外伝1:土方翔 「霧の向こうに」

(4)

地図に書かれた場所は住宅街の中であった。しかし霧生さんが住んでいるのは一軒家ではなく、アパートであった。それも一人暮らしの大学生なんかが住む程の大きさしかなく、とても一家が住めるような広さではない。
「本当にここか?」
 沖原氏も疑っている。
「でも、地図には『201』って書いてありますよ。ここの201号室ってことじゃないんですか」
「じゃあそうなんだろうな」
 沖原氏は俺より先に塀で囲まれたアパートの敷地内に入り、郵便受けを見ていた。俺も彼と同じように郵便受けを見たが、201号室のものには名前は書かれてはいなかった。
「まあ、行ってみるか」
 階段を上る沖原氏の後をついて行く。もう、薄暗い時刻ではあったが、このアパートの外照明はまだ灯されてはいなかった。
「ここだな」
 沖原氏は201号室の前で立ち止まり、ブザーを押した。何の反応もない。何度か押してはみるものの、外からでは鳴っているのかどうかもわからない。
「いねぇのかな」
 そう呟いて沖原氏はドアをノックした。
「ごめんください」
 それでも返事はなかった。
「しゃあねぇ、また来るか」
 沖原氏は俺の方を向いてそう言った。
「あの、何か渡すものがあるんですよね。家、近いですから後でまた来てみますから、預かっておきましょうか?」
「そうか。あ、でもいいや。また来るから」
 ここに来る大義名分が欲しかったのだが、それは叶わなかった。
「道も分かったしな。ここからは一人で帰れるから、お前も帰っていいよ。ありがとな」
「いえ、それじゃ」
 俺はそのまま家に帰ろうとしたが、道場に行く途中だったことを思い出した。土曜日は休んでしまったから、遅刻になっても今日は行っておくべきだと思い、駅へと向かった。

