読切小説(二)

最後の願い:前編

春。入学・入社など、多くの人が状況の変化を迎える季節。そしてその変化に希望を抱き、新たな『何か』を期待する。また、そういった立場ではなくとも、なんとなく心を弾んだ気分にさせる。春とはそういう季節だ。
 しかしここに、とてもそんな気分にはなれないでいる少年がいた。立迫正文、中学二年生。彼も一年前は大方の人と同様、中学校という新しい舞台へ向かう桜並木を希望と期待に胸を膨らませて歩いていた。しかし、一年前には前途を祝福する紙吹雪のように思われた桜の花びらも、今の彼にとっては苛立たせる要因の一つでしかなかった。舌打ちをしながら服に付いた花びらを払う。その表情は暗く、まるでこの世のあらゆるものを憎んでいるかのようだ。彼がこのようになってしまったのにはそれなりの理由がある。彼はいわゆる『いじめられっ子』だった。特別の理由もなく、同級生から殴られたり、カツアゲをされたり、パシリにされたり…。そんな毎日を送っていた。
(普通の人ならこんなことで悩みはしない。なんで僕だけこんな目に遭うんだろう)
 いつもそんなことを考えながら登下校をしている。小学校の頃に仲の良かった人間は皆、一年の時に別のクラスになってしまった。それでも入学したばかりの頃はよく会っていたが、正文がいじめられるようになると、どちらからという訳でもなく次第に彼らとの間は疎遠になっていった。そうなると誰も助けてくれる者はなかった。クラスメイトは遠巻きに見ているだけか、見て見ぬふりをしている。それどころか正文がいじめられるのを笑いながら眺めている者すらある。そんな彼にとっての唯一の楽しみは、二年生になってから同じクラスになった近江睦子の姿を見ることだけだった。彼はその少女の容姿と立ち振る舞いに何となく惹かれていた。だが当然、仲良くなることはおろかろくに話すらしたことはなかった。それでも正文は、ただ彼女の姿を見ているだけで満足だった。しかしその睦子ですら、いつしか彼に対して蔑みの視線を送るようになっていた。彼にとってそれが一番堪えた。こうして正文は友達らしい友達もなく苦痛の毎日を過ごしていた。

 そんなある日の帰り道、彼は一人の男が倒れているのを見つけた。こんな春の日ではもう暑いだろうと思うような黒いコートを着ている。うつ伏せなので顔は分からないが、察するに二十歳は過ぎているだろう。
(行き倒れか?)
 ここは通学路でもあれば、行き交う学生たちも多い。それなのに誰一人、その男のことを助けようとはしない。それどころか気にかけている様子すらない。正文自身も関わろうなどとは考えなかった。男を避けて通り過ぎようとした時、不意にその男は顔を上げた。目が合ってしまった。こうなってはもはや知らん振りはできない。正文は仕方なく屈んで声を掛けた。
「どうしたんですか?」
 パッと見は二十代半ば。ちょっと陰がある感じだが、男前と言っても差し支えないだろう。目にかかるほどに伸ばした前髪からのぞく目は、やけに黒目が大きく見え深い闇をたたえているようだった。男はしばらくうつ伏せで顔を上げた体勢のまま正文のことを見ていたが、数度、瞬きをして言った。
「お前、俺が見えるのか?」
 低くかすれたその声は聞き取りづらいものであったが、むしろ正文にとってはその言葉の内容こそが理解しがたいものであった。
「は?」
 怪訝な表情をする正文にお構いなしに、男は相手の目も見ずに言った。
「助かった。これからはお前に憑くことにしよう」
 男は立ち上がると、前髪を掻き揚げて正文を見下ろした。その表情はどことなく不敵な笑みを含んでいるかのように見える。勢い良く立ち上がり平然と正文を見るその様子を見て、正文は言った。
「あの、大丈夫なんですか?」
「ああ、もう大丈夫だ」
 男の様子と言葉から、正文は放っておいても平気だろうと判断した。何よりこの男にこれ以上、関わりたくはなかった。
