読切小説(二)

最後の願い:後編

ミハイルと別れてから一週間後、正文は睦子と恋人同士になっていた。行動を起こしたのは当然、睦子の方からであった。木場が睦子に頼まれて二人の仲を取り持ったのだった。今回は木場の時とは違って事前に分かっていたことではあったが、実際にその状況になってみるとやはり驚きもしたし、嬉しくもあった。そう、ミハイルが言った通り睦子に『好きだ』と言われた時、正文は天にも昇るような心地だった。例えそれが悪魔の力によるものだったとしても。そしてそれと同時に、悪魔の力の凄さを再認識もした。
(本当に悪魔は何でもできるんだな。別のことを頼めばもっととんでもないことも出来たかも知れないな)
 そう思ったが、正文はすぐにその考えを打ち消した。
(いや、それこそが悪魔の誘惑なんだ。俺が願い事を使ったのは、いじめられないようにするため、そして親友との仲を壊さないようにするためだ。そう、普通の人と同等になるために悪魔の力を使っただけなんだ。それ以上に望むことなんてない。三つ目の願いも必要ない)
 正文は自分自身にそう言い聞かせた。そして親友と恋人と過ごす喜びに満ちた日々は、彼にミハイルのことを忘れかけさせていた。

 そんな毎日を過ごしていたある日のことである。休み時間に正文が席を立った時、何かを踏んだ。足元で高い音がする。拾い上げてみると万年筆だった。正文が踏んだため、真ん中から折れている。
(やべ、折れてるよ。しかし万年筆とは珍しいな)
 それを拾い上げた時、後ろから叫び声が聞こえた。
「あぁ、俺の万年筆!」
 振り返ってみると、そこには正文の斜め後ろの席に座る瀬尾がいた。おそらく、落とした拍子に正文の足元へと転がってしまったのだろう。
「瀬尾のだったのか。悪い」
「ひでぇ…。せっかく父さんがくれたのに…」
 万年筆の残骸を受け取った瀬尾はそれを見つめて呟いた。正文は瀬尾の様子を見て気の毒になった。
「済まない、弁償するよ」
「これは十三年前に二千本限定で発売された物だ。買おうったって買えるもの物じゃない」
「じゃあ、どうすればいい?」
「…もういいよ。どうせ何もできないだろう」
 そう言って瀬尾はそっぽを向いてしまった。それを後ろで見ていた木場は二人に近寄ってきた。
「おい、瀬尾。お前、何だよその態度は。正文だってワザとやった訳じゃないし、謝ってるじゃないか。だいたい十三年も前の骨董品、いくらもしねえんだろ」
 木場の言葉を聞いているうちに正文も段々と自分は悪くはない、という気になってきた。確かに自分はワザとやった訳ではないし、弁償するとも言った。買って返すことができないなら、相手の望むようにしようとも思った。それなのに瀬尾はそんな正文の心を簡単に切り捨てた。そう考えると、正文の心の中には次第に黒い感情が渦巻いてきた。そして思わず言ってしまった。
「そうだな、そんな安物万年筆でゴチャゴチャ言われたくないな。だいたい、お前の不注意で俺の足元に落としたのが悪いんだろう?自分の失敗を俺に押し付けるなよ」
「俺が悪いって言うのかよ?」
 瀬尾は正文の胸倉を掴んだ。その時、ちょうど鐘が鳴って授業のために教師が現れたため、瀬尾は掴んでいた手を離しその場はそこで幕引きとなった。次の休み時間になると、瀬尾は正文に一瞥をくれ、教室を出て行ってしまった。その態度に正文もカチンと来て、その日は結局、瀬尾と話はしなかった。
 翌日になっても瀬尾との間は同様だった。いや、それだけではなかった。瀬尾は正文や木場だけでなく誰ともほとんど話をしなくなっていた。どうやら木場が仲の良いクラスメイト達に、彼とは関わらないように言ったらしい。一週間もすると瀬尾はクラスの中で完全に孤立し、誰も彼とは話をしなくなっていた。それどころか、理由も無く暴力を振るったりする者まで現れた。そんな彼を助ける者はなかった。一時は感情に任せて喧嘩をしてしまった正文ではあったが、冷静になって考えれば自分にも非があると分かっていたため、瀬尾に対して後ろ暗さを感じていた。だからどうにか瀬尾と仲直りをしたいとは思っていたが、瀬尾自身は正文に対して憎しみの目を向けるようになっていた。
「あいつ最近、生意気だな。シメてやろうか?」
 木場がそんなことを言い出した。
「あぁ…」
 正文はそれに対して曖昧にしか答えることは出来なかった。
「あの人、気持ち悪いわよね」
 睦子も理由も無くそんなことを言う。それを聞いて正文は、自分がいじめられていた頃、この少女は侮蔑の視線をもって正文のことを見ていたことを思い出した。そしておそらく、女子の間でも平然とこのような会話をしているのだろう。そのことを思うと、正文はいたたまれない気持ちになった。
(何とかできないだろうか)
 そんな状態が続いて一ヶ月ほど経ったある日のこと、家に帰ると部屋に黒いコートの男が待っていた。
「よう。その後はどうだ?」
「ミハイル…。まあまあだよ」
 ワイシャツのボタンを外しながら答える。
「浮かない顔だな。俺があれだけ色々とやってやったのに、何かあったのか?」
「俺自身は何もない。ただ、クラスの奴が一人、昔の俺みたいになってさ」
 正文はミハイルに状況を簡単に説明した。それを聞いたミハイルは表情一つ変えることなく言った。
「それは仕方ないな」
「仕方ないって、どういうことだ?」
「お前の願いを叶えるために色々と細工しただろう?どこかに歪みは出てくるものさ」
 正文は一瞬、言葉を失った。
「じゃあ、…俺のせい?」
「そう言えなくもないな。だが、そんなことは気にするな」
「でも瀬尾は何も悪くはない。むしろ悪いのは俺の方だ」
「お前、忘れた訳じゃないだろう?昔はお前がそうだったんだぞ。理由もなくひどい目に遭わされていたのは、他ならぬおまえ自身じゃないか。…俺は長い間、人間というものを見てきたが、人間は集団になると必ずそういうことをするんだ。前はお前がその標的だった。今はその瀬尾とかいう奴がそう。それだけのことだ」
「それは…、その通りかもしれない。でも瀬尾がその標的になったのは俺のせいだ」
「じゃあそいつをその標的から外してやろうか。そうすればお前も気にしないんだろう?」
「でもそれで瀬尾が外されても結局は誰かがその標的になるんじゃないのか?」
「そういう可能性もある。…もう気にするな。それはもう、そいつ自身の問題だ」
「違う、元々俺自身の問題だったんだ。…そうだ、元々は全て俺が抱えていた問題だったんだ」
「なら、どうする?」
 正文はベッドに腰掛けたまましばらく考え込んでいた。ミハイルは黙った言葉を待つ。やがて正文は拳を握ると顔を上げて言った。
「元に戻してくれ」
「何だって?」
「俺達が出会う前の状況に戻して欲しいんだ。俺と木場は親友などではない。睦子とも恋人同士ではない。本来の状況に戻してくれ」
 ミハイルは不思議そうな顔をした。
「そうすれば尾瀬は確かにいじめられなくなるだろう。だがいいのか?辛く苦しい日々に逆戻りするんだぞ?」
「ああ」
「お前の魂をもらうことになるんだぞ?」
「構わない。他人の心を弄繰り回した罰だな」
 そう答える正文の目に迷いはなかった。その様子を見て、ミハイルは溜息をつきながら言った。
「了解。明日までには元に戻しておこう。…これで契約完了だ。じゃあ、今度来るのはお前が死んだ時だな。その時にお前の魂を戴きに来る」
「ああ、そうしてくれ」
(予想外だな。最後の願いをこんな風に使うなんて。俺が考えていたのとは全く逆だったな)
 ミハイルは静かに立ち上がると何も言わずにその場から姿を消した。その様子を正文は無表情で見ていた。
(これで俺の魂は悪魔のもの、か)
 そう考えてはいたものの、なぜか心の中は晴れ晴れとしていた。

