外伝1:土方翔 「霧の向こうに」

(1)

今日は朝から雨が降っていて、ジメジメとしたいやな日だ。俺は学校の授業が終わってから一度家に帰り、電車に乗って空手の道場へと向かった。目的の駅に着いて電車を降りた時、ホームに何か落ちているのを見つけた。どうやら手帳のようだ。拾い上げてみてみると『西生田高等学校』とある。生徒手帳らしい。駅員に届けようと思ったけれど、そうすると稽古の開始時間に間に合わなくなる。仕方がないので帰りにしようと決めた。しかし、稽古が終わってシャワーを浴び、道場を後にして駅に着いた時にはもうすっかり手帳のことなどは忘れてしまっていて、そのまま電車に乗り込んでいた。思い出したのはもう、三つほど駅を過ぎてからだった。稽古の後で疲れてもいたし、今さら戻るのも面倒だったので、次の機会にしようと手帳はカバンの中に入れた。
 電車を降りると、何かいつもと違う雰囲気を感じた。何だろう、と思って辺りを見回すと、ホームには俺のほかには誰もいなかったせいだった。もちろん反対側のホームにも。電車に乗っている間に一段と強くなったらしい雨が、より一層、人がいない不気味さを増幅させているように感じられた。まだ九時にもならないのに、と不思議に思いながらも階段を登って改札へと向かう。改札口にも誰もいない。駅員さえも。もっとも、自動改札だから駅員がいなくてもそれほど支障はないのだろうが。駅を出ると、たった一人だけだが、人の姿が見えた。俺は何となくホッとした。しかしその人は雨の中、傘も差さずに立ち尽くしている。近くに寄って見て分かったが、その人はセーラー服を着ていた。年齢は俺より少し上、十六、七といったところ。肩まででカットされている髪は普段では美しく流れるようなものなのだろうが、その時は雨に濡れて見る影もなかった。切れ長の目と高い鼻を持つ美人だったが、とても寂しそうな瞳をしていた。いつもの俺なら絶対そんなことはしないのに、心配になったせいかその人に声をかけた。
「あの、どうしたんですか。濡れますよ」
 すでにずぶ濡れになっている人に対してこんな言葉は滑稽にも思われたが、そう言って俺は彼女を傘に入れた。するとその女性はゆっくりとこちらを振り向いて、生気のない声で言った。
「いいのよ、放っておいて」
 それを聞いて俺は、この人は何かいやなことでもあって、ヤケになっているのだと勝手に考えた。彼女は俺の方をじっと見つめている。発した言葉に生気はなかったが、眼差しはしっかりとしている。その何とも言えないエキゾチックな瞳に、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。それは俺が彼女に恐怖心、そして表現しがたい不思議な感情を抱いたためだった。
「あ、あの、でも…」
 平静さを失って上手く喋れなくなった俺に、彼女は妖しい笑みを浮かべながらやさしく語りかけてきた。
「心配してくれてありがとう。あなたはいいコね」
 子供扱いされることを嫌う俺は、いつもならこういうふうに言われたらカッとなるところなのだが、その笑みに魅せられたのか何も言えなかった。そんな俺にお構いなしに彼女は言葉を続けた。
「もうすぐ私はこの世の全てと関わりが無くなるの。この雨は私にとって最後の思い出。だからいいのよ」
 この言葉を聞いて俺は自分の考えに確信を得た。そして彼女が何を考えているのかもすぐに分かった。自殺する気だ。
「だ、駄目だ、そんなことは」
 俺は彼女の腕を掴んでそう叫んでいた。
「ふふふ、何を言ってるのよ」
 彼女は腕を振りほどこうともせずに言った。
「し、死ぬ気でしょう。駄目だよ、そんなの」
 俺がそう言うと彼女は優雅な動作で俺の手を逃れ、雨に濡れるのも気にせず背を向けて歩きだし、両手を広げて星ひとつ見えない空を仰いで言った。
「死ぬ?そう、そうね、それもいいかもしれないわね」
 僕は彼女を追いかけて傘に入れて再びやった。
「死んでどうなるって言うんですか」
「じゃあ、聞くわ。この世に存在する理由がなくなったら、あなたならどうするの?どうするべきだと思う?」
「そ、それは…」
