外伝2:安倍清晴 「虚飾の日々」

(8)

「おはよう、安倍君」
 朝っぱらから甲高い声で挨拶をされた。声の主は川瀬舞奈。この女が一コマ目が始まる前から学校にいるなんて珍しい。
「今日はずいぶんと早いんだな」
 不思議に思った俺は思わず尋ねた。
「ちょっとサークルの集まりがあるの。夏合宿でどこに行くのか相談するのよ」
 サークルなんかに入っていたのか。ほとんど授業に出ないからバイトばかりしているのかと思った。
「何のサークル?」
「ゴルフ」
 これはまた意表を突かれたものだ。
「やったことある?」
「いや」
「面白いわよ。何より人間相手じゃなくてひたすら自分のスコアを上げるってのがいいわ」
 俺はどちらかと言えばスポーツというものは相手がいてこそのものだと思っている。そうして様々な駆け引きや戦略・戦術が生まれ、発達してきた。あたかも戦争が文明を築いてきたかのように。
 そんなことを考えている時だった。不意に後ろから声を掛けられた。
「清晴さん」
 振り向くとそこには芦屋遥がいた。なぜこんな所にいるのだろうか。
「知り合い?」
 芦屋の娘がここにいる理由を思いつく前に川瀬舞奈は尋ねた。彼女は俺と芦屋を交互に見ている。
「ああ、親父のな」
 夕べ、沢登に答えたのと同じように返事をすると、芦屋に尋ねた。
「どうしてここへ?」
「清晴さんがこちらにいらっしゃると伺いましたもので」
 親父かお袋か知らんが、余計な事をする。
「何の用だ?」
「お暇でしたら、一緒にどちらかへ行こうかと思いまして」
「生憎と俺は忙しい」
「まあ…。大学生というのは皆、毎日遊んで暮らしていると伺ったのですが」
 このお嬢さんは俺を馬鹿にしているのか?それとも本当に何も知らないのか?
「そろそろテストがあるんだ。あんたに構っている暇はない」
「では、テストはいつ終わるのでしょうか」
 どうあっても俺をどこかに連れて行きたいらしい。俺がどう答えようか迷っていると、川瀬舞奈が俺の腕を取って言った。
「ね、安倍君。そろそろ授業が始まるから行きましょう」
「なんですの?あなた」
 芦屋の娘は川瀬舞奈にそう言うと、川瀬舞奈の腕を俺から引き離した。
「あなたこそ何なの?」
 どうやら芦屋の態度にむっと来たらしい。しかしお嬢さんの方も負けていなかった。
「わたくし?わたくしは清晴さんの婚約者ですわ」
 川瀬舞奈はそれを聞くと俺の顔を見た。何も言わない俺の様子を見て察してくれたらしく、軽く頷くと再び芦屋の方へと向き直った。
「あら、そう。私は安倍君と秘密を共有する仲なのよ」
 嘘は言ってないな。しかし、どうして女というやつはこう…。
「わかったらさっさと消えて頂戴。あなた、ここの学生じゃないんでしょう?勉学の邪魔をしないでほしいものだわ。これだから分をわきまえない人間は嫌いなのよ。図々しいったらありゃしない」
 何とも攻撃的な言葉だ。もしかしてこれは『俺を取り合っている』のか?世にも珍しい光景だな。もっとも、俺が目当てなのではなくて、両者とも引くに引けないというだけなのだろうが。しかし、二人とも声がだんだんと大きくなってきている。人が集まってきたら面倒だ。俺は川瀬舞奈を止めることにした。
「まあまあ。授業だろう。分かった、行こう。そういう訳だから、あんたも今日は帰りな」
 そういって芦屋の方を振り向くと、怒りとも悲しみともつかない複雑な表情をしていた。しかしこの場は仕方がない。俺は川瀬舞奈を促して、教室に向かった。

「何なの、あの人?」
 憤慨しながら席に着くと、川瀬舞奈は予期した通りの質問をしてきた。
「安倍君って婚約してたの?」
「してない。親父の仕事の都合でそういう話があっただけだ」
「じゃあ、なんでもないのね?」
「ああ」
 本当はなんでもなくはないのだが、面倒なことになっても困るのでそう答えた。
「そ。ねぇ、今日、終わったらどこか行かない?」
 この前の一件以来、俺は川瀬舞奈に対して一応はこれまでと同じように接することには決めていた。しかし長い時間一緒にいることも躊躇われたので、こう答えた。