 稽古を終えて駅に着いた時、腹の虫が騒ぎ出した。今日は家に帰っても夕食はない。どこでもいいと思い、俺は駅近くの定食屋に入った。時間も遅いせいか、あまり人はいない。カウンターに二人、テーブルに一組。奥の座敷には三人組のサラリーマンがナイターを見ながらビールを飲んでいた。俺はカウンターに腰掛け、焼魚定食を注文した。味はイマイチだったが、一応、腹はふくれた。勘定を済ませ店を出た時、霧生さんの家に行くことを思いついた。俺は帰り道とは反対方向になる商店街を抜けて、先程のアパートを目指す。この時間になると住宅街を歩いているのは会社帰りのサラリーマンぐらいしかいない。住宅街の中を進めば進むほど道には人はいなくなっていくが、あちこちの家から一家団欒の声が聞こえてくる。そう言えば父親が開業してからは、我が家ではそんな団欒などはなくなっていた。もっとも、もう中学生でもあるし、親が恋しいなどとという年齢ではない。むしろ同じくらいの年齢の人達の中には、親を疎ましく思い始める人さえもいるだろう。そんなことを考えているうちに、例のアパートに着いた。もう夜でもあれば、幾つかの部屋には明かりも灯っている。しかし霧生さんの部屋の窓は真っ暗であった。
(誰もいないのかな?)
 俺と同様、両親が共稼ぎで本人も食事にでも出ているのかもしれない。それでも俺は、階段を上ってブザーを押した。やはり返事はない。俺があきらめて帰ろうとした時、階段を上ってくる足音がした。果たして霧生さんだった。今度もセーラー服だ。彼女は俺に気づいたらしく、驚きの表情をした。
「とうとうここまで…。立派なストーカーね」
「い、いや、そんなつもりじゃ…」
「冗談よ。それで、どういうつもり?もうわたしには関わらないよう言ったはずなのに」
 彼女は無表情のまま言った。実際のところ、俺自身、どうしようか決めていた訳ではない。ただ、会わなければ始まらないと思い、会いに来ただけのことだった。
「家族は出掛けているんですか?」
 何を話したら良いか分からなかった俺は、とりあえず言ってみた。
「ここにはいないわ。今は京都よ」
 彼女はあっさりと、そして冷静に答えた。
「え、じゃあ一人で?」
「そうよ。親ですら、わたしには関わらせない。それなのにどうして、どうしてあなたはわたしの中に踏み込んで来るの?」
 悲しげな眼差しで俺を見る。俺は彼女に迷惑をかけているだけなのだろうか。しかし引く訳にはいかない。
「苦しんでいるあなたを放ってはおけない。例えそれがあなたにとって迷惑であろうとも」
「あなたに何が分かるの?何ができるというの?」
 俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、強く言った。
「確かに僕は、あなたのことを何も知らない。でも、だから、あなたのことを知りたい。そしてあなたを救ってあげたい。あなたにも生きる意味を持たせてあげたいんだ」
 彼女は俺から目を逸らして言った。
「前にも言ったでしょう?人間が生きることに意味なんてないって」
「確かに人間が生きることに意味なんてありません。生きる意味は自分が勝手にそう思い込むだけの、自分だけのものだから。でも、あなたはまだ生きている。だったら生きる意味もきっと見つかる、見つけられるはずだ。僕はその手助けをしたい…」
 自分の言いたいことを上手く伝えることができない。羽諸さんと話をして、親父にも色々聞き、俺なりに結論を得たつもりだった。しかし、それでも言葉がついてこなかった。
「あなたの言うことは分かるわ。本能だけで生きていくには、この世界はあまりにも辛すぎるものね。だから人間は自らの人生に意味を持たせ、それにすがって生きている。わたしもそうだった」
 階段の手摺を握りながら彼女は静かに語った。
「でも、もうダメなのよ。本当にもう、本当にこれが最後。わたしとは関わらないで。わたしといるとあなたは不幸になるわ。それに、あなたがいるとわたしはどこへも行けない」
 彼女の言うことは俺には理解できなかった。だが、それでも構わない。もう躊躇いも迷いもない。俺は彼女の腕を掴み、思い切って言った。
「あなたといて僕が不幸になるとは思えない。それどころか、あなたがいなければ僕はきっと不幸になるだろう。あなたをどこへも行かせはしない。ずっと傍にいたい。僕はあなたが、…今度は嘘じゃない、僕はあなたが好きなんだ」
 その思いが彼女の腕を掴む力を強めた。彼女は痛がる素振りも見せず、しばし呆然としていた。だがやがて、小さな声で言った。
「ありがとう、私もあなたが好きよ。でも、それはわたしに同情しているだけ。それに、あなたはあの人とは違う」
「そんな、そんな人のことは忘れてください」
「ごめんなさい、もっと早くあなたに出逢っていれば…。わたしにとってあの人はたった一度、最初で最後のチャンスだったのよ。これ以上あなたといると、あの人への想いが嘘になってしまう」
 もう彼女の言うことなど理解するつもりはなかった。ただ掴んだこの腕だけは離したくなかった。俺は一言も言わず、彼女を見つめていた。
「強過ぎる想いは私をここへと捉えてしまう。それではいけないの。私には行かなくてはならない所があるから。だから、…だから私のことは忘れて」
 その時、彼女の瞳から涙が溢れ出した。俺は驚き、掴んでいた腕を緩めてしまった。彼女は俺の腕から逃れ、階段を駆け下りて暗闇の中へと消えた。またも俺は彼女を追うことはできなかった。