 ここで気の利いた言葉の一つでも投げかけてやることができれば良いのだが、しかし所詮は中学生の悲しさ。俺には何も言うべき言葉は思いつかなかった。
「わたしはもう、この世界にいる理由がなくなったのよ」
「そんな、本当にもう何もないんですか」
 すると彼女はこちらを振り返り、涙を流しながらそれでもほほ笑みを浮かべていた。
「それにね、わたしはこの世界にいるべきじゃない人間なのよ。誰にも必要とされていない、そしてもう私も誰も必要としない…」
 その言葉からこの人が男にフラれたのであろうことは分かった。そして無駄かもしれないと思いつつ、俺は言った。
「誰にも必要とされていないなんて、そんな人はいませんよ」
 彼女は目を伏せて首を横に振り、寂しげに言った。
「あなたは幸せな人生を送って来たようね」
 まだ精神的には未熟とも言える俺だったから、彼女の言っていることの意味もよく分からなかったし、反論するだけの根拠も自信もなかった。だから思い切ってこう言った。
「もしかしたら誰にも必要とされない人というのは本当にいるのかもしれない。でも、だけど、あなたは必要ない人間なんかじゃない。僕はあなたが好きになった。だからあなたがいなくなるなんて事には耐えられない。僕にとっては必要な人間なんだ。それじゃ、いけませんか」
 よくそんなことが言えるな、と自分自身でも思うような言葉だった。彼女は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに元に戻り、そして両手で俺の頬に触れて言った。
「ありがとう、嘘でも嬉しいわ」
 その様子から俺の言葉は意味がなかったことを悟った。そして俺は、何も言えずに立ち尽くしていた。
「でもあなたは私に関わっちゃ、ダメ。あなたはあなたの人生を大切になさい」
 呆然とする俺の唇に彼女は自分の唇を重ね合わせて目を閉じた。突然のことで俺は動けなかった。一瞬とも永遠とも思える時間が過ぎ、彼女は一歩下がると、やさしげなほほ笑みを浮かべてそのまま振り返り歩き去ろうとした。反射的に俺は彼女の腕を掴んだ。すると彼女はゆっくりと俺の方を向いて黙ったまま首を横に振った。それでも俺は手を放さず、じっと見つめていた。そして首から下げていた、幼い頃に祖母にもらったペンダントを彼女の首にかけ、その手に傘を握らせた。なぜそうしたのかは分からない。けれどその時俺は、
「次に会う時まで預けておきます」
とだけかすれた声で言うと、そのまま駆け出して家へと向かっていた。

 その後はどうしたのか、良く覚えていない。気が付いたときにはもう朝で、俺は濡れた服のままベッドに横たわっていた。幸いにも風邪はひかなかった。シャワーを浴びてから学校へ行くと、そこにはいつもと変わらない平凡な日常があるだけだった。とは言っても頭の中からは昨夜のことが離れず、授業に集中することなどは到底できなかったが。あの人はあの後、どうしたのだろう。何故、俺にキスをしたのだろう。そんなことばかり考えている。窓の外を見れば空は昨日とは打って変わって晴れ渡り、穏やかな風が吹いて木の葉を揺らしてはいたけれど、心の中は昨夜から霧がかかったままだった。放課後、校舎を出た時のことだった。昨夜の女性が校門前で傘を持って立っているのが見えた。自分でも心が弾むのが分かった。中学校の校門の前に高校生が立っていることなど、普通はありえない。下校中のほかの生徒たちも不審な目を向けて通り過ぎていく。彼女の方へと行けば俺も注目を浴びるだろう。しかしそんなことはお構いなしに俺は駆け出して行った。彼女も俺に気が付いたらしく、こちらを向いた。表情一つ変えなかったが。俺は彼女に向かって思わずこう言った。
「良かった、ちゃんと、ちゃんといるんだ」
 そんな俺の言葉を無視して彼女は首からペンダントを外し、傘と一緒に俺に手渡した。
「どうして僕の学校が分かったんですか?」
「調べれば分かるわ。この辺りには中学校は一つしかないもの。それよりも、ちょっと話をしない?」