「テストが近いだろう。そんな暇はない。それよりも、沢登にちゃんとお礼はしたのか?どこかへ行こうというならあいつを誘ったらどうだ」
「いいの、ノボリ君は」
 ひどい言い草だ。沢登が可哀想になってくる。
「君は彼氏とかいないのか?」
「いないわよ。だから別に構わないでしょう?」
 沢登が聞いたら喜ぶだろう。もうすでに知っているかもしれないが。だが俺にとってはあまり都合のいい話でない。
「だが俺じゃなくて、他に色々と誘ってくる人間はいるだろう?遊びにいくならそういう人と行けばいい」
「私のこの間の話、ちゃんと聞いてたの?わたしはそういう人たちじゃなくって、安倍君に興味があるのよ。それに、見下されたままで引き下がれないしね」
 本気か冗談か分らない言い方だ。まだ根に持っているというほどのこともないようだが、だからといって忘れてはいないらしい。だが一つ、誤解をしている。俺はもう、この女を見下してはいない。俺のことを見抜いていたような人間だ。少なくとも、俺と同等以上の人間なのだろう。だがわざわざそれを説明するのも癪だ。
「そう言う安倍君こそ、彼女はいないの?」
 どうやって断ろうかと考えていると、いきなりそんなことを聞かれた。
「今はいない」
「『今は』ってことは、前はいたのね。どんな人だったの?」
 何でそんなことを聞かれなくはならないのか。
「どうだっていいだろう、そんなことは」
「ダメ。安倍君とちゃんと友達になろうと思うからには、そういうことも知っておかないと」
 俺のことを『友達』と考えている沢登にだってそんなことは話していない。第一、友達であるためにそんなことを知っている必要があるのか?
「川瀬さん、君だったら、友達だからって以前に付き合っていた男の話とかするのかい?」
「さぁ?わたし、男の人と付き合ったことないから」
 ちょっと意外な答えだった。嘘か真か分らないが。
「女子高だったから。…ね、安倍君、食堂に行かない?」
 突然、何を言い出すのか。
「俺は授業に出るよ」
「休講じゃない、知らなかったの?じゃあ、さっきあの女の人に言ったのも、口裏を合わせていたってわけじゃないのね」
 そう言えば今日はまだ掲示板を見ていなかった。道理で教室に人が少ないわけだ。そんなことなら教室に来る必要もなかった。この女も、教室に入る前に言えばいいものを。
「知らなかったってことは、二コマ目まで時間が空いてるってことよね。じゃ、食堂に行きましょうよ」
 口実を思いつかなかった俺は、川瀬舞奈と連れ立って食堂へと向かうことになった。

 まだ一コマ目の時間だけあって食堂にはまだ人はほとんどいない。川瀬舞奈は窓際の席を見つけると、椅子に鞄を置いた。俺も向かいの席に鞄を置き、席に着く。しかし彼女はそのまま座らずに鞄から財布を取り出した。
「ちょっと飲み物買ってくるから」
 一人取り残された俺は考えた。あの女は俺と『友達』になりたいらしい。たぶん、彼女にとって友達というものの範疇はあまり広くないのだろう。気安い人間ならもう、この時点で友達と言っているはずだから。
「お待たせ」
 今度も彼女は紅茶を持っていた。またも砂糖は入れず、ミルクのみを入れてスプーンでかき混ぜ始めた。彼女はそれをじっと見詰めていたかと思うと、突然顔を上げて言った。
「ね、CMなんかだとコーヒーにミルクを入れて混ぜると、ミルクが渦を巻くでしょう?でも実際はああいうふうにはならないわよね」
「そう言えばそうだな」
「どうやってるか知ってる?」
「いや」
「あれって確かね、コーヒーじゃなく醤油にミルクを入れてるのよ。そうするとミルクが渦を巻くらしいわ。画面を見ただけじゃ、コーヒーも醤油も見分けがつかないものね」
「そうなんだ」
「どうでもいいことだけどね」
 確かにどうでもいいことだ。一体、何が言いたいのだろうか。黙ったまま次の言葉を待っていたが、川瀬舞奈の方も口を開かない。無意味な時間が流れていく。手持ち無沙汰になった俺が窓の外を眺め始めた時、川瀬舞奈が溜息をついた。
「…やっぱりダメね」
 突然の言葉に、俺の視線は窓の外から彼女へと引き戻された。
「わたしってやっぱり、人と話すのがあまり上手くないみたいね」
 一体何の話だ?
