第一章 転送−濁流に呑まれる若き狼

第二話 見知らぬ土地で

 三時限目の授業が終わると、澪の元に同じクラスの生徒が三人ばかり来た。
「羽諸さん、今日は土方君はどうしたの?結局来なかったけど」
「知らないわ。どうして私に聞くの?」
「だってねぇ」
「だって、何?」
 一人が下から澪の表情を伺うようにして言った。
「付き合ってるんでしょ?」
「べ、別に付き合ってるわけじゃないわよ」
「でもいつも休み時間には一緒にいるし、学校にも一緒に来たり帰ったりしてるじゃない」
「だからって特に付き合ってるとか、そういうんじゃないわ」
「駄目、駄目、駄目よ、ちゃんと捕まえておかなきゃ。彼、結構人気あるんだから」
 その言葉を聞いて、他の二人の生徒が反応した。
「そうそう、そう言えばB組の人が狙ってるって話、聞いたことあるわ」
「え、私はA組の人ってきいたけど」
「うん、A組にもいるらしいわね」
 そのやり取りを聞いて、澪は呟いた。
「え、そうなの?」
 その途端、三人は澪の方を向いて言った。
「だってねぇ」
「背も高いし」
「頭もいいし」
「顔もそこそこ」
「それに何と言っても、あの人を寄せ付けないような態度。話し掛けてもつっけんどんで素っ気無いのよ。クールって言うのかしらね」
 最後の言葉に対し、澪は平静を装って言った。
「クールねぇ。そんなことはないと思うけど」
「羽諸さんが相手の時は別よ。話し方とか、表情とか目つきなんかも、全然違うのよ」
「そうそう。そういうところだけは妙に分かり易いのよね」
「どういう意味?」
 話の中で澪一人が取り残されているかのようであった。
「鈍いわね。あなたに気があるってのよ」
「で、羽諸さんはどうなの?やっぱり好きなんでしょ」
 澪は困ったような顔をして黙ってしまった。三人は好奇の目で澪を見ていたが、そのうち一人が言った。
「まあ、それはともかく、帰りに土方君の家に寄ってみるといいわ」
 澪たち、というよりも他の三人の生徒たちがいかにも高校生らしい話題で盛り上がっていると、ホームルームのために担任が教室に入ってきた。そのため、澪の周りに群がっていた女性徒たちも、各々の席へと戻っていった。複雑な気分のままホームルームを過ごし教室を出ようとした時、澪は担任に呼ばれた。
「羽諸、お前、確か土方の家に一番近かったな。今日の帰りに土方の家に寄って、このプリントを届けてくれ。月曜に提出しなけりゃならんものだからな」
 そのプリントは、先程澪にも配られた三者面談に関するものであった。澪はそれを受け取ると、鞄の中にしまって学校を後にした。翔の家へ行く大義名分ができた澪は心が弾み、何となく足取りも軽やかになっていた。

 翔が向かって行った家は他のものに比べると、幾分狭いようであった。それでもかなりの大きさはあったのだが。そしてこの家もやはりひどく傷んでいるようである。翔は斜めになっている戸を叩いた。
「誰かいませんか」
 しかし、翔の予期した通り返事はなかった。
(やっぱり空家か。仕方がない)
「失礼します」
 小声でそう言うと、翔は戸を開けて中に入った。暗くて中の様子がわからないので、翔はポケットの中を探り、ライターを取り出した。ライターの火程度では大した明かりにはならなかったが、それでも何もないよりはマシであった。翔は右手にライターを持ち、左手で暗い部分を探りながら進んで行った。家の中も当然のように荒れていて、左手には蜘蛛の巣がくっ付き、足元は埃でズルズルと滑った。足に何か当たるのを感じ、ライターを足元に持ってきた。そこには長い蝋燭が一本あった。それを拾い上げるとライターの火をそちらへと移した。その蝋燭のお陰で、さっきよりは大分、中が見えるようになった。どうやらこの家は二部屋あり、一つはこの家の三分の二を占める居間で、残りの三分の一は寝室のようである。広い家であるので、どちらもかなりの広さがあり、二部屋とはいえ一世帯が生活することができるほどであった。翔は居間から寝室へと移動し、辺りを見回した。毛布が落ちていたのでそれを拾い、埃を払った。
(とりあえず明るくなるまでここで休んで、それからどうするか考えよう)