 あれから一週間が経った。あの日以来、彼女には会っていない。当然のことだが彼女の方から俺に会いに来ることはない。家の場所が分かっているのだからこちらから行くことはできる。もちろん会い行きたい。だが敢えて行かなかった。彼女に最後通告をされたせいもあるが、何よりも会ってどうするという明確な回答のないままでは、同じことの繰り返しになってしまうと思ったからだ。あの日、彼女は言った。俺と一緒にいるとあの人への想いが嘘になる、と。それがどういうことなのか、何となくは分かる。しかし、『行かなければならない』とも言っていた。そして、俺が彼女に関わっていると、ここから動けない、そこへ行くことができないらしい。『そこ』がどこかは分からないが。
「土方君、また考え事?」
 羽諸さんだ。どうやら考え事をしているうちに授業は終わってしまったらしい。教室内を見渡してみると、もう人もまばらだ。窓の外も真っ暗になっている。
「何かまた難しいこと考えてたんでしょう?」
「別に」
「そう?ま、いいわ。一緒に帰りましょう」
 以前、一回彼女を送っていってから、一緒に帰るのが常になっていた。二回目の時には友人を含め三人で帰ったが、最近、友人は先に帰ってしまうようになった。早く帰ってみたいTV番組でもあるのだろうか。ともかくそんな訳で、彼女と二人で帰ることが多かった。
「土方君って、いっつもそんなふうに考え事ばっかりしているのね」
 彼女と一緒に帰っている時、俺の方から話をすることはほとんどない。彼女の言うように、俺は考え事ばかりしていて、時折、彼女が発する言葉に対して答えているだけだった。
「まあ、このぐらいの年になれば悩み事もいろいろ出てくるものね」
 そういう羽諸さんはどうなのだろうか。
「羽諸さんは悩み事とかあるの?」
「人並みにはね」
「ふうん。例えば?」
「ひみつ〜」
 そういうと彼女は悪戯っぽく笑った。
「ゴメンね。でも土方君だって、他人には言えない悩み事ってあるでしょう?」
「うん、まあね。じゃあ、そういうのはどうやって解決しているの?」
「自分でどうにかするしかないわよね。人によるんでしょうけど、わたしの場合は自分でどうしたらいいか考えるわね」
「それで解決しちゃうんだ」
「ううん、大抵は答えなんて出ない。だから結局、自分の感情のままに動くか、状況に流されるだけっていうことが多いわ。でも、今はそれでもいいと思う。失敗したら次に活かせばいいんだから」
「失敗したくないこととか、『次』がもうないことだったら?」
 俺の質問は羽諸さんを困らせてしまったようだ。しばらく黙ったまま考え込んだ後、しゃべり始めた。
「それでもたぶん、同じようにしかできない。と言うより、その人がその人である限り、取る行動は一つしかないと思うの。よく、『時間が戻せたら』なんてことを言う人もいるけど、例え時間を戻せたとしても、きっと同じ人である限り同じ道を辿ることになると思うわ。それに、悩むぐらいのことなんだから、そういうのはどれも失敗はしたくないものでしょう?だからわたしは、どういう悩みであろうと、同じようにしかできないと思うわ」
 霧が薄らいでゆく。羽諸さんは俺の考えに言葉をくれた。
「ありがとう、羽諸さん。悪いけど、俺、ちょっと行く所ができたから先に帰るよ」
 それだけ言うと、俺は駆け出していた。行き先は決まっている。

