外伝1:土方翔 「霧の向こうに」

(2)

翌日になっても、俺の心の中には霧がかかったままだった。学校でもやはり上の空だったが、幸い、今日は指されることもなかったので、昨夜の塾でのように醜態を晒さずに済んだ。授業が終わって帰り支度をしていると、ノートの間から一冊の手帳が落ちた。拾い上げてみると、どこかの学校の生徒手帳だった。道場に行った日に拾ったものらしい。あの日はもっと衝撃的な出来事があったため、こんなものの存在はすっかり忘れていた。いつの間にかノートの間に紛れてしまったようだ。やはり届けるべきだろう。しかし、あれから日数も経っている。今さら駅に持っていくのも気が引けるし、かと言って警察というのも大袈裟な気がした。学校まで行くにしても、西生田と言えば川崎だ。たぶん、駅は百合ヶ丘か。ここから一時間半くらいはかかるだろう。そこまで行くのもちょっと面倒だ。どうしたものかと思いながら何気なく手帳をパラパラとめくってみた。他人の手帳の中身を見るなどというのは本来、褒められた行動ではない。たぶん、中に何か書かれていたらすぐに閉じてしまったであろう。だが全てのページは白紙で何も記入されていなかったので、罪の意識もなく俺は手帳をめくり続けた。そうしているうちに、最後のページにこの手帳の持ち主の名前と写真が載っているのを発見した。それを見て俺は驚いた。あの女の人だ。
(事実は小説より奇なり、ってやつか)
 西生田高校・霧生風花。『きりゅうふうか』と読むらしい。2年4組。俺よりも三つ年上だ。手帳から得られた情報はそれだけであった。本人の住所や電話番号も載っていない。あるのは学校のものだけだった。俺は時計を見た。今日は土曜日、今はまだ昼過ぎだ。
(間に合うか?いや、着く頃にはもう帰っているだろうな)
 頭ではそう考えてはいたが、俺はすぐに教室を駆け出してそのまま学校を後にしていた。いつもは学校へ行く時に財布などは持ち歩かないが、今日は土曜日なので帰りに昼食を採るつもりで財布を持って来ていた。俺は直接駅へ向かい、切符を買ってホームへと走った。偶然にも電車が来ていた。電車に乗り込んだ俺は、駅について人が乗り換えるたびにそれをじれったく思いながらも、百合ヶ丘に到着するのを待った。百合ヶ丘に着いた途端、電車を飛び出したが、改札を通った時に肝心なことに気がついた。学校の場所を知らないのだ。手帳に書かれている住所だけで分かるはずもない。俺は駅員を一人捕まえ、西生田高校の場所を尋ねた。駅員によれば駅からバスで十分ほどの距離だということだが、バスを待つなどというまだるっこしいことはしていられなかったので、俺は走って駅員に教わった方向へと向かった。

 坂の多い長い道のりを走って西生田高校に着いた時、ちょうどどこかの運動部がランニングから戻ってきたらしく、ジャージ姿の生徒達が校門の前で座って息を切らせながら休んでいた。ちょうどいいと思った俺は、そのうちの一人に聞いた。
「2年生の霧生っていう人、知ってますか」
「何、お前。中坊?」
 その男は俺の質問には答える代わりにそう言った。確かに、学ランの中学生に突然、そんな質問をされれば不審に思うかもしれない。しかし俺はそんなことは意に介さず、質問に対する答えを待った。するとその男は横を向いて叫んだ。
「センパーイ、この中坊がなんか2年の人探してるみたいなんスけど」
 男の叫びに反応して、上級生と思しき一団がやってきた。
「なになに、お前、誰かの弟?」
「誰、探してんの?」
「殴りこみ?」
「ナンパじゃねぇの?」
 高校生達に囲まれて一瞬ひるんだが、こんなところで時間を潰している訳にはいかない。
「2年生の霧生って人を探しているんですけど」
「きりゅうって、お前知ってる?」
「知らね」
「誰それ」
「何組?」
「4組です」
 俺は間髪いれずに答えた。
「4組だってよ。沖原、お前4組だろ」
 沖原と呼ばれた男はちょっと考えたが、
「きりゅうなんてやつ、いたっけかなぁ」
と言って、首を傾げた。
「あ、分からなければいいです。じゃ」
 そう言って俺は逃げるようにその場を去った。ほかに誰か親切に答えてくれそうな人がいないかと探していると、『事務室』という案内板が目に入った。事務室で聞けばきっと、在校生のことはわかるだろう。俺はその案内板の指し示す方向へと向かった。事務室は生徒用の出入口から少し離れた所にあった。これから帰るらしく下駄箱で靴を履き替えている生徒達を横目に見ながら、事務室へ入った。正確には事務室の受付口自体が建物の中にあり、来客用のスリッパに履き替えて受付口へ来ただけだったが。
「すいません」
 受付口から事務室を覗くと、事務員はお茶を飲みながらテレビを見ていたので、大きな声を出して呼ばなければならなかった。
「はい、なんでしょう」
 おばさん一歩手前の女性がこちらにやって来た。
「あの、2年生の霧生という人の住所を教えてほしいんですけど」
 それを聞くと、事務員はちょっと困ったような顔をした。
「あなた中学生?ここの生徒じゃないわよね。悪いけど、そういった個人情報は教えられないのよ。あなた、その人とどういう関係なの?」
「実は生徒手帳を拾ったので、届けようと思いまして」
 そういって俺は手帳を出した。
「ちょっと見せて」
 事務員に言われるまま手帳を差し出すと、一番後ろのページを確認して言った。
「確かにウチの生徒の物みたいね。分かったわ、これはこっちから渡しておいてあげるから。ご苦労様」
 それだけ言うと事務員は手帳を持ったまま、再び部屋の奥へ行ってしまった。考えてみれば当然の成り行きだった。俺は自分の迂闊さに腹が立った。