翌日、いつもより少し遅く学校についた正文に対し、木場が話しかけてきた。
「立迫、ちょっと金貸せよ」
 そう言ってきた木場の表情は明らかに昨日までとは違っていた。両手をポケットに入れ、にやついた顔で席に座っている正文を見下ろしている。
(そうか、ミハイルのやつ、もう戻したのか)
 周りを見れば、面白そうにこちらを見ている男子生徒やこちらを向いてひそひそと話をする女子生徒がいる。その中には近江睦子もいる。久しぶりではあったが、見慣れた光景でもあった。
「てめえ、聞いてんのかよ」
 答えない正文に苛立った木場は怒鳴った。しかし正文は臆することなく言った。
「お前に貸す金なんかはないよ」
 木場は驚きの表情を見せたが、すぐにそれは怒りへと変わり、いきなり正文を殴りつけた。
「おい、俺に逆らうのか?」
 椅子から落ちた正文が起き上がろうとすると、手を差し伸べてくる者があった。その顔を見て正文は驚いた。
「瀬尾?」
「大丈夫かい?」
 瀬尾は正文を起こしてやりながら言った。
「今まで見て見ぬふりをして悪かった。でも僕ももう黙っていられない」
 木場はその光景を見て瀬尾に凄んだ。
「でしゃばんなよ、瀬尾。それともお前が金を貸してくれるのか?」
 瀬尾は一瞬、怯んだ。それに気付いた正文は、瀬尾の肩を掴んで言った。
「ありがとう、瀬尾。でもこれは俺の問題だ。俺が自分でどうにかする」
「そうか、分かった。でも、これだけは覚えておいてくれ。僕は君の味方だ」
 その言葉に対して軽く手を上げてると、正文は木場の方へと向かって行った。

 かつてある人間にミハイルと呼