 翔は毛布にくるまって目を閉じた。

 土方家の前。澪はプリントを鞄から取り出してから、呼び鈴を押した。しかし、彼女の期待とは裏腹に何の反応もなかった。澪は不安な気持ちになり、今度は続けて呼び鈴を二度、三度と押した。だがやはり返事はなかった。
(きっと具合が悪くて今ごろ寝てるのよ)
 澪は自分にそう言い聞かせてまた後で来ようと思い、プリントを鞄にしまっていると後ろから声を掛ける者があった。
「羽諸さん」
 突然のことに澪は驚いて振り返った。
「土方君…」
 澪は何か言おうとしたが、なぜか言葉が出なかった。その代わりにその大きな黒い瞳から大粒の涙がこぼれた。
「ちょ、ちょっとどうしたの、羽諸さん」
「ううん、何でもないの」
 涙を拭いながら澪は答えた。
「こんな所じゃなんだし、取り敢えず上がってよ」
 澪は導かれるままに家に入った。
「どうぞ」
「ありがとう」
 差し出された紅茶を飲みながら、澪はどうにか気持ちを鎮めようとしていた。
(どうして涙なんかでちゃったのかしら。土方君、どう思ったかな。変な風に誤解されていなければいいけど)
「羽諸さん、今日はどうしたの?」
 考え事の最中に不意に声を掛けられたので、澪は一瞬、答えに詰まったが、すぐに平静さを取り戻して答えた。
「今日、休んだでしょ。だから先生に言われてこれを届けに来たのよ」
 そう言って澪は鞄からプリントを取り出した。
「なになに、『三者面談のお知らせ』、か。ああ、そうか。二年の終わりだっけ。そっかそっか、そういうものもあるよなあ」
「今頃、何言ってるのよ。そう言えば土方君、まだコース選択のあれ、提出してないんじゃない。どうするか決まってるの?」
「ああ、理系にする」
 澪は相手があまりにもあっさりとそう答えたので少なからず驚いたが、その瞳には迷いの欠片もなかったので安心もした。
「ということは医者になるのね」
「なれたらね。でも、今からじゃ浪人して、医学は4年じゃ終わらないから、なれたとしても大分、先の話だね」
「浪人って、土方君、理系だって成績いいじゃない。そんなに難しいところ受けるの?」
「いや、そうじゃないけど。まあ、その、ちょっとね」
あまり言いたくなさそうだったので、澪は深く追求するのをやめて、話題を変えた。
「どうして今日、休んだの?あんまり具合が悪そうには見えないけど」
「いや、どうしても外せない用事があったんだ」
「なら、昨日のうちに言ってくれれば良かったのに」
「今日、突然だったから。悪かったね」
「別にいいけど・・・。もしかして、あの人たちが関わってるの?」
「あの人たち?」
 翔が見当もつかない、といった表情をしたので、澪は言った。
「ほら、あの派手なオレンジ色の髪の毛の人と、後、昨日土方君が昼休みに会ったって言う人」
「ああ。うん、まあね。でももう、あいつらとのことは済んだから」
「済んだって・・・」
「もう、あいつらとは何もないから、心配してくれなくてもいいってこと」
「そう、良かった。ここに来た時、誰もいなかったから心配しちゃった」
「そっか、ごめんね。約束するよ。もう、二度と黙ってどこかにいったりはしないよ。もう二度とね」
 その言葉を聞いて、澪はなんとなく奇妙な印象を受けた。
「土方君、何だかいつもと違う」
「そ、そうかな。どこかおかしい?」
「何て言うのかな。特にどこがどうっていう訳じゃないけど、なんとなく表情とかが違うような…」
「きっ、気のせいだよ」
「そうかしら。まあ、いいわ。そろそろ帰るね」
 そう言って澪は鞄を手に取って玄関まで行った。靴を履きながら澪は言った。
「明日の約束、忘れないでね」
「明日…。明日って何かあったっけ?」
「ひっどおい、もう忘れてる。映画に行く約束してたじゃない」
「ああ、そっかそっか。映画ね。うん、覚えてるよ」
「言われるまで分からなかったくせに」
「ごめん。じゃあ、明日俺が羽諸さんの家に行くよ」
「そう、ありがとう。じゃ、明日家で待ってるから。それじゃあね」
「うん、さようなら。また明日ね」

「おい、起きろよ」
 毛布にくるまってウトウトしかけた、一番気持ちの良い瞬間に誰かに声を掛けられ、翔は目を覚ました。
