外伝2:安倍清晴 「虚飾の日々」

(7)

試験の時期が近づくにつれ、学内にいる学生の数が普段よりも多くなる。これはどこの大学でも同じだろう。ことに図書館などは、初めて見る人間で席がいっぱいになる。また、この時期になると途端に人気がでる人間もいる。俺もその内の一人だ。
「なあ安倍、ちょっと頼みがあるんだ」
 そらきた。
「ああ、いいぞ」
「まだ何も言っていないが…」
 みなまで言わずともわかっている。ノートのコピーだろう?
「ドイツ語か?経済原論か?それとも法律基礎か?」
「全部」
 あきれた奴だ。もっとも、同じ学科らしいがこの男の顔は初めてみるし、もちろん名前も知らない。無理もなからぬことか。
「安倍君」
 鞄からノートを取り出していると、後ろから声を掛けられた。そこには川瀬舞奈がいた。いつもの派手な格好、いつもの話し方だ。この間のことなど忘れてしまったのだろうか。
「川瀬さんも同じ用事か?」
 向こうがそういう態度なら、こちらもあえて意識する必要はない。俺はいつも通り振舞った。
「私は大丈夫。それより、ちょっと話があるんだけど…」
「ああ。何だ?」
「ここじゃ、ちょっと…」
 彼女は俺の隣にいる男をチラリと見て言った。『ちょっと』話があるのなら、ここでもいいだろうに。
「あ、俺、ノートは後でいいよ」
 気を利かせたつもりか、名も知らぬ男は足早に立ち去った。川瀬舞奈と二人でその男の背中を見送ると、彼女は俺の肩を叩いて言った。
「ね、食堂に行きましょう?」
 誰もいなくなったのだからここでも構わないはずだ。それなのにわざわざ食堂に行くとは、ちょっとでは済まない話なのだろう。うんざりしながら俺は承諾した。
 まだ一コマ目の講義が終わったばかりだから、食堂にもあまり人はいない。俺たちは窓際の席に向かい合って座った。
「何か飲む?」
「いや、俺はいい」
「そう?じゃ、わたし、何か買って来るね」
 悠長にそんなことをしていないで、さっさと話をしてほしいものだ。それとも飲み物が必要なくらいに長い話なのか。窓の外を歩いている学生を眺めるのにも飽きてきた頃、彼女は戻ってきた。手に持っているのはどうやら紅茶らしい。女性はコーヒーよりも紅茶を好む、というのは俺の勝手な思い込みだろうか。とにかく彼女は、砂糖は入れずにミルクのみを入れるとスプーンでかき回し始めた。そうして渦巻く表面を眺めている。俺はいつ、話が始まるのだろうかとイライラし始めていた。
「あのね」
「ん?」
「この間、わたし、誕生日だったの」
「何もやるつもりはない」
「違うわよ。…でね、ノボリ君が花束をくれたの」
「それで?」
「それで、どういう意味なのかなぁって」
「誕生日おめでとう、という意味だろう」
「そうじゃなくって」
 言いたいことはわかる。しかしそれは俺から答えるべきことではない。
「同じところでバイトをしているし、仲も悪くないんだったら、誕生日に何かあげてもおかしくはないだろう」
俺は当り障りのない答えを選んだ。
「それはそうなんだけど…」
「俺に聞くな」
 彼女の態度にイライラして思わず言ってしまった。
「そんなに知りたいのなら、直接本人に聞けばいいだろう。第一、あんたは俺があんたを見下していると思っているのだろう?そんな人間と話をしようだなんて、どういうつもりなんだ?気が知れないね」
 言いたくもない言葉が口をついて出る。それを聞きながら川瀬舞奈は面食らったのか、口をポカンと開けて俺を見ている。俺がしゃべり終え、彼女から目を背けるように下を向いていると、彼女は言った。
「驚いた」
 彼女は、何のつもりか紅茶のカップを手にして一口すすった。
「安倍君でも、そんな風に感情を出すことがあるのね」
 彼女は横を向き、独り言とも、俺に話しているともつかない様子でしゃべっていた。
「そっか、迷惑よね。こんな話されても。これじゃあ駄目なのね」
 どういう意味だ?
「でもね、安倍君。あなたはわたしを見下していると思っているから、こうして話し掛けているの。これでも私は馬鹿じゃないつもりよ。でも、あなたはそうは思っていないみたいだから、もっとちゃんと『わたし』を知ってほしい。そのために話をしたい。だから、わたしたちの共通の知り合いのノボリ君が関わることを話題にして話し掛けたのよ」
 俺は何も言わず、ただ黙って話を聞いているだけだった。
「でも、こんな話じゃ、安倍君もどうしたらいいか分からないわよね。この次はもうちょっと、考えてくるから。ゴメンネ、ありがと。じゃ」
 まだ紅茶の残るカップを手にして立ち上がろうとする彼女を、俺は思わず呼び止めた。
「あ、ちょっ…、川瀬さん」
「何?」
 彼女は微かに笑ったかのように見えた。
「まだ残ってるんでしょ?飲んでから行きなよ」
「そう?」
 彼女は再び腰を下ろし、両手でカップを抱えたまま俺を見つめていた。何かを期待しているようだ。
「あの、…悪かった。でも、その、沢登のことは俺だって良く分からないし、それにそういうのは当人同士が何とかするものだと思うから…」
 みっともない。何を言っているのか、何を言いたいのか、自分でもさっぱり分からない。
「だけど、花をくれるっていうのは、決して悪くは思ってないはずなわけだし…」
 取り繕おうとすればするほど、訳が分からなくなる。そんな俺を彼女は助けてくれた。
「ありがと。でも、もう大丈夫。ノボリ君がどんなつもりだろうと、わたしは自分を譲らないって決めたから。じゃあ、もう飲み終わったから、行くね」
 そういうと彼女は立ち去ってしまった。彼女の言葉は、やはり俺には理解できなかった。