 生徒手帳は取り上げられてしまったが、通っている学校は分かった。しかも、学校は川崎なのに平塚にいたということは、この近くに住んでいる可能性が高い。駅の前で再び出会うこともあるかもしれない。そんなことを考えながら西生田高校を後にし、坂道を下って行った。考え事をしていると、肩を掴まれたので驚いて振り返った。そこには、先程の運動部の集団で沖原と呼ばれていた男がいた。息を切らせているところを見ると、どうやら走ってきたらしい。沖原氏は呼吸を調えながら言った。
「まったく、人が声を掛けてるんだから振り向くくらいしろよ」
 どうやら考え事をしていたせいで気が付かなかったらしい。
「あ、すいません。それで、何か?」
「ああ、霧生のことだ。会えたのか?」
「いえ…」
「だろうな」
 この男は何かを知っているらしい。
「どういうことですか」
「ああ、さっき聞かれた時はすっかり忘れてたんだが、霧生ってのは転校生だ。なんか、京都の方から引っ越してきたとか言ってたな。とは言っても、つい2、3日前に挨拶に来ただけでそれっきり学校には来ていないんだけどな。だから俺も名前を聞いてもすぐにはピンとこなかったんだ。で、知り合いか?」
 俺はどう答えたものかと迷い、曖昧に答えた。
「ええ、まあ」
「そっか。じゃ、もし会ったら、ちゃんと学校に来るように言っておいてくれ」
「わかりました。わざわざすいません」
「いや。じゃあよろしく頼むぞ」
 そう言うと男は、降りてきた坂を駆け登って行った。