「わたし、高校生の頃はいじめられてたの。だからひねくれちゃって、人付き合いとかちょっと苦手なの」
 俺は『いじめ』というものを見たことはないし、ましてや関わったこともない。だからその被害者がどんな気持ちになるのかは分らない。だが、下手に同情するようなことを言えば相手のプライドを傷つけるだろう。それでいて軽く流してしまえば、冷たい人間だと思われかねない。答えに迷う話だ。
「そうか」
 結局俺は、冷たい人間と思われる方を選んだ。考えてみればこの女にどう思われようとも関係ないからな。
「わたしね、高校の間は東京の学校に通っていたんだ。昔は東京にすっごく憧れててね、あっちに親戚がいるから高校に行く時に親に頼み込んで東京の学校に通わせてもらったのよ。桃華院女子って聞いたことない?割とお嬢様で有名な学校なんだけどね」
 そう言えば聞いたことがある。都内でも有名な幼稚舎から大学まである女子校で、社長とか医者とか代議士とか文豪とか、『ハイソ』な人達の娘が通う学校だとか。
「あそこって、高校から入ってくる人は少ないのよ。大体は幼稚舎か小学校からみたいね。そういう人達はずっと付き合いがあるから、仲がいいんだけど、外様には厳しいのよ。ましてやウチなんて、そういう人達みたいに親が社長とか医者っていうんじゃなく一般人だからね。よっぽど媚売らないと仲間に入れてもらえないの」
「媚売ってまでそんな『仲間』に入りたいものかね」
「ね、そう思うでしょ。わたしもそうだったもん。でもそうしないと色々と大変なのよ。わたしがいじめにあってたのも、全然仲間に入ろうとしなかったからなのよ。まったく、女同士って嫌な世界を作るわよね。女のわたしが言うのもなんだけど」
 確かに、女だけで構成された団体ではそういうことがあるかもしれない。お局様みたいな人間はどこにでもいるものだが、女しかいなければその人間の天下になるだろう。
「そのままエスカレーター式に大学にも行けたんだけど、あんな人達と一緒はもう嫌だからね。それでこっちに戻って来て一生懸命勉強して、誰も入ってこれなさそうなここを受けたのよ」
「ふうん」
 なんとなく、意外な一面を知った気がする。もっと、誰にでも調子を合わせる八方美人型の人間かと思っていた。
「じゃ、次は安倍君の番ね」
「は?」
「わたしが自分のことを話したから、次は安倍君が話して」
「何を?」
「何でもいいから」
「いきなりそんなことを言われても…」
「じゃあねぇ、…昔の彼女の話!」
「イヤだ」
 女はみんな、こんな話が好きなのだろうか。
「えー、どーしてー?」
「人に話すことじゃない」
「わたしだって、誰にも話したことない、いじめられてたっていう暗い過去を話したのに」
「君が勝手に話し始めたんだろう」
「ぶー、ひどーい。…じゃ、何でもいいから話してよ」
「思いつかない」
 振り出しに戻ってしまった。お互い話すことがないのなら、無理に話をしなくてもいいだろうが。
「じゃあさ、家族のこととか」
「特に話すこともない」
「うぅん、もう。じゃあ、お父さんはお仕事、何してるの?子供に見合い話が来るなんて、すごい仕事してるんでしょう?」
「国家公務員」
「え、政治家?官僚?」
「俺もよく分からない」
「何それ?」
「国家機密に触れるから詳しいことは教えてもらえないんだ」
「なんか、スゴイね。もしかして公安とか内調とか?」
「だからよく知らないんだよ」
 ちょっと大袈裟に話してしまったが、彼女も納得しているようだし、これ以上追及もされないだろう。
「もういいだろう。俺はそろそろ行くよ」
「まだ次が始まるまで時間があるわよ。それに友達になるにはこういう時間を大切にしなきゃ」
 一体、この女は何故、俺の友達になりたがるんだ。いや、理由は分かっている。他の人間とはちょっと違うような感じがするから興味がある、ということだろう。どうやら二コマ目が始まるまでは放免するつもりはないらしい。