 全ての講義を終え、帰途につこうとした時だった。遥か遠くにいる俺を沢登は目ざとく見つけ、大声で俺の名を呼びながら走ってきた。
「今日はもう、終わりか?」
「ああ。それより人の名を大声で叫ぶな。みっともない」
「そうか?別にみっともない名前じゃないと思うが」
「そう意味じゃない」
「ま、いいや。それよりこの後、何か用事とかあるか?」
 俺に用事などはない。強いて挙げるとするならば、誰もいない自分の部屋で静かに過ごしたいということだけだ。
「いや、別に」
「じゃ、ちょっと付き合えよ」
 こいつはよく俺を誘う。柔道のサークルか何かに所属しているはずなのに、練習はいいのだろうか?
「お前、柔道は?」
「今日はない」
「ある日というのを聞いたことがないが」
「まあ、あまり深く考えるな。それよりどこに行く?」
「何だ?何か用事があるわけじゃなかったのか」
「おいおい、俺たちは友達だろう?だったら別に普通にどこかに一緒に遊びに行っても不思議はないだろう」
 沢登はおどけて言った。こいつにとって俺は友達らしい。
「で、どこに行きたい?」
「人のいない所」
「お前もつくづく…。いや、いい。じゃあ俺が決めるぞ」
 最初からそうやって、どこどこに行くから付いて来い、と言えば簡単なんだ。
「そうだなぁ。お前、絵とか見るか?」
「人並みにはな」
「よし、それじゃあ神戸に新しくできた美術館があるんだ。ちょうど今、印象派の企画展をやっている。行ってみないか?」
「今から神戸じゃ、遅いだろう」
「なあに、車で飛ばせばすぐさ。お前の車、けっこう出るんだろう?」
「さあ、な。なにしろ制限速度を越えて走ったことがないからな」
「…お前らしいよ」
 ともあれ、こうして俺達はわざわざ絵を見に神戸くんだりまで行くことになった。