「くっそ、誰だよ」
「それは俺の台詞だ。人の家に忍び込んで人の毛布を使って寝るなんて、大層な身分だな」
 目を開けると、部屋には先程の蝋燭が点いていて、起きたばかりでも部屋の中の様子を知ることができた。翔の前には十三、四歳くらいの少年が立っていた。彼は手に棒を持ち、それを翔に突きつけていた。
「久しぶりに家に帰って来て寝ようと思ったら、知らない奴が俺の寝床にいるんだもんな。お前、一体誰だ」
「そうか、ここはお前の家か。それは済まなかったな」
「済まんで済むか」
「なら、どうすればいい?」
「取り敢えず、有り金全部出してもらおうか」
「冗談じゃない」
「断っても同じことだ。お前を叩きのめしてその後で頂くだけだ」
「できるのか、お前みたいな子供に」
 翔はその少年を、そこいらの勢いだけの中学生と同じように考えていたが、それでも毛布を払いのけて起き上がった。相手の行動に対応するために起き上がっただけだったが、この行為は思いの外、効果があった。背が高めの翔が立つと、相手の目線よりは上になる。それにより相手に威圧感を与え、精神的に優位に立つことができたからだ。
「試してみるか」
 少年はひるんだ様子を少し見せたが、すぐに最初の勢いを取り戻した。
「面白いな」
 翔の方も余裕を見せてそれに答えた。少年は棒を構え、翔も身構えた。
(まさか昔習っていた空手を実戦で使うことになろうとはな)
 そんなことを考えているうちに、少年が棒で突いてきた。翔はそれを後ろに跳んでかわした。
「へえ、なかなか。でもこうしたらどうかな」
 そう言うと少年は、この部屋の唯一の明かりである蝋燭を蹴倒して、踏み消した。その直後、翔は背後から棒による一撃を頭に食らった。痛みで頭がクラクラするが、踏みこたえて後ろを振り返ったが、そうするとまた、背中を叩かれた。
(向こうは暗闇の闘いに慣れているらしいな)
 翔はじりじりと後ろに下がって、壁を背後にして目を閉じた。
「自分から壁際に身を置くとは、観念したのか」
 翔は何も言わずに耳を澄ましていた。すると、左の方から空を切る音が聞こえた。
「そこだ」
 音のした方に手を伸ばし、手に棒が当たった瞬間、それを掴んで引っ張り、相手を蹴り飛ばした。
「いってぇ。くそ、負けたか」
「なんだ、もう終わりか」
「棒をとられちゃ、もう駄目だよ。俺の負けだ」
 そう言うと少年は蝋燭を拾い上げ、火を点けた。
「あんた、やるなぁ。今まで負けたことなかったのに」
 突然変わった相手の態度に面食らいながらも翔は言った。
「勝手にお前の家に上がりこんだのは悪かった。そのことは謝る。だからちょっと、聞きたいことがある」
 その時、翔の腹の虫が鳴った。
「…その前に、何か食わせてくれ」
「あははははは。ああ、いいよ。ちょっと待ってな」
 少年は蝋燭の火を囲炉裏に移して、棚に置いてあった魚の干物らしきものを焼き始めた。
「で、聞きたいことってのはなんだい。あ、その前に自己紹介か。俺は陵。天宮陵」
「土方翔だ。聞きたいことってのはいろいろあるんだが、まずはここがどこかってことだ」
「ここか?ここは大京だよ。あんた、そんなことも知らないのか」
「ああ、何せ無理矢理連れて来られたからな。しかも俺を連れてきた連中は気が付いたときにはもう、いなくなっちまってた。しかし、たいきょうってのは初めて聞くな。平塚からどのくらい離れているんだ?」
「ひらつか?ひらつかねぇ。聞いたことないなぁ。そこから来たのかい?」
「ああ。平塚を知らないのか。割と有名だと思ってたのに。じゃあ、ここは何県だ?」
「けん?けんって何?」
「おいおい、ちょっと待てよ。ここは日本なんだろう?」
 翔は呆れ顔で言った。
「にほんって?地名?」
「おいおいおいおい、ここは何て国だ?」
「登陽だよ。あ、日本ってのも、国の名前なんだ」
「ああ、そうだ。しかし東洋ってのは、国の名前じゃないだろう」
 その言葉を聞いて、陵は少し考え込んだ。
「登陽なんて、世界中誰でも知ってるよ。…あ、ここの人間じゃないのか」
「何?」
「最近、幕府の関係者が異界の人間を探してるって聞いたけど、あんたのことかもな」