「じゃ、僕は行きますんで」
 そう告げて正文は逃げるようにその場を去った。

 家に着いた正文は、いつもの通りポケットから玄関の鍵を取り出した。両親は共稼ぎ。彼自身は一人っ子。故に日中は家には誰もいない。部屋に入って鞄を投げ出すと学ランを脱ぎ捨ててベッドに寝転んだ。深い溜息を吐く。
「はあぁ…」
 部活というものをやっていない彼は、授業が終わるとすぐに帰宅する。そして特にやることもなくぼうっとして時間を過ごすことが多い。苦痛と退屈の日々。良いことなど何一つない。無意味に過ぎていく毎日を思うとやるせない気分になってくる。こんな時はいっそ眠ってしまった方がいい。そうして静かに目を閉じる。
「ふうん、ここがお前の部屋か」
 いきなり聞こえてきた声に驚き、正文は跳ね起きた。先程の男だ。いつの間に入ってきたのか、彼はベッドの傍らに立って室内を見回している。
「あなたはさっきの…」
「よう」
 男は悪びれた様子もなく、片手を挙げて応えた。
「しばらく厄介になるぜ」
 そう言うと男はコートを脱ぎもせずにその場に腰を下ろした。
「困ります、勝手にそんな」
「なぁに、気にするな。迷惑はかけない」
「もう十分迷惑です」
 正文の言葉を聞き流して男は言った。
「なぁ、お前、困っていることとか、欲しい物とかはないか?」
 いきなりの質問に対して、正文は当然、真面目に答える気などはなかった。
「何なんです、一体」
「お前の望みを叶えてやる、って言ってるんだ」
 この男に関わりたくない。そう思って正文は言った。
「僕の望みはあなたが今すぐここを出て行くことです」
「そういうこと言ってると、後悔するぜ?」
「しません」
 語気も荒く正文は言ったが、男はいたって冷静だった。
「ああ、そうか。自己紹介がまだだったな。俺は悪魔だ」
 もはや正文は何も言えなかった。ただただ、このおかしな男をどうしようか、それだけを考えていた。
「信じていないようだな。そうだなぁ。じゃあ、証拠を見せるか」
 自称悪魔は両手を広げて見せた。そして強く握り再び開くと、その手の中には高額紙幣の束があった。驚いた正文は吸い寄せられるようにそれを手に取り、一枚一枚確認した。偽物ではなさそうだ。そうして見入っていると、男は指を鳴らした。その途端、正文が手にしていた紙幣は消えてしまった。
「どうだ?」
 悪戯にしては手が込んでいる。もしかしたら本当に悪魔なのかもしれない。そう思ったが、やはりまだ信じられなかった。
「でも、悪魔って言っても、人間と同じに見えるし…」
「カモフラージュしているのさ。人間が俺達の本当の姿を見たらきっと驚くからな」
「何だって僕に?」
「俺の姿が見えるからさ。俺達悪魔はその存在を知るものがいなくなると、そのうち消えてしまう。だから、姿を見ることができる人間を探して憑くのさ。その代わりに存在を認めてくれる者の願いを三つ、叶えることになっている」
「どうして僕には見えるの?」
「何か、心に深い闇を抱えている人間には見えやすいらしいな。お前、悩み事とかがあるんじゃないのか?」
 言われずとも思い当たることがあった。
「その悩みを俺達悪魔の力で解消してやるってワケだな」
 正文は身を乗り出して叫んだ。
「じゃ、じゃあ、僕の悩みを解決してくれるんだね?」
 そこまで言って、思いとどまった。
「でも、悪魔との契約した者は、確か自分の魂を差し出さなければならないって…」
「ああ、そうだ。よく知ってるな。だがそれは、三つ目の願いを叶えてもらった者だけだ。三つ目の願いを叶えてもらった者は、死んだ時にその魂を差し出すことになっている」
「じゃあ、二つ目までだったら…」
「何もない。そこまでは存在を認めてくれている御礼ってことだな」
「本当に?」
「ああ、悪魔は嘘は言わない」