 断るはずもなく、俺たちは近くの公園へと行った。あまり広くはない公園だが、静かで緑も多く俺のお気に入りの場所だった。俺達はベンチに並んで座ったが、彼女は何も言わなかった。それどころか俺の方を向くことさえしなかった。しばらく沈黙が続いたが、やがて彼女は、やはり俺の方を見ずに呟くように言った。
「あなた、今、幸せ?」
「え、ええ、まあ…」
 不意を衝かれた俺は曖昧にしか答えることはできなかった。そんな答えで満足したのかどうか分からないが、彼女はただ一言、
「そう」
と言っただけであった。その後、彼女は黙ってしまった。その沈黙に耐え切れなくなり、俺は言った。
「あの、気分はどうですか。落ち着きましたか?」
 言ってから後悔した。彼女がここにこうして来ている以上、そんなことは聞く必要のないことだった。それにきっと、彼女につらいことを思い出させてしまうだろう。
「あなたは真っ直ぐなコね。そう、その目。全てを見下していた目をしていたあの人とは違うわ」
 彼女は俺の目をジッと見て、微笑みながらそう囁いた。風に揺られた彼女の髪がほのかに香る。緊張を隠すため、俺は何かをしゃべらなければならなかった。
「『あの人』って、誰ですか?」
 よせばいいのに掘り返してしまった。おそらく彼女の言う『あの人』こそが昨夜の涙の原因だろう。
「あの人は…、あの人は世界の全てを否定していたわ。全てを見下し、蔑んでいた。でもわたしにだけは違う目を向けてくれていた。いいえ、わたしが勝手にそう思っていただけね。あの人は本当はわたしのことなんて見ていなかっただけ。あの人の方から連絡をしてくることもなければ、『好きだ』という一言さえなかった。あの人にとってわたしはいてもいなくても同じだったんだわ」
 ベンチから立ち上がり、澄み渡った空を見上げながら彼女は言った。やはり思い出させてしまったようだ。しかし不思議なことに彼女の表情には悲しみの色はなく、むしろ微笑んでさえいるかのように見えた。もう吹っ切ってしまっているのだろうか。
「あ、あの…」
 俺は意味を持った言葉をしゃべれなくなっていた。それでも何も言わずにはいられなかった。しかし彼女に先手を打たれた。
「ごめんなさい、こんなことを話すつもりじゃなかったのに。傘とペンダントを返して、一言だけお礼を言って別れるつもりだったのにね」
 それならばなぜ、『話をする』などと言ったのだろうか。不思議に思っていると、俺の方へと向き直った彼女は真剣な表情をして言った。
「あなたと会うのはこれが最後。わたしと出逢ったことは忘れて。そうしなければ、わたしはいつまでもここにいることになってしまうわ」
 彼女の言葉が何を意味しているのか分からなかった。しかし、これを『最後』としたくはなかった。もうこの時には、年上の、しかも名も知らぬ女性に対して特別な感情を抱いていることを否定できなかった。そんな俺の気持ちをよそに彼女は
「さようなら」
とだけ告げ、その場を立ち去った。躊躇いのせいかそれとも迷いのせいか、俺は彼女の後を追うことはできなかった。

 その夜、塾があることを思い出した俺は、友人と一緒に塾へと向かった。友人はどうやらプロ野球の話をしているようだったが、俺は集中できず、生返事ばかりしていた。
(どうして追わなかったんだ。名前さえ聞いていないのに…。きっともう、彼女の方から会いに来ることなんてことはないだろう)
 ただ後悔だけがずっと頭の中にあった。そんな調子だから塾の授業中も上の空で、何度も講師に注意された。
(今日は来てもあまり意味がなかったな)
 授業が終わってそんなことを考えながらノートを鞄にしまっていると、一人の女の子が俺の前に立った。
「土方君、元気ないのね。どうかしたの?」
 この少女は羽諸澪。ショートカットで大きな目をした活発な感じの女の子だ。違う中学校だが、この塾の中では唯一、俺と同じ学校を志望している。そのため、同じテストを受けることが何度かあり、話をするようになった。塾でしか会わない仲だし、また、わざわざ理由を他人に話すことはないので、適当に答えることにした。
「いや、別に」
「そう?ね、途中まで一緒に帰りましょう」
「俺、友達と来てるから」
 そうは言ったものの、きっと一緒にいるのが彼女であろうと友人であろうと、今の俺ではまともに話などできはしなかっただろう。