「幕府?ここは幕府が治めているのか?じゃあ、やっぱり異世界…?」
陵は困惑した顔付きの翔を見て笑いながら言った。
「あらららら。大変だね」
「人事だと思って…」
「だって、人事だもん」
 からかい半分の陵を無視して翔は考え込んだ。
「さて、どうしたものか。奴らを探さなけりゃ、どうしようもないのか…」
 翔の独り言を聞いて陵は言った。
「何だか知らないけど、誰かを探すってんなら、夜が明けるまで待ったほうがいいよ。ここにいなよ。ちょうど、焼けたみたいだし」
 陵は干物を取って一つを翔に渡し、もう一つを食べ始めた。
「済まないな。じゃあ、お言葉に甘えるとするか」
 そう言って翔の方も干物を食べ始めた。

 翌朝、大京城。ここは登陽を実質的に支配している将軍東山光秀の居城である。
「ただ今戻りました」
「うむ。久しぶりの休暇はどうだった」
「お陰様で、ゆっくりと骨休めができました」
 話をしている二人の男のうち一人は、この城の主である東山光秀。四十過ぎといったところか。左右それぞれに小姓を座らせ、自らは置かれた肘掛に触らず背筋を伸ばし、正座をしている。着物はそれほど贅沢なものではないが、将軍としての威厳を損なうようなものでもない。仰々しいものを嫌い、質素倹約を旨とする彼らしい選択、と周囲の人々は評価している。意志の強そうな目、しっかりと鍛え上げた体つき、落ち着き払ったその態度は、人間の価値は着ているものではなくその中身である、ということをよく表している。もう一方の男は南雲時人であった。
「そうか、それはなによりだ」
「では、今日から仕事に戻らせていただきます」
「いや、久々の登城でもあれば、まだ今の状況も良く分からぬであろう。今日は休暇中に提出された報告書を読むだけにしておけ」
「分かりました。そうさせていただきます。では、これで失礼します」
 南雲が一礼して部屋を出ると、そこには一人の男が立っていた。長い髪に青白い顔、そして鋭い目付き。背は高く、南雲と同じぐらいはある。しかし異常なまでに痩せているため、随分と背が高いという印象を与える。身体的な特徴と黒ずくめの服が不気味な雰囲気を醸し出している。痩せこけた頬のせいで分かりづらいが、年齢は南雲と同じくらいのようである。
「休暇はどうだった?」
「人が悪いな、知っているくせに」
 黒ずくめの男は薄く笑って続けた。
「冗談だ。それで、見つかったのか?」
「ああ」
「で、今はどこに?」
「見つかったことは見つかったのだが…」
 歯切れ悪そうな南雲にもいらつくことはなく男は話しつづける。
「どうした?」
「はぐれた」
「そうか。しかしこちらにいるのなら、すぐに見つかるだろう。ともかくこれでこっちに十二人揃ったことになる。そのうち見つかっているのは七人。後、五人か」
「しかし全てを把握しているのは、我々二人のみ。早くしなくてはな。それより、そっちはどうだ?皇子は見つかったのか?」
「まあ、大体の見当はついた。その件は私に任せて、お前は報告書でも読んでいろ。よく休め、疲れているのだろう。例の男も見つかったら、教えてやる」
「済まんな。しかし休暇から帰って来て疲れていると言うのも妙な話だ」
「全くだ」
 そう言うと含み笑いを残して、その男はそこから消えた。
(風魔、相変わらず風のような奴よ。…魔神のことを聞くのを忘れたな)

 翔と陵は話し込んでいるうちに夜を明かしてしまった。
「なるほど、大体分かった。この国は登陽。幕府が治めている。将軍の名は東山光秀。かつては天皇の一族がこの国を治めていたが、実権は今のところない。で、ここは将軍の居城、大京城の城下町の外れにある貧民街。主に戦災孤児たちが住んでいる」
「そうそう」
 陵は頷きながら答えた。
「そして最近、その幕府が異世界の人間を探している」
「いや、幕府の関係者。幕府そのものが関係あるかどうかは分からないよ」
「そうか。ま、どちらにしろ俺はそのために連れて来られたって訳だ」
「多分、ね」
「ふうむ。それで、元の世界に帰る方法なんて、知らないか?」
「さあ?普通の人間には無理らしいけど」
「となると、やはりあいつらを見つけなけりゃならないってことか」
「そうなるね。あては?」