「じゃ、次はねぇ…」
 彼女がそう言いかけた時、俺はある質問を考えついた。
「いや、こっちから聞こう。川瀬さん、君は沢登のことをどう思っているんだ?」
 我ながら意地の悪い質問だ。彼女はちょっと困った様子で視線を俺から逸らした。黙ったまま見詰めていると、やがて呟くように言った。
「言わなきゃ、ダメ?」
「別に答えたくなきゃいい」
 本当にこんなことは俺にとってはどうでもいいことだった。だが、これで彼女はもうこれ以上、喋れないだろう。ちょっと卑怯な手口だが、これでこの無為なおしゃべりを終わらせることができる。彼女は自らを『話すのが上手くない』と言った。俺も他人と話すのがお世辞にも得意とは言えない。この組み合わせで会話をしようというのがそもそも無理なのだ。しばらくの沈黙の後、俺は懐から時計を取り出た。
「そろそろ時間だから行くよ」
 そう言うと俺は、人が増え始めた食堂を後にした。

 四コマ目、今日の最後の講義が終わった後、俺は急いで学校を後にした。また川瀬舞奈に見つかると厄介なことになると思ったからだ。幸い、学校を出るまで誰にも会わずに住んだので、すんなりと帰ることができた。その代わり、家にはもっと厄介な問題が待っていた。
「清晴、お前に電話があったぞ」
 今日は親父が家にいる。仕事は休みなのだろうか。
「誰から?」
「芦屋の娘だ。お前、まだ切れていなかったのか?」
 切れるも何も、元々繋がりなどはない。あるとすれば親父の方だろう。この話だって親父が持ってきたものだし。
「あ、そう」
 今日の学校でのことでも聞かれるのだろうか。しかし、わざわざこちらから電話するつもりはない。そもそも俺は番号を知らない。親父に聞けば分かるだろうが、聞くつもりもない。
「そのメモ用紙に携帯の番号があるから。どんなに遅くなってもいいから帰って来たら電話くれとよ」
 これで電話をしなければ俺が悪者だ。仕方なくメモ用紙を持って自分の部屋に行った。自分の携帯電話を取り出し、番号を登録する。番号からすると携帯電話のようだ。そのままかけようかと思ったが、思いとどまってやめた。自分の携帯電話の番号を知られると不都合があるかもしれない。非通知にすれば済む話だが、それでは電話に出ない可能性もある。俺は部屋を出て廊下にある電話の子機を手にして部屋に戻った。かけたくもない電話で、何故こんなに気を使わなくてはならないのか。不満に思いながらもダイヤルする。二コール目で反応があった。
「はい、芦屋でございます」
 電話に出た途端、名乗るのはどうかと思う。ましてや携帯電話では名乗る必要もないだろう。もっとも、世間知らずのお嬢様じゃ、こんなものか。
「安倍だが…」
「まあ、清晴さん。もうお帰りになったのですか?」
「ああ。で、用件は?」
「その、大したことではありませんが…」
 何か切り出しづらそうだ。待っているのもまだるっこしいので、俺の方から切り出してやった。
「学校でのことか?」
「ええ。あの方は恋人でいらっしゃるのですか?」
 『そうだ』と言えばこれ以上、関わられずに済むかもしれない。だが俺は嘘は嫌いだ。
「違う」
「そうですか」
 なんとなく安心したような声だった。しかし芦屋はそれだけ言うと黙ってしまった。このまま無駄に時間を過ごすのも嫌だったので、打ち切ることにした。
「用件はそれだけか。それじゃあ切るぞ」
「え、あ、あの、テストはいつまでなのでしょうか?終わりましたら、一日で結構ですので私にお付き合いくださいませんか」
「考えておくよ」
 それだけ言うと、俺は電話を切った。

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