「こんな夜道を女の子一人で歩かせるの?」
 羽諸さんは冗談っぽく言った。しかし考えてみれば冗談では済まないかもしれない。この塾で羽諸さんと同じ学校の人はいなかったから、いつもは一人で帰っているのだろう。だが、最近は変なのが多い。何事か起きるこの可能性もないとは言えない。ちょっと心配になった俺は羽諸さんに言った。
「ツレも一緒だけど、いいかい?」
「うん」
 俺は羽諸さんと一緒に友人のいる教室へと向かった。学習塾というのはどこもそうかもしれないが、この塾は成績でクラスを編成している。残念ながら俺と友人との学力にはいくらかの開きがあったので、別々のクラスになっている。目的の教室に着いてドアを開けると、中には友人を含め数人の生徒と講師が残っていた。俺の姿を見るなり友人は、
「先生、ちょっとすいません」
 と言うと席を立って俺の方へ来た。
「悪い、ちょっと補習なんだ。先に帰っててくれよ」
「わかった、がんばれよ」
 それだけ言うと、俺は教室を出てドアを閉めた。
「お友達は?」
「補習だってさ。二人で帰ろう」
「待ってなくていいの?」
「そしたら君が遅くなるだろう」
 そう言って俺は下駄箱へ向かった。羽諸さんも俺の後をついてきた。建物を出て街頭に照らされた道を歩きながら、俺はやはりあの名も知らぬ女の人のことを考えていた。幸いにも羽諸さんは一言もしゃべらなかった。正確に言うならば、羽諸さんのことを全く見ていなかったが声が聞こえなかったので、しゃべっていないと思っただけだったが。そうしてしばらく歩いているうちに、俺の視界に突然、羽諸さんが現れた。うつむいていた俺の顔を覗き込んでいる。驚いて立ち止まると、羽諸さんは難しい顔で俺のことをじっと見ながら言った。
「元気がないというより、何か別のことを考えているのね」
 結構、鋭い娘だ。
「別に大したことじゃないよ」
「うそ。大したことじゃないなら、授業中、あんなに注意されたりはしないわ。一体、何を考えてるの?」
 正に羽諸さんの言う通りだが、わざわざ説明することではない。その代わり、俺は一つの質問をした。
「羽諸さんって、彼氏とかいるの?」
 あの女の人は恋人と別れたようだった。俺にはまだ経験がなかったから分からないが、恋人と別れることになった時というのはどういうものなのだろうか。やはり死にたくなるほどに辛いことなのだろうか。羽諸さんに恋人がいるとしたら、もし別れなければならなくなった時にどうするのだろうか。そんな思いが頭をよぎり、彼女に質問してみたのだ。
「土方君ったら、いきなりなのね」
 確かにいきなりだったかもしれない。
「いや、別に答えたくないならいいよ」
 羽諸さんはしばらく俺の顔を見ていたが、真剣な表情をして言った。
「彼氏はいないわ。好きな人、っていうか、気になる人はいるけどね。でもまだその人のことはよく分からないし、すぐに判断は下せないわ」
「そっか、すぐには判断できない、か。俺は割合、すぐだったなぁ」
 そう呟いてあの女の人のことを思い出していると、羽諸さんは首を横に振って言った。
「ううん、すぐでも全然構わないと思うわ。その気持ちが本当なら。だけど相手もすぐに判断できるとは限らないでしょ?だから、もうちょっと待ってね」
 何を待つのかよく分からなかったが、真剣に答えてくれた羽諸さんに一応、お礼は言うことにした。
「ありがとう。悪かったね、こんなこと聞いて」
「ううん。わたしの方こそ、ゴメンね」
 羽諸さんが何を謝っているのか分からない。しかし、羽諸さんに彼氏がいない以上、さらに質問を続けるのは無理と判断して俺は考え事を続けた。
(なんとかしてもう一度、あの女の人と会うことはできないか。せめてもう一度、話をしたい)
その後は再び、羽諸さんも一言もしゃべらなくなっていたので、別れる道まで一切の中断をされることなく考え事をすることができた。とは言っても、結局何の結論も得られないままではあったが。

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