 霧生さんのアパートに着き、彼女の部屋の窓を見た。カーテンの隙間から光がこぼれている。夜だというのに俺はけたたましく階段を駆け上がり、羽諸さんの部屋のブザーを押した。走ってきたためかそれとも別の原因か、鼓動が高鳴るのを必死に抑えていると、ドアが開いて霧生さんが出てきた。彼女は驚いた表情も見せずに言った。
「もう一度、来ると思っていたわ」
 そしてそれ以上は何も言わず、ドアに鍵を掛けてから階段を下り始めた。俺はその後をついて歩いた。
「ここでいいわね」
 そこは霧生さんと二度目に会った時に行った公園だった。彼女は今度はベンチではなく、噴水の端に腰掛けた。誰も見る人のいない夜であっても噴水は動き続けている。俺は彼女の正面に立った。
「それで?何か言いたいことがあって来たんでしょう」
 彼女は俺を見上げて言った。何もかもお見通しといったふうだ。しかし心の準備がもうできているのなら却って都合がいい。だがその前に確かめなければならないこともある。
「一つ、聞かせてください。『行かなければならない』って言いましたね。一体、どこへ行こうというのですか?」
「あなたは知らなくていいことだわ」
 もう、俺は怯まなかった。
「僕がいると『そこ』へは行かれないんでしょう?聞く権利はあると思いますが」
 彼女は少し間を置いてから答えた。
「そうね、じゃあ聞かせてあげるわ。わたしのことを必要としてくれる人がいたのよ。その人の所へ行くの。でも勘違いしないでね、その人はわたしを愛しているという訳ではない。わたしの存在を、能力を必要としているの。あの人がいなくなった今、それがわたしの生きる意味。あなた風に言うなら、ね。そしてあなたとこれ以上一緒にいると、きっとあなたがわたしの中で一番大きな存在になってしまう。わたしを必要としてくれる人を裏切って、ずっとあなたの傍にい続けようとしてしまう。だから、だからあなたはわたしと関わってはいけないの」
「僕だってあなたを必要としている。ずっとあなたの傍にいたい」
 彼女は俺から視線を逸らし、悲しげな瞳をして呟いた。
「前にあなた、言ったわね。わたしの生きる意味を見つける手助けをしたいと。そう思うのなら、黙ってわたしを行かせて」
 確かにそう言った。だがそれも、彼女と離れてでは意味がなくなる。
「じゃあ、それじゃあ僕もそこに連れて行ってください」
「…本気?今のあなたの全てを失うことになるのよ」
 『全てを失う』ということがどういうことなのかピンとこなかった。だが、それを躊躇えば少なくとも彼女を失うということは分かっていた。
「構いません。例え何を失うことになろうとも、あなたを失うことだけはしたくはない」
彼女はじっと俺を見詰めていた。俺は黙って彼女を見詰め返した。しばらくその状態が続いたが、彼女は静かにゆっくりとまばたきをしてから言った。
「それじゃあ、明日、また来て。それまで一晩、よく考えてね」
 彼女は静かに立ち上がり、去って行った。

 霧生さんに言われて一晩考えたが、やはり結論は同じだった。俺は彼女と一緒にいたい。例えそれがどういう結果を迎えようとも。『全てを失う』というのは、親や友人を含め、今の生活全てがなくなるということだろう。それでも構わない。彼女を必要としている人は、彼女を愛しているというわけではないらしい。だとすれば彼女を愛する者がいなくてはならない。心の中の霧はまだ晴れないが、その先にはきっと霧生さんがいるはずだ。
俺は学校へは行かず、直接、霧生さんの元へと向かった。霧生さんの部屋に着き、ブザーを鳴らした。しかし誰も出て来ない。そう言えば時間は指定されていなかった。ちょうど出掛けているのだろうか。俺は何気なくドアのノブに手を掛けた。開いている。俺はドアを開け、霧生さんを呼んだ。返事はない。玄関から見た部屋の中にはタンスやテーブルといった家具類は何も置かれてはおらず、半開きの窓から入ってくる風がカーテンを揺らしているだけだった。俺は靴を脱いで上がり込み、室内を見回した。やはり誰もいない。荷物もない。ただ、壁に紙が一枚、画鋲で留めてあっただけだった。俺はその紙を取った。そこには線の細い字でこう書かれていた。
『ごめんなさい、あなたはやはりわたしと一緒には行かれないわ。昨夜はずっと一緒にいたいと言ってくれたけど、あなたの心はいずれわたしから離れてゆく。わたしではあなたに生きる意味を与えられないから。その時、あなたにとってわたしの存在は足枷にしかならない。あなたは自分では気が付いていないかもしれないけれど、あなたと一緒に歩いて行けるのはわたしじゃない。あなたは今、幸せと言った。それはあなたにはここで生きる意味があるから。それを大切にして、いつまでも変わらないあなたでいて』
 俺はその紙を手にしたまま動けずにいた。窓の外からは気の早いセミが鳴くのが聞こえてきた。
(何もできなかった。いや、それどころか俺は彼女を惑わせてしまっただけなのか)
 そんな思いだけが頭の中をぐるぐると回っていた。

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