 その言葉を信じてもいいのかどうか分からなかった。しかし、それでも正文にはなんとかしたいと思っていることがあった。そう、悪魔に魂を売ってでも。正文は唾を飲み込むと、意を決した。
「じゃあ、一つ目の願いだ。僕をいじめられないようにしてくれ」
「了解」
 そう言うと悪魔は、両手の手袋を外して奇妙な印を結んだ。正文が良く見るとその指は六本あり、指先は鈎爪のように尖っていた。ギョッとして悪魔の顔を見る。しかし顔は先ほどまでと同じ、青年の顔だ。目を閉じて小声で何か呟いている。やがて詠唱が終わったらしく、目を開けて正文を見て言った。
「これで明日からお前はいじめられない」
 どういうふうに『いじめられない』ようにしたのかは分からなかった。正文は自分が強くなるものだと思っていたが、自分自身が何か変わったようには感じられない。
「何をしたの?」
「明日になれば分かるさ」
 悪魔は説明を与えてはくれなかったので、その言葉を信じるよりはなかった。
「分かった。…で、なんて呼べばいい?『悪魔』なんてのは呼びづらいし、呼びたくもない」
「好きに呼べばいいさ。俺たちに名前なんてないからな。いつもは悪魔第381号としか呼ばれないし」
「381号ね。…じゃあ、ミハイルにしようか」
「悪魔にミハイルとは、とんだネーミングセンスだな」
 そう言った悪魔は笑顔も呆れた表情も見せなかった。そのため正文は、その言葉をどう受け取ったものか迷った。
「ダメかい?」
「いや、構わないさ」
「じゃあ、決まりだね。それで、僕に『憑く』って、四六時中一緒にいるのかい?」
「いや、そういう訳でもない。要はお前が俺の存在を認めていればいいだけのことだからな。まあ、いつもお前の傍にいる訳じゃないが、近くにはいる。用事がある時は心の中で俺のことを呼べばいい」
「『ミハイル』って?」
「そうだな」
 悪魔はそう答えると、手袋をはめ直して立ち上がった。
「じゃあ、俺はちょっとこのあたりをぶらぶらしてくる。自分の過ごす街の様子を知っておかなきゃな」
「うん、分かった」
 正文がそう言うと、悪魔は煙のように消えてしまった。そしてそれきり、夜になっても悪魔は姿を現さなかった。そのため正文は、先程のやりとりは夢ではなかったのかと思いながらも、日が変わるのを楽しみに待った。

 朝、起きた時にもミハイルの姿はなかった。彼が姿を現せば、昨日の出来事が真実であったことに確信を持つことができただろう。だがその手段を失った今、正文にできることは学校に行くことだけであった。
(『明日になれば分かる』って言ってたけど…)
 一体何がどう変わっているのかは分からない。昨日の出来事はやはり夢で、全く変わっていないかもしれない。期待と不安を胸に、彼は通学路を急いだ。こんな気分で登校するのは実に久しぶりのことだった。
 教室に着くや否や、正文は数学の宿題をしてこなかったことを思い出した。昨日はそれどころではなかったから、仕方がないと言えば仕方のないことだった。数学は四時限目。まだ間に合うかもしれない、と教科書とノートを出して問題に取り掛かった。最初は順調だった。しかし、時間が経つにつれて登校してきた生徒の数も増え、教室内が騒がしくなってくる。段々と集中力も失われていく。気ばかり焦って問題は進まない。イライラしながらも教科書とにらめっこをしていると、後ろから声がした。
「オッス」
 振り返るとそこには後ろの席に座る木場明がいた。彼こそが正文にとっての悩みの種、『いじめっ子』の一人であった。特に彼とは席が前後ということもあって、一番被害をもたらしていた。正文は一気に暗い気分になった。だが嫌な顔はできない。すればきっと因縁をつけてくるだろう。そんな正文の心の内とは対照的に木場は笑っている。
「なんだお前、数学の宿題なんて今頃やってるのかよ」
 そう言うとノートを拾い上げて眺めた。大変な時だというのにいちいち絡んでくる。それでも文句の一つも言えない自分を、正文は情けなく思った。
