外伝1:土方翔 「霧の向こうに」

(5)

それから何日間か、俺は学校を休んでいた。
(結局、あの人にとって俺は必要な人間ではなかったんだな)
そんなことを考えていると、もう何もする気が起きなくなった。学校に行く気にもなれなかったし、それどころか外に出ようとさえ思わなくなっていた。日中は両親ともに仕事なので布団の中で具合の悪い振りをする必要はなかったが、だからといって何かすることがある訳でもない。ただ一日中ぼんやりとしているだけだった。時折、彼女の残していった手紙を見て、後悔、そして何とも言えない虚無感に襲われる。そんな日が何日か過ぎたある日のことだった。玄関で呼び鈴が鳴った。夜ではあったが、両親はまだ帰っていない。仕方なく俺は玄関へ行き、ドアを開けた。そこには羽諸さんがいた。
「どうしたの?」
「それはこっちの台詞よ。ここのところ、ずっと塾、休んでるじゃない。聞けば学校にも行ってないっていうし」
 彼女は何か、怒っているかのように見える。
「いや、ちょっと体調が悪かっただけだよ」
 そう言って話を打ち切ろうとした。
「ちょっと悪いだけでそんなに何日も休まないでしょう。最近、何か悩み事があったみたいだし。何かあったの?」
 何も答えたくなかった。羽諸さんは今度は心配そうな顔つきで俺を見ている。しばらくそのまま両者とも黙っていたが、やがて羽諸さんは半開きのドアをこじ開けた。
「ちょっと上がらせてもらうわよ」
 そう言った時にはすでに勝手に上がっていた。こうなっては仕方がない。俺は居間に彼女を招き入れ、彼女のために紅茶を入れた。
「それで、どうしたの?」
 俺が紅茶をテーブルに置いてソファに腰掛けた途端、彼女は尋ねてきた。しばらく黙っていると、羽諸さんは出された紅茶に手もつけずにじっと俺を見ている。話したくはなかったし。どうせ話しても分かってもらえないだろう。そう思った時、俺の口は勝手に開いていた。
「放っておいてくれよ。もう、どうでもいいんだ」
「勝手に上がったのはわたしだけど、紅茶まで入れてくれてそれはないでしょう。ちゃんと話して」
 いつになく羽諸さんは強い口調だ。このまま黙っていても、きっとずっと俺のことを見続けているだけだろう。俺は観念した。
「苦しんでいる人がいたんだ。俺はその人を救いたかった。でも、できなかった。何もできなかったんだ」
「え?どういうこと?ちょっと抽象的過ぎて、言ってる意味がよく分からないんだけど…」
 やっぱり分ってもらえるはずもない。それでも俺は、なるべく分かりやすいように言い直した。
「その人は生きる理由を見失っていた。だから俺はそれを見つける手助けをしたかった。でも、俺は何の役にも立たなかったんだ」
「そうなの…。それでその人は今は?」
「俺とは別の人が生きる理由を与えた。俺じゃない、別の人が救ったんだ」
「そう、ならいいじゃない。その人は救われたんでしょう。ならそれでいいんじゃないの?」
 そう言われて俺はハッとした。自分が何もできなかったことばかりが心の中に残り、彼女自身が自分の生きる意味を見つけたことに対しては何も考えていなかった。それでも俺は
「ああ」
と答えた。それを聞いた羽諸さんはカップを手にして紅茶を一口の飲んだかと思うと、目を伏せて、まるで俺の心の内を見透かしているかのように言った。
「自分でその人を助けたかったけれど、それができなかったのが悔しいのね。でも、土方君はその人のために何かをしようと努力した。その気持ちが大事なんじゃないかしら。そして他の人の手によってでも救われたのなら、それは喜ぶべきことよ」
「それは分かっている」
 本当は分かってなどはいなかった。羽諸さんに言われて、初めてそう思えるようになったのだ。
「その人はきっと、土方君にとって大切な人だったのでしょう。だから土方君自身の手で何とかしてあげたかった。でも本当はその人を大切に思っているようで、自分のことしか考えていなかったんじゃないかしら。自分の手で救いたい、というよりも自分でなければ救えない、と。その人にとっても自分が大切な人間だと信じたかったから。だからその人は救われたのに、土方君はそれを喜ぶことさえできなかった」
 羽諸さんの言葉が鋭く胸に突き刺さる。確かにその通りだろう。そしてそこまではっきり言われると、何も言い返せない。
「ごめんなさい、こんな言い方をして。でもきっと、その人も土方君に感謝しているはずよ。結果的に別の人の手によって救われたとしても、土方君がその人のために一生懸命、何かをしようとしたのは紛れもない事実だもの」
 俺は頭を振って叫んだ。