 家に帰ってきた時、今日は道場へ行く日であることを思い出したが、気が乗らなかったのでやめた。そして誰もいない家で、居間のソファに横たわって考え事をしていた。沖原という男の話からすれば、あの霧生風花という女の人が神奈川に来たのは最近だ。だとすれば彼女に起きた事件は、まだ京都にいた時のことだろう。転校して来てから学校に行っていないのであれば、知り合いは極端に少ないということになる。場合によっては家族以外、誰も知らないということもありえる。二度目に会った時には、もう吹っ切れていたようだったが、何かのきっかけで再び心が負に傾くこともあるだろう。その時、相談できる身近な人間がいないとなると、気持ちはどんどん沈む一方だ。俺は彼女のことが心配になった。もし、この近くに住んでいるとしたら、どこかで会えるかもしれない。そう思って外に出た。もちろん、あてなどはない。俺はあたりを見回しながら、夕暮れの町を歩き回った。初めて彼女と会った駅の周辺、自分の学校近辺、彼女と行った公園、たくさんの人が住んでいる団地や住宅地、人通りの激しい商店街…。人の少なくないこの町で、どこにいるのか分からない、いや、この町にいるのかどうかさえ分からない人を探すなど、到底できようはずがない。ちょっと考えてみれば分かることだ。しかし、それでも俺は家でじっとしていることはできなかった。気が付けばもう日は完全に沈み、どのくらい歩いたのかも分からなくなっていた。そうして何度目かの商店街に来た時、本屋から出てくるセーラー服の少女が目にとまった。残念ながらあの女の人ではない。羽諸さんだった。
「あら、土方君」
 俺は軽く手を上げて答えた。羽諸さんは小走りに俺の元へ来て言った。
「夜遊び?」
「違うよ」
「分かってるわよ。まだ八時にもなっていないものね」
 こうして話をしている時間も惜しかったが、邪険に扱うわけにもいかない。俺は彼女の格好を見て何気なく言った。
「羽諸さんこそ、土曜だってのにまだ制服なんか着て、どうしたの」
「部活よ。わたし、バスケ部なんだ」
「あ、そうなんだ」
 本当に何気ない一言のつもりだった。しかし俺の言葉は話題を広げてしまったようだ。
「本当はもっと髪を伸ばしたいんだけど、バスケやるのに邪魔だから短くしてるのよ。高校に入ったら伸ばそうかしら」
「短いのも似合ってるけどね」
「そう?ありがと。ね、土方君って何部?」
「部活はやってないんだ。空手の道場に通ってるから」
「空手?カッコイイ!もしかして、これから練習に行くところ?」
「いや、今日は休んだ」
「何か用事?あ、今からどこかに出かけるんだ」
「そういう訳じゃないけど」
「じゃあ何?散歩?」
「まあ、そんなような…」
「じゃあ途中まで送っていってよ。空手家のボディーガードなんて頼りになるわ」
 これ以上、霧生さんを探したからといって見つかるとは思えなかったし、それに何だか断りづらい雰囲気だったので、俺は羽諸さんを家まで送って行くことにした。
「いつからやってるの?」
「え?」
「空手」
「ああ、小学校4年の時からかな」
「じゃあもう5年ぐらいね。もしかしてケンカとか強い?」
「さあ、実戦は経験ないから」
 そんな話をしながら商店街を抜けて住宅地に差し掛かった時、セーラー服の少女が街頭の下に立っているのを見つけた。あの女の人だ、間違いない。俺は羽諸さんが一緒にいるのも忘れ、駆け出した。
「霧生さん」
 彼女は驚いた顔をして俺の方を向いた。
「あなた…、どうして私の名前を?」
「生徒手帳を落としたでしょう。僕が拾ったんです。学校に届けておきました」
「誰?土方君、知り合い?」
 ちょっと離れた所にいる羽諸さんが、怪訝な顔でこちらを見ていた。
「あら、可愛い彼女ね」
 霧生さんは微笑んで羽諸さんの方を見た。俺は慌てて否定した。
「違います、同じ塾の人です」
 羽諸さんは俺の隣に来て、小声で囁いた。
「高校生?どういう知り合いなの?」
 俺はそれに答える代わりに言った。
「悪いけど、ここから先は一人で帰ってくれないか」
 羽諸さんは一瞬、何かを言いかけたようだったが、その口をいったん閉じてから言った。
「分かったわ、じゃあまたね」
 羽諸さんが立ち去るのを見送っていると、後ろで霧生さんが言った。
「つれないのね。ダメよ、ああいう女の子は大事にしてあげなくちゃ」
 その言葉を無視して俺は言った。
「何をしていたんですか、こんなところで」
「あなたには関係のないことだわ。それよりも、言ったでしょう?わたしに関わっちゃダメだって」
「でも僕は…」
 言いかけた時、俺を見つめる彼女の真っ直ぐな眼差しに耐えられなくなり、一度、目を逸らして言葉を切った。臆してしまった俺は、最初言おうと思っていたこととは別のことをしゃべっていた。
「学校にも行かないのに、どうして制服なんて着てるんです?クラスの人が心配していましたよ、全然学校に来ないって」
「それこそあなたには関係のないことだわ」
 そういう言われたが、今度は引き下がらなかった。
「以前に何があったのかは知りません。でも、せっかく引っ越して来たんだから、京都でのことは忘れてこっちで新しい生活をしてみようとは思わないんですか?学校へ行かなきゃ、それもできませんよ」
「ダメよ。あの人の代わりなんて、いるはずがないわ」
「いつまでも前のことを引きずっていちゃ、駄目ですよ。ここでもきっと、あなたを必要とする人が見つかるはずです」
「年下のコにそんな風に言われるなんてね」
 そう言った彼女に怒った様子はなく、むしろ笑っていた。
「あ、…すいません、生意気なことを言って。でも、生きていればいいこともありますよ。なんて言うか、生きてて意味があったと思える時がきっと来ますよ」
 俺の言葉を聞き、彼女は無表情で答えた。
「生きていることに意味なんてないわ」
 彼女は抑揚のない声で続けた。
「人生に意味があると思っているのは人間だけよ。例えばあなたが虫だとしましょう。生まれてすぐにもっと大きな生き物に食べられてしまったとしたら、それも意味のある生涯なのかしら?それとも、虫の生涯には意味はなくて、人間の生涯には意味があるの?生きとし生けるもの全ての中で、人間にだけはその生涯に意味があるのかしら?そんなのは人間の傲慢よね。誰がどう生きようがいつ死のうが、意味はないのよ。人間だって他の動物と同じ。『生きる意味』なんていうのは、人間が自分たちを他の動物とは違うと思い込むために勝手に人間が作ったものよ」
「それは…、そうかもしれないけれど、でもせめて自分自身だけでも自分の人生を納得して生きていくべきだと思うし…」
「じゃあ、自分が納得したうえで死ぬっていうのはいいのかしら?」
 俺はその質問に答えることができずに黙ったまま彼女を見つめていた。すると彼女は微笑みながら言った。
「ごめんなさい、意地の悪い質問だったわね。…きっとあなたはそうやって今まで生きてきたのね。そしてこれからもそうして生きていくのでしょう。そう、『人間』だものね」
 最後の言葉は、皮肉を込めて言ったものかどうかは分からなかった。だが、不思議といやな気分はしなかった。むしろ、『人間』と言われたことに誇りすら覚えた。そんな俺の考えをよそに彼女は溜息をついて言った。
「ダメね。あなたといるとついしゃべり過ぎてしまうわ。あなたは私と関わってはいけない人間なのに。…今度こそ本当にさようなら」
 そして彼女は立ち去った。やはり今度も、俺は彼女を追うことはできなかった。

前の話へ  外伝目次へ戻る  ホームへ戻る  次の話へ