 神戸という街は坂が多い。それもそのはず、北は山、南は海になっている東西に細長い土地なのだから。車やバイクを使えない小学生などは、この街で移動するのも大変に違いない。救いと言えば道路がしっかり整備されていて、バスがちゃんと走っていることだろう。
「そこの角を右に曲がれば見えてくるはずだ」
 助手席で沢登が指示を出す。俺たちがこの街に着いた時にはあたりはもう暗くなり始め、街には灯が煌き始めていた。
「ああ、あれだ。あんまり大きくはないけど、きれいな建物だろう?」
 沢登が言うように、その建物は確かにあまり大きくはなかった。だが、一風変わった外観をしていた。骨組みはパイプ、壁面や天井はガラス張りと磨き上げられたステンレス。ある意味、きれいな建物、と言えなくもないが、もっと相応しい表現があるだろうに。やっぱりコイツは変わったヤツだ。
 あたりがもう暗くなってきていることもあり、美術館の周りには明かりが灯り始めていた。大型のサーチライトが数ヶ所からその金属製のビニールハウスを照らし、自身もパイプに取り付けられたライトを光らせている。言われなければこれが美術館だとは分からないだろう。設計者の顔を見てみたいものだ。
「何してんだ、早く来いよ」
 地下駐車場に車を止めると、沢登は駆け出すように入り口へと向かって歩き始めていた。この無骨な男が美術に興味があるとは、分からないものだ。
 館内は思ったよりも人が多かった。ちょっと気取ったナリをした若いカップルや英国仕立てのスーツに身を包んだ紳士と呼んでほしそうな中年の男などが絵画に見入っている。俺が館内の客をちょっと眺めている間に沢登はどこかへ消えてしまっていた。探すのも面倒なので、俺は俺で勝手に館内を眺めていくことにした。俺は人並みには芸術を好むし、自分でスケッチだってする。だがあくまで人並みでしかない。詳しいことはさっぱりだ。見ていてなんとなく良い絵ということは分かるが、専門的なことなんかは分かるはずもない。『印象派』とは一体何だ?
俺はざっと見物した後、喫煙所と書かれたプレートが掲げられた場所で一服点けることにした。喫煙所には人の姿はなかった。俺は柔らかなソファに腰掛けると、ポケットからタバコを取り出した。普通、美術館というものは全館禁煙なのではないだろうか。美術品にヤニがつくことが好ましくないことであることは考えるまでもなく分かることだ。外国の美術館や博物館で灰皿が置いてある所もあるが、あれは間違ってタバコに火を点けてしまった人が消すためのものだ。こんなふうに閲覧場所の近くに喫煙所を設ける美術館なんていうものがある時点でここの管理者の芸術に対する理解というものは知れてしまう。もっとも、俺だって喫煙所を用意されれば吸ってしまうがな。そんなことを考えながらタバコを吸っていると、先程の英国紳士を気取った中年が現れてパイプをふかしだし、ポケットから懐中時計を取り出した。これで片眼鏡でもしていれば完璧だな。苦笑しかけたその時、一人の女が俺の視界に入った。通り過ぎようとしたその女は俺に気づいたらしく、振り返ってそばに寄って来た。
「まあ、清晴さん。今晩は」
 芦屋遥だ。そう言えばここは神戸だ。こういうこともあるだろう。
「ああ」
 俺は簡単にそう答え、タバコの火を消した。
「清晴さんは美術がお好きなのですか?」
「誘われたから来ただけだ」
「どなたといらしたのですか」
「学校の奴とだ」
 そんなことはどうでもいいだろう。それよりもあんたは美術品を見に来たのだろう?だったらさっさと展示物を見に行けばいい。
「そのご学友の方はどちらに?」
 芦屋はあたりを見回した。さすがにこの紳士モドキを俺の『ご学友』とは考えなかったらしい。
「その辺で適当に見ているだろう」
 俺がそう答えたちょうどその時、沢登がやって来た。
「やっぱりここにいたのか。どうする?そろそろ帰るか?」
 沢登は芦屋に気がつかなかったようだ。
「あなたが清晴さんのご学友ですね」
 不意に声をかけられ、沢登は仰天したようだ。
「初めまして。芦屋遥と申します」
 これでまた、面倒事が一つ増えた。沢登も怪訝な顔で俺を見ている。
「親父の知り合いだ。それよりも、もう帰ろう。遅くなるといけない」
「いいのか?だって…」
 沢登は俺と芦屋を交互に見て言った。芦屋もちょっと驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの調子に戻って言った。
「ではお気をつけて」
「ああ。じゃあな」
 俺は一応、別れの挨拶をしてから沢登を促し、その場を去ることにした。
「ごきげんよう」
 芦屋はにっこりと微笑んで言った。『ごきげんよう』だとさ。そんな挨拶をする人間が実在するなんて思いもしなかった。

「あの女が婚約者だろう?」
 帰りの車の中で沢登は唐突に言った。
「…まあな」
 正確には婚約などはしていないのだが。
「性格の良さそうな美人じゃないか」
「そう見えるかもな」
「違うのか?」
「さあ。知らない」
 ありがたいことに沢登はそれ以上追及はしてこなかった。その代わりに俺が思いもしなかったことを言い出した。
「腹、減らねぇか?」
 俺は一瞬、戸惑った。
「せっかく神戸に来たんだから牛食うぞ、牛」
「唐突だな」
「そんなことはないだろう。札幌に行けばラーメンを、浜松に行けば鰻を、下関に行けば河豚を食う。そして神戸では当然、牛だ」
「壱岐に影響されたのか?あまりしつこいものは食いたくないんだが」
「そう言うなって」
 こうして俺は沢登が神戸で最高の店、と呼ぶ所で特大のサーロインステーキを食べることになった。案の定、その日の夜は食べすぎで気持ち悪くなってしまった。唯一の救いは沢登のおごりだったということぐらいだろうか。

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