「それは違う。俺は結局、彼女を救うためと言いながら、自己満足のために彼女に迷惑を掛けていただけだったんだ」
「そう思ってしまうのも分かるわ。でも、その行動がどういう気持ちから出たもので、どういう結果を招いたとしても、土方君は『いいこと』をしたんだわ。だからもっと、自分を許してあげて」
 そう言われて俺はしばらく黙っていた。羽諸さんも一言もしゃべらない。この沈黙を破ったのは、電話のベルであった。あまり気が向かなかったが、そのままにもしておけなかったので受話器を取った。
「はい、土方です」
「あ、翔、起きていたのね。ちょっと今日、お父さんもお母さんも帰れないから、悪いけど夕飯は適当に済ませてね」
「うん、おかゆでも作って食べるよ」
 そう言って電話を切って再びソファに座ると、羽諸さんが尋ねてきた。
「誰から?」
「親」
「何て?」
「仕事が遅くなるっていうだけ」
「じゃあさ、わたしがご飯、作ってあげるわ。どうせ何も食べていないんでしょう?」
 突然、何を言い出すのか。どう答えたものか迷っていると、羽諸さんは立ち上がって言った。
「大丈夫、おかゆくらい作れるわよ」
 どうやら電話でのやりとりが聞こえていたらしい。親には体調が悪くて休むと言った手前、おかゆと言っただけであり、実際にはどこか悪いわけではない。
「じゃ、台所、借りるわね」
 今日の羽諸さんの様子では断っても聞かないだろう。しかたなく台所へ案内し、調理器具や食材の場所を教えた。その後、しばらく羽諸さんは台所にこもっていた。包丁の音やコンロの火を点ける音が聞こえてくる。やがて羽諸さんは土鍋とレンゲを持って戻って来た。
「お待ちどう様。熱いから気をつけてね」
 そのおかゆは刻んだネギが入っていて卵を落としたものであった。あまり食欲はないが、全く手をつけないのも悪い。俺はレンゲを手に取り、蓋を開けて食べ始めた。いつも母親が作ってくれるものとは違う味がした。
「どう?」
 羽諸さんは俺が食べる様をじっと見ている。
「うん」
「そうじゃなくて、おいしいとかまずいとか、何か言うことがあるでしょう」
「おいしいよ」
「良かった。ウチのお母さんが体、弱くってね。わたしが代わりに作ることがよくあるから、料理にはちょっと自信があるの」
「ふうん」
「それよりも、本当に体調が悪いの?」
「いや、本当のことを言うとちょっと落ち込んでて、外に出る気になれなかっただけなんだ」
 食事をして落ち着いてきたせいか、気がつけば素直に答えていた。
「じゃあ、別におかゆじゃなくても構わなかったのね」
「まあね」
「ひょっとして、有難迷惑じゃなかった?」
 羽諸さんは伏目がちに俺を見た。
「そんなことはないよ。わざわざ俺のために作ってくれたんだ。嬉しいよ」
「そう、良かった。…自分ではちゃんと分かっているのね」
 最後の方は呟くような声だった。聞き取ることはできたが、その意味が分からずに尋ねた。
「分かっているって、何が?」
「何でもない。気にしないで」
 何でもないことはないだろう。羽諸さんは意味のないことなどは言わない。だが、羽諸さんが答えない以上、その意味は自分で考えるべきことなのだろう。
「食べ終わった?じゃあ、洗ってきちゃうわね」
 そう言うと羽諸さんは立ち上がって土鍋を手にした。
「いや、いいよ。そこまでしなくて」
「いいからいいから。それとも、これ以上はかえって迷惑かしら?」
「いや、有難いけど…」
「じゃあ洗ってきちゃうわ」
 そう言うと彼女は食器を持って台所へと向かった。母親の体が弱いということは、食事だけに限らず家事は一通りこなせるのだろう。明るくて活発で頭もよく面倒見もいい。相談というか、悩み事も聞いてくれる。俺と同い年だが、何だか『お姉さん』といった感じだ。逆に自分がひどく頼りなく感じる。ちょっとしたことですぐに悩み、他人に心配をさせてしまう。今だって家に閉じこもって、いつまでも同じことを考えている。
(俺は何をやっているんだ。…子供だな、本当に)
 そんなことを考えていると、羽諸さんが戻ってきた。
「じゃ、わたし、そろそろ帰るわ」
「うん、今日はありがとう」
 本当に素直に、心からその言葉が出てきた。
「ううん、いきなり押しかけてきてゴメンね」
「いや、心配して来てくれたんでしょう?それに話を聞いてくれてちょっと気分も落ち着いたし」
「じゃ、明日は塾に来られるかしら?」
「うん」
 羽諸さんはやさしく微笑んで頷いた。
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」

