。間違いなかろう」
「場所は?」
「会王朝の砂漠地帯」
「ふうん、で、どうする?」
「不安は残るが、あの男を連れて行くしかあるまい。魔神が活動を始めたとあっては、一刻の猶予もならない。できることなら、今すぐにでも覚醒してほしいがな」
「ま、僕は元々連れて行くつもりだったからし、君がそうするというのなら僕もそれに従うさ。もう、向こうの動きを気にしなくて良くなったし」
「そうと決まれば、早速迎えに行こうか」
「素直にきいてくれるかな」
「力づくにでもきかせるさ」
 二人は公園を後にし、翔の家の方へと歩き始めた。そしてその道の途中で、学校へと向かう翔に会った。翔は二人の姿を見ると露骨に嫌な顔をした。
「朝っぱらから二人揃って何の用だ」
 海老名が何か言おうとしたが、南雲がそれを制した。
「君の力が今、必要になった。一緒に来てもらう」
「またそれか。いい加減にしろ、俺は忙しいんだ。あんたらに関わっている暇はない」
「そっちの都合はどうでも良い。こっちの都合が大事なんだ」
 翔は南雲から妙な迫力を感じたが、虚勢を張って応えた。
「随分と勝手だな。俺がいやだと言ったら、どうするつもりなんだ」
「無理矢理にでも、連れて行く」
 そう言うと南雲は一歩前に出た。それに反応して翔は身構えた。
「やるかよ」
「抵抗しない方がいい。無駄に終わる」
 南雲は両手を伸ばし、翔の腕をつかもうとした。翔はその手を払おうとしたが、なぜかできなかった。
(かっ、体が動かない)
 翔の両腕を押さえて南雲は言った。
「だから無駄だと言っただろう?」
 後ろで見ていた海老名が言った。
「ちゃんと説明してやった方が良くはないか。このままじゃ、本人も納得できないだろう」
「説明したところで、今のこいつに分かるまい。取り敢えず、あっちへ連れて行く。そして魔神の実物を見せてやる。話はその後だ」
「わかった、お好きのように。で、土方君は石を持っているのかな。石が無ければ連れて行く意味も無いよ」
「これがそうだろう」
 南雲は翔の首にかかっている紐を引っ張って言った。
「なら、何も問題はないね。じゃあ、行こうか」
 海老名がそう言うと、南雲は目を閉じた。その途端、翔は自分の両腕をつかむ南雲の腕から強い衝撃を感じて意識を失った。

 翔は冷たい風を頬に感じて気が付いた。目を開けて起き上がると、辺りは真っ暗であった。付近には明かりもないらしく、月もないため何も見えない。人の気配も感じない。分かるのは、どうやら夜らしい、ということだけである。
(くそ、一体どうなっちまったんだ。ここはどこだ。海老名も南雲もいないようだが…)
 しばし翔は途方に暮れていた。しかし風が強くなってきたので、どこか寒さをしのげる場所はないかと辺りを見回した。目が暗闇にも慣れてきたらしく、いくらか周りの様子が分かるようになった。どうやらここは、木造の家屋が並ぶ住宅街らしい。どの家も立派なつくりで、大きさもかなりのものであったが、全て戸がはずれていたり屋根に穴が空いている、といった有様だった。それでも外よりはマシだろうと思い、一番近くの家へと向かった。

 大きな砂漠地帯の上空に、海老名と南雲は浮かんでいた。もし他に人がいれば、それを見て大騒ぎになっただろうが、幸いここには誰もいない。海老名と南雲だけであった。もちろん、翔はここにはいない。海老名は砂漠を見回して言った。
「魔神なんて、いないじゃないか」
 そして南雲の方を振り向いた時、驚きの声をあげた。
「南雲君、土方君は?」
「途中でいなくなった。どうやら気を失っている間、無意識に俺の力に抵抗をしたようだ。その影響で、フォースロードを出た途端に弾かれたんだろう」
「そいつはちょっと困ったね」
「なに、すぐに見つかるさ。取り敢えずこっちにいればいいんだからな、今は」
「…君って案外、気楽な人だったんだね。命の危険があるとか言っていたくせに」
「そうか?ところで魔神だが、今はどこかに潜んでいるんだろう。時間が経てば出てくるさ」
「だといいけど。このまま永久に出てこなければもっといいんだけど」
「俺は一旦、幕府の方へ行ってみる。風魔に確認してみよう」
「じゃ、またね」
 そして二人の姿は消えた。

 毎朝、翔と澪が会う交差点。いつまで経っても翔が来ないので、仕方なく澪は先に学校へ行くことにした。しかしホームルームの時間になっても翔は教室に姿を現さないので、澪は心配になってきた。
(土方君、どうしたのかしら。昨日の電話じゃ、別におかしなところもなかったし。まさかあのあと、海老名とかいう人と何かあったんじゃ…。ううん、そんなはずないわ。だって昨日、ちゃんと『大丈夫』って言ってたもの。とにかく、今日は土曜で半ドンだから帰りに寄ってみましょう)
 そんなことを考えながら澪は、誰も座っていない翔の席をじっと見つめていた。

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