「こんなペースじゃ間に合わないぜ?」
 そう言ってノートを投げ返すと、自分の鞄からノートを取り出した。
「取り敢えず今日のところは、俺のを写しておけよ」
 そう言って木場はノートを差し出したが、正文はすぐには受け取らなかった。それもそのはず、今まで彼にひどい目に遭わされたことはあっても親切にされたことはなかったからだ。何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。躊躇う正文を木場は急かした。
「どうした、写さないのか?」
「いや、でも…」
「鬼の棚瀬に怒られたいのか?」
 数学教師・棚瀬は、宿題を忘れた生徒には厳しい。授業中に集中的に当てられたり、他の生徒よりも多くの宿題を与えたりする。それ故、生徒達は影では『鬼』と呼んでいる。正文はとにかく宿題を片付けるべきだと思い、不安を感じながらもノートを受け取った。
「間違ってたら許せよ」
 そう言って木場は笑った。屈託のない、実に少年らしい笑顔だった。思えば正文が彼のこんな表情を見たのは初めてだった。これまで正文は木場の歪んだ笑いしか見たことはなかった。しかしそのことを深く考えるよりも、今はまず宿題を片付けるのが先とばかりに答えを写し始めた。

 木場のお陰で正文は恙無く数学の授業を乗り越えて昼休みを迎えた。
「何とかなったな」
 救いの主は笑顔で言った。その笑顔につられて思わず正文は言った。
「ありがとう、助かったよ」
「気にすんなって。それより、中庭で飯、食わねぇ?」
 驚愕の言葉だった。木場が正文を昼食に誘うなどこれまでのことを考えればあり得ないことだった。これでは到底、いじめっ子といじめられっ子の関係ではない。むしろその逆、親友といった感じだ。その時、正文は悪魔のことを思い出した。
(『いじめられなくする』っていうのは、こういうことだったのか)
 これが悪魔の力だとすれば、木場のことは信用していいだろう。そう考えた正文は誘いを受けて中庭へと行った。
 昼休みの中庭はグループごとに固まって食事をする生徒が多い。二人が弁当を持って中庭に出てきた時にも、もうすでにそういった団体があちこちにあった。木場はそのうちの一つに声を掛けた。
「よう、俺達もまぜてくれよ」
 そのグループは木場と仲の良い生徒達だった。同じクラスの者も別のクラスの者もいるが、正文は全ての顔を知っていた。というのも、彼らは皆、正文のことをいじめていた生徒だったからだ。そのため、正文はその顔ぶれを見て怯み、逃げ出そうとした。
「何してんだ、正文。早く座れよ」
 すでに座っている木場は正文の腕を掴んで引っ張った。正文はそのまま座り込んでしまった。
「立迫、お前が聞きたがってたやつ、持って来たぞ」
 正面の生徒はCDを正文に差し出した。
「あ、ありがとう」
 やはり正文は躊躇いがちに受け取る。そんな正文の様子を周りの生徒達は不思議そうな目で見た。
「立迫、お前、どうかしたのか?何かヘンだぞ」
「そ、そう?」
 この生徒達も木場と同様、今は正文にとっては親友らしかった。それでも条件反射のように彼らに目を向けられたり話しかけられたりするとビクついてしまう。そうして正文は何となく落ち着かない昼休みを過ごした。

 全ての授業を終えて家に着いた正文をミハイルは待ち構えていた。ドアを開けた瞬間に人がいることにちょっと驚いたが、すぐに平静さを取り戻して学ランを脱ぎながら言った。
「大したもんだね、悪魔の力っていうのは」
「その様子じゃ、願いは叶ったようだな」
「ヘンな感じだけどね」
「そのうち慣れるさ。それよりどうだ、二つ目の願いは決まったか?」
「いや、別にないなぁ」
 正文にとって一番の悩みの種がなくなったばかりで、それ以上のことは今は考えつかなかった。
「そうか。じゃ、ま、何か思いついたら言ってくれ。大抵のことはできるから」
 それを聞いて正文はちょっと興味を惹かれた。
「できないことってのもあるの?」
「そうだなぁ…。時間を操作する能力は悪魔にはないな。だから過去に戻ったりとか、未来へ行くこととかは出来ない。それと、お前を人間を超えた存在、神とか俺みたいな悪魔とかにするのも無理だ」
「ふうん。…ねぇ、神様って本当にいるの?」
「さぁ、どうだろうねぇ。俺は会ったことはないなぁ」
 そう言うとミハイルは立ち上がった。
「じゃあ、俺はまた出てくるから」
 正文が何か言おうとする前に、すでに姿は消えていた。

 一つ目の願いが叶ってから数週間が経った。正文は木場達と親友であることにすっかり慣れてしまっていた。中学校に入ってから二年目にして出来た親友。彼らによって正文は入学してから初めて中学生らしい日々を過ごしていた。これ以上、正文に望むものなどはなかった。それ故、ミハイルを呼び出すこともなく、またなぜかミハイルの方から姿を現すこともなかったため、次第に正文の中でミハイルのことが意識に上ることも少なくなっていた。
 そんな毎日の中で、正文はクラスの中で色々な人と親しくなっていった。その中には憧れの近江睦子もいた。以前の正文は同性にはいじめの、異性には嘲笑の対象でしかなかったため、睦子と親しくなることもできずにただ遠くから見つめているだけだった。だが、木場と親友になった現在では、彼女とも接する機会が増えていた。そして彼女と話しているうちに、テレビドラマや音楽などの趣味で共通する部分が多く話が合うことがわかった。そうして、彼の中で彼女の存在が以前よりも大きくなっていった。だがそれでも、一歩を踏み出したがために『親しい友人』という今の状況が失われるかもしれないということを恐れ、何もできなかった。
「はぁ」
「どうかしたのか?」
「いや、別に」
 木場と話をしている間も、時々、目線は彼女の方を向いてしまう。そんな様子を木場は見逃さなかった。
「近江か。まあ悪くはないな」
「なっ…」
 正文が何か言おうとするのを制して、木場は言った。
「分かってるよ、誰にも言わないって。でもお前ら、仲いいじゃん。告ってみれば?何とかなるんじゃないかと思うけど」
「え?いや、でも…」
 曖昧に答えたものの、木場にそう言われて正文は何となく希望を抱いた。しかしそれもその日の放課後までのことでしかなかった。睦子には他に好きな人がいるということを知ってしまったからだ。その日、当番だった正文と睦子は、二人で残って日誌を書いたり教室の窓を閉めたりしていた。その時、睦子が切り出したのだった。
「ね、立迫君。木場君って、彼女とかいるの?」
「え?さぁ…」
 始めは正文も、どうしてそんなことを聞くのかは分からなかった。しかし次の言葉を聞いて理解した。
「木場君って、私みたいなの、タイプかな?」
 正文は頭を金槌で殴られたような衝撃に襲われた。そしてそれを相手に悟られないよう、考えるふりをしながら心を落ち着けて答えた。
「…どうだろうね」
「立迫君、木場君と仲いいでしょ。ちょっと探ってみてくれない?」
「うん、そうだね」
 もはや正文は自分が何を言っているのか分からなかった。ただひたすら平静を装うことしかできなかった。
「ありがと。あ、それとこのことは誰にもナイショね」
「分かってる」
「じゃ、私、日誌出してくるから。お疲れ様。バイバイ」
 笑顔で教室を出て行く彼女を正文は無表情で見送った。

 翌日になってもショックの抜けない正文は、授業の内容などは全く頭に入るはずもなく堂々巡りの考え事をしていた。木場は正文が睦子のことを好きだということを知っている。となれば、木場が睦子の好意を受けるにせよ拒否するにせよ、正文と木場との関係はギクシャクしたものになるだろう。だからと言って睦子に頼まれたことを無視して彼女にマイナスイメージを与えたくはない。しかし木場と睦子が上手くいけば、きっと自分は平静ではいられないだろう。だが上手くいかなければ睦子が悲しむ。そんな彼女の姿も見たくはない。どういう行動を取ろうとも、どういう結果になろうとも自分にとって何一ついいことはない。そうして悩んでいるうちに、いつの間にか昼休みになっていた。いつも通り木場に昼食に誘われたが、今日は断った。
「何があったか知らないが、あんまり考え過ぎるなよ。相談ならいつでものるからさ」
 木場は正文の様子を見て何かを感じていたらしい。木場が教室を出て行った後、正文は廊下に出て窓から校庭を眺めていた。そこにはいつもと同じようにグループごとに固まって談笑しながら弁当を食べる生徒達が見える。自分でも気付かないうちに視線は木陰にいる睦子のグループの方へと向いていた。睦子は正文に気がついたらしく、笑顔で手を振った。正文も手を振り返して答えたが、到底、笑顔を作ることなどはできなかった。
「愛想のない奴だな。せめて笑って返してやったらどうだ?」
 いきなり背後から聞こえてきた声に正文は驚き、振り返った。
「久しぶりだな」
 しばらく姿を見なかったが、忘れるはずはない。そこにいたのはミハイルだった。もう初夏だというのに、やはり黒いコートを着ている。
「どうかしたのか?浮かない顔だな」
「いや、ちょっとね」
 人通りは少なかったが、それでも誰かに注目されるといけないので、正文は小声で話した。
「今の女の子、あの子のことでさ…」
 相手が悪魔なら、話したところで他に影響はない。そう思った正文は、今まで誰にも話すことができず、己の心の中に抱えていた思いを吐き出した。だがミハイルは何の感慨も感情もない様子でそれを聞いていた。
「…どうしたらいいんだろう?僕にはもう分かんないよ」
「だいぶ参っているようだな。俺が何とかしてやろうか?」
「何とかって、そんなことできるの?」
「おいおい、俺が悪魔だってことを忘れたのか?簡単な話だ。あの女がお前のことを好きになれば全て解決するだろう」
 事も無げに言った。確かにミハイルの言う通り、睦子が正文のことが好きなのなら、全ては丸く収まる。悪魔の力を使えば、それはたやすいことなのだろう。だが正文には、それは『やってはいけないこと』のように思われた。
「ダメだよ、そんなの」
「何がだ?」
 ミハイルは不思議そうな顔をしている。
「そんな、彼女の今の気持ちを蔑ろにするようなことはしちゃいけない。それにそんな風に好かれたって、僕はちっとも嬉しくないよ」
 正文の言葉を聞き、ミハイルは冷たい笑いを浮かべた。
「お前、何を言っているんだ?そんな風に好かれても嬉しくない?いや、そんなことはないね。お前はきっと、諸手を上げて喜ぶよ」
 そう断言され、正文は不快になった。
「何でそんなことが言えるんだよ」
「お前の親友の木場はどうなんだ?いじめっ子だったあいつが親友になって、嬉しくはなかったのか?今でもあいつが嫌いか?あいつと一緒にいるのは苦痛か?毎日あいつに付きまとわれて鬱陶しいか?」
 正文は言葉に詰まった。ミハイルは冷たい目で口の端を歪めて見下ろしている。正文はしばらく黙ったまま下を向いていたが、やがて顔を上げて低い声で言った。
「やってくれ」
「了解。これで二つ目の願いだな。分かっていると思うが、『御礼』はここまでだ。次の願いが最後、それを叶えたらお前の魂をいただくぞ」
「分かっている。もう、俺に願いなんて必要はない」
 ミハイルは正文の目を見つめた。
(これでハマッたな。こいつはきっと三つ目の願いを使う。最後も同じ、人間関係でだろうな)
「願いは叶えておく。じゃあな」
 ミハイルは満足気な笑みを浮かべると、長いコートを翻して姿を消した。

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