 翌朝、朝食のために居間へ行くと両親はもう帰って来ていた。
「あら翔。今日は朝ごはん、食べるの?」
「うん。学校にも行くよ」
「あらそう、問題が解決したのね」
 俺はそれを聞いて驚いた。
「な、なんで…」
「わたしもお父さんも医者よ。あなたが具合悪くて学校を休んでいるんじゃないことぐらいは、すぐに分かるわよ」
 それはそうだ。考えてみれば当たり前のことだった。
「悩み事か何かあったんでしょう?」
「なんで分かるの?」
「休んでいたわりには出かけた様子がないもの。ずっと家にいるってことは何か考え事とかしていたってことでしょう。それに半月ほど前から様子がおかしかったものね」
 さすがは親と言うべきか。よく見ている。ちょうどその時、父親も起きてきた。
「お、翔。もういいのか」
「うん」
「そうか。しかし自分で解決するとは俺の見込んだ通りだな」
「お父さんたら、わたしがどうしたのか聞こうとしたら、『あいつは自分で解決できるはずだ。余計な心配はせずに見守っていてやろう』って言って止めるんですもの」
 そこまで評価してくれたのは嬉しいが実際は違う。
「いや、自分一人で解決した訳じゃないんだ。友達に話を聞いてもらったんだ」
「そうか。ま、そういう友達がいるのはいいことだ」
「そうね、そういう友達は大切にしなさい。きっと、一生付き合っていける人だから」
「うん」
 俺は朝食を済ませ、学校へと向かった。

 久々の教室はちょっと入りづらかった。俺が教室に入ると、みんなが俺を見た。もっとも、まだ早い時間だったので、人数はそれほど多くはなかったが。
「おう、土方。もう大丈夫か」
「おはよう、土方君。何の病気だったの?」
 色々と聞かれるのは仕方がない。俺は適当に誤魔化して答え、自分の席に着いた。その途端、同じ塾に通っている友人が俺の前の席に座って聞いてきた。
「昨日、羽諸さんが来ただろう」
「なんだ、俺が休んでたこと、お前が教えたのか」
「ああ。で、どうだった?」
「どうって…、ちょっと話しただけだよ」
 本当はそれだけではないが、わざわざ全部はなす必要もないだろう。
「何だよ、しっかりしろよ。塾の帰りだって、わざわざ気を遣って先に帰ってるっていうのに」
 この友人は勘違いをしているようだ。
「ま、病気だったんじゃしょうがないか。塾で会ったら礼のひとつでも言っておけよ」
 それだけ言うと友人は、俺が勘違いを訂正する間もなく去ってしまった。やがてチャイムが鳴り、授業が始まった。久々の授業はついていくのがちょっと大変だったが、教科書を読み、ノートを取っていると何となく日常に帰ってきたと感じる。霧生さんとの出会いから別れまでが遠い過去の出来事か、あるいは夢であったかのように思われてくる。あの人が今、どうしているのか知らない。だが、再び生きる意味を持つことができたのだから、もう大丈夫だろう。今ならそう思える。これもきっと、羽諸さんのお陰だ。羽諸さんは俺が迷っている時、悩んでいる時に言葉をくれる。そう言えば『そういう友達は大切にしなさい。きっと、一生付き合っていける人だから』と母親が言っていた。確かにそうかもしれないな、と思った。