「ない。あるわけないだろう」
「そうだよねえ」
 二人ともしばらく黙って考え込んでしまった。一睡もしていなかったため、翔がウトウトとしかけた。そのとき、陵が突然大きな声をあげたので、翔はびっくりして目が覚めた。
「そうだ」
「な、何だ?」
「その、翔を連れてきた二人組の特徴とか教えてよ。もし幕府の関係者なら、何か分かるかもしれない」
「ああ、そうか。えっと、一人は海老名龍一朗って名前だった。もう一人は、確か南雲とか言ったな。どっちも本名かどうかはわからんがな」
 それを聞き、陵は少しの間、腕を組んで何かを考えている様子であった。
「海老名っていう方は知らないけど、南雲ってのは幕府の調査官じゃないかな。聞いたことあるよ」
「本当か?」
「詳しく教えてよ」
「金髪で青い目をして、白いマントを羽織ってた」
「間違いないね。幕府の調査官、南雲時人だ」
「有名なのか?」
「南雲と風魔と言えば誰でも知ってるよ。どちらも若くして将軍の信頼厚い、腕利きの調査官だってね」
「ふうん。幕府の調査官ってことは、城に行けば会えるのか?ここから城はすぐなんだろう」
思わず翔は立ち上がり、声を弾ませて言った。
「む、無理だよ。それほどの人間にそうそう面会なんてできる訳がないよ」
「いや、しかし…」
「とにかく、詳しく調べてくるから待っててよ」
「そうか、済まないな」
 翔が腰を下ろすと、陵は立ち上がって戸を開けて外へ出て行った。
「で、俺はその間、どうしてろっての?」
 しばらくぼうっとしていたが、暇を持て余した翔は立ち上がった。
(俺を連れに来たってことは、俺のことを探しているかもしれない。ちょっと、この辺をうろうろしてみるか)
 そして翔もまた、戸を開けて外へ出た。昨夜は暗くてよく分からなかったが、この辺りは貧民街と言うだけあってひどい惨状だった。木造の家はあちこち木が腐って崩れ落ち、道は人がほとんど通った跡がなく雑草が生え始めている。最早、いつのものかは分からない戦乱の後として薄汚れ、木の部分が腐りはじめ金属部分もすでに錆が付いている矢や刀が道の脇に散らばっている。不気味に静かで、人がいる気配がしない。
(なんてところだ。でも、江戸時代の初期なんて、地方にはこんなところがあったのかもしれないな。しかし地方ならいざ知らず、将軍の居城のすぐ近くがこんなになってるなんて、幕府とやらは何をしているんだ?)
 辺りを観察しながら歩き回ってみて、いくつか気が付いたことがあった。この町は南北に長く伸びているが、あまり広くはない。しかし大きな家が多い。それなりの身分の者が集まって住んでいた地域なのだろう。そして北の道は城下町まで続いているらしく、北に近くなるほど道が道らしくなっている。逆に南の道は進めば進むほど荒れていく。ずうっと先には別の町なり城なりがあるのだろうが、かなりの距離だろう。この町の家は通り側に屋敷を置き、庭を奥に配している。さらにその外側には森が広がっている。どうやら守りやすさを考えて森の中に建てた城の周りに城下町が広がっていったのだろう。いくらか観察をして、翔は陵の家へと戻った。
「陵、戻ったぞ」
 しかし返事はなかった。
(何だ、まだ戻ってないのか)
 することもなく、翔は辺りをきょろきょろと見回した。
(お、この家にも庭があったんだ。ちょいと見てみるか)
 戸を開けて翔は庭に出た。この家自体がこの町の中では小さい方なので、庭も当然、それに見合った広さしかなかった。しかも全く手入れをしていないらしく、雑草が伸び放題になって腰の高さまできている。おまけに小さな虫まで飛び交っていて、風情というものは全く感じられない。さらに庭とその奥の森を区別する柵も壊れていて、この庭はまるで森の一部であるかのように感じられる。翔は何気なく庭から森の方を覗き見た。だが、特に何もなかったので踵を返して戻ろうとした。その時、かすかではあるが、翔の耳に何か聞こえたような気がした。目を閉じて耳を澄ませてみた。
(かすかだが、確かに声がする)
 翔はそのまま森の中へと進んで行った。

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