第八章 陰謀−芽吹く悪意

第二話 歩み始める者(2)

阿部は砦の物見塔から幕府の陣を見つめていた。昨日、少数ではあるが援軍が合流したという報告がもたらされたためである。砦から見た限りではその部隊が誰のものであるかまでは分からなかったが、それによって幕府方に何らかの動きが見られるかもしれない、と阿部は考えていた。しかし早朝からいくら待てども、朝の炊煙すら見えないほど陣に動きはなかった。塔からの見張りの当番に当たっている者達はそんな変わり映えのしない景色に飽き飽きしていたが、阿部が微動だにすることなく陣を見つめていたため、居眠りをすることもできず塔の外をぼんやりと眺めていた。
「阿部様、昼食のご用意ができてございますが…」
 気が付けば何の動きも見られないまま昼となっていた。阿部は高くなった太陽を見上げ、少し考えてから言った。
「そうだな…。食事はここに運んでくれ」
 さし当たってすることもなかったため、その場で観察を続けることとしたのだった。
 運ばれてきた食事を見て阿部は驚いた。茶碗一杯の白米に対し、七皿ものおかずが用意されていたのだ。豆腐、山菜と胡麻の和え物に野菜の煮物、そして魚や貝、それに何かの肉まであり、さらには椀物までもが添えてあった。物見当番達の方をチラリと見ると、握り飯が二つと沢庵が数切れだけであった。彼らは羨ましそうな目付きで阿部の前に並ぶご馳走を見つめていた。阿部が腕を組んで溜息をつくと、食事を運んで来た小姓が尋ねてきた。
「お気に召しませんでしたでしょうか?本日は鶴や猪、また、海の幸として鮎、鮑とできる限りのものを用意したつもりではございますが…」
 そう説明する小姓の顔を見て、阿部は何も言う気にはならなかった。その代わりに物見当番達に向かって、
「お前達、食うか?」
と尋ねた。しかし彼らは大きく首を振って。
「滅相もございません。我々はこちらで」
と言うと、目の前の握り飯に手を伸ばした。阿部は茶碗を手に取って、
「後は下げろ」
とだけ言うと、再び外の景色に視線を戻した。
(馬鹿が…。陣中でこんな贅沢をするヤツがあるか。自軍の兵に兵糧攻めを喰らっている気分だ)
 そんなことを考えながら米を口に運んでいると、幕府軍が動き出した。
(来るのか?)
 阿部は箸を止めて身を乗り出したが、幕府軍が砦から離れて南側へ移動するのを見て腰を下ろした。
(だろうな。いくら援軍があったとは言え、あの程度の数ではこの砦を取り囲むことは不可能だからな)
 しばらくその様子を眺めていると、幕府軍は数キロ、南下するとそこに陣を敷き直した。
(何故、あんな所に?何の意味がある?)
 阿部がそんなことを考えていると、塔を駆け上ってくる足音が聞こえた。ちょうど食事を終えた阿部は箸を茶碗の上に置くと、入口の方へと向き直ってその人物を待ち構えた。
「阿部様、神楽様がお呼びです。大至急、主室へお越しください」
「ああ、分かった」
 阿部はそう言うと、茶碗を小姓に手渡して塔を降り始めた。

 主室に入ると、そこには神楽のほか、河原崎と何人かの貴族が待ち構えていた。
「待ちかねたぞ、阿部殿。実は今しがた、幕府軍に動きがあってな。それでどう対応すべきかを検討しようと集まってもらったわけだ」
「なるほど」
 そう言いながらその場に腰を下ろそうとすると、小姓が慌てて神楽の隣を示した。恐らくそこに座れということなのだろう。
(まったく、貴族というヤツはどうしてこう…)
 そんなことを考えながら、指定された席に腰を下ろした。
「それで、何か具体的な案があるのでしょうか」
 阿部が神楽に尋ねると、末席に座っている男が答えた。
「幕府が軍を下げたのは、先の戦闘での被害により我らの戦力を恐れてのこと。今こそ打って出る時でしょう」
一応は貴族らしいが、まだ二十歳を超えたか超えていないかぐらいの若者である。実際には阿部と同じくらいの年齢であるが、阿部の目には随分と幼い、世間知らずのお坊ちゃんに見えた。
(武士が貴族を恐れる訳がなかろう。せいぜい、河原崎の部隊を警戒するくらいだ。そんなことも分からんかね、この坊ちゃんは。確か貝塚とか言ったか…。威勢のいいのは結構だが、早死にするぞ)
 阿部はそんなことを考えていたが、当然、口に出すことはしなかった。すると、周りの者達もその若者に続いた。
「そうです、波に乗っている今、この時を逃す手はありません」
「幕府の者共に我らの力を見せてやりましょう」
(どうやらコイツラ、河原崎の力を自分の力と勘違いしているようだな)
 阿部は呆れかえって何も言う気がなくなってしまっていたが、神楽が自分の方を見ているのに気が付いた。
(俺に答えを出せというのか…。今、出た所で無駄に兵を減らすだけだというのに)
 そんなことを考えながら河原崎の方をチラリと見ると、視線を落として黙っていた。
(どうやら最初からこの会議に参加する気はないらしいな。…仕方ない、一度は相手の食料を襲う素振りを見せなくてはならないしな)
 結論に達すると阿部は神楽の方を向いて言った。
「いかがでしょうか、神楽殿。篭城戦において早期に相手の糧食を断つは勝利への近道。先の戦において勝利を収め、また、皆の士気が上がっている今がその好機と言えるのではないかと思われますが」
 阿部の言葉を聞き、神楽は少し考える振りをしてから言った。
「うむ、阿部殿の言われることももっともである。なれば、今こそ打って出る時。先の戦の勝利にて約束した通り河原崎殿を先陣とし、幕府を討つべき。河原崎殿、今一度、その力を我らと幕府にお見せ願えますかな?」
 急に話を振られた河原崎ではあったが、伏していた顔をゆっくりと上げると落ち着いて答えた。
「いえ、これはこの戦を終わらせることにもなる重要な一戦。であれば、私などよりももっと相応しい方々がいらっしゃいますことでしょう」
 その返答が予想外のものであったためか、神楽は驚き、口を開けたまま阿部の方を見た。それに対し、阿部は黙ったまま頷いただけであった。
「ふうむ、河原崎殿がそう言われるなら…。では貝塚、青津、金平。その方らに任せよう。貝塚を先陣とし、見事、手柄を立てて見せよ」
「ははっ。この命に代えましても」
 先程、威勢良く出撃を主張した若者は、名誉ある先陣を任されて頬を紅潮させ立ち上がった。
「お任せください」
「目にもの見せてくれましょうぞ」
 青津も金平もそれに続いて立ち上がった。
(さすがに河原崎だ。良く分かっている。こいつらの力はアテになどはならんが、だからと言ってわざわざ敵に回すこともない。それに、河原崎の兵が減るのでなければ大した問題ではないからな。後はこちらの援軍到着まで適当に時間を稼いでくれればいい)
 阿部はそんなことを考えながら出陣の準備のために退室する三人の貴族の背中を眺めていた。

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