 塾に着くと羽諸さんはもう来ていた。
「ちゃんと来たのね、えらいえらい」
「来るって言ったじゃない。それより、昨日はわざわざありがとう」
「ううん、気にしないで。今日、一緒に帰れる?」
 たぶん、友人は先に帰ってしまうだろう。
「大丈夫だよ」
「じゃ、一緒に帰りましょう」
 ちょうどその時、講師が教室に入ってきたので、俺と羽諸さんは自席に戻った。塾の授業は学校よりも進んでいたため、ついていくのはなお大変で、テキストを何度も遡りながら聞く破目になった。いつもよりハードな授業を終えて帰り支度をしていると、羽諸さんが来た。
「じゃ、帰りましょうか」
 だいぶ夏が近づいてきたこともあって、少し暑さを感じるようになった。日も長くなっているはずだが、塾が終わる頃にはすでに暗くなっている。隣を歩いている羽諸さんは何も言わない。いつもなら大抵、何か話しかけてくるはずなのに。
「今日は静かだね」
「そう?車が少ないのかしらね」
「いや、そうじゃなくて羽諸さんが」
「あ、ひっどぉい。わたしはいつもうるさいみたいじゃない」
「ああ、ごめん。そういう意味じゃないんだけど」
 羽諸さんは笑顔で俺を見ている。
「なんか、吹っ切れたみたいね。顔付きが違うわ」
「そう?」
「うん。この間までの土方君って、こぉんなふうに眉間にシワ寄せて、すっごい顔してたもの」
 そう言って彼女は自分の額に指を当て、眉間にシワを作った。
「だからね、なんか気を紛らわせてあげなくちゃって思って、色々と話しかけていたのよ」
「そっか、心配してくれてたんだ。ありがとう」
「ううん、わたしが勝手に思ってしてたことだもの。考え事の邪魔しちゃって迷惑かも、とも思ったし」
「そんなことないよ。俺のことを心配してくれてたんだ。感謝はしても迷惑だなんて思わないよ」
「あの人もきっと、土方君のことをそう思っているわよ」
 そう言われて、昨夜の羽諸さんの言葉の意味がやっと分かった。羽諸さんは自分の行動で俺にそれを気付かせようとしてくれていたのだ。それだけじゃない。これまでだって、羽諸さんは俺を導いてくれていた。霧生さんにはきっと、そういう人がいなかったのだろう。俺がそうなりたかったが、俺の行動は自分のことしか考えていないものだった。そして霧生さんはいつも、俺の心に霧を作っていた。確かに、そんな俺と霧生さんでは『一緒に歩いて行く』ことはできないだろう。
「どうしたの?」
 俺はいつの間にか歩みを止めていた。羽諸さんも俺の前に立ち止まっている。
「また何か、考え事?」
「羽諸さん、ありがとう」
「もういいわよ。気にしないで」
「やっと分かったんだ。俺はあの人とは一緒には行けない。あの人もそれが分かっていたから、俺を置いていったんだ。君がいなければそれにも気付かなかっただろう」
 おそらく羽諸さんは俺が何を言っているのか、さっぱり分からなかったに違いない。彼女はポカンとして俺を見ている。それでも言わずにはいられなかった。あるいはそれは、自分の考えをまとめるため、声に出して言うことが必要だったためかもしれない。ともかく言葉は、俺が意識せずとも自然に口をついて出てきた。
「君はいつも俺を導いてくれる。悩んでいる時も、迷っている時も。どうしたらいいか分らなくなった時には、いつも言葉を与えてくれた。あの人がいなくなった時だって、救ってくれたのは君だった。そうだ、俺は君のようになりたかったんだ」
「あの、土方君?」
「やっと分かった。俺が一緒に歩いて行くべき人はあの人じゃなかったんだ。それはきっと…」
 そこまで言った時だった。
「ちょっと待って」
羽諸さんは俺の言葉を断ち切った。
「前に、『気になる人がいる』って言ったでしょう?その人はね、人生を真剣に生きている人なの。時に悩んだり迷ったりもして周りが見えなくなって心配になることもあるけどね」
 今度は俺が羽諸さんの言うことを理解できなかった。
「何の話?」
「いいから聞いて。わたしはその人の、『生きる』ということに対する真摯な態度を尊敬しているわ。でもまだ『好き』とまでは言えないの」
 そう言って羽諸さんは俺から視線を逸らした。俺は彼女が何を言いたいのか理解した。そしてまた彼女も、俺が何を言いたいのか理解しているようだ。
「だから、だから…」
「わかった、もういいよ」
 俺にとって羽諸さんは一緒に歩いて行くべき人だと思う。だが彼女にとって、俺はまだそういう人間にはなっていないようだ。今はまだ、それでもいい。だけどきっといつか、羽諸さんに追いついてみせる。
「さ、帰ろう」
 俺は努めて明るい声で言った。気が付けば霧は全て晴れ、その向こうには手招きして俺を呼ぶ人の姿が見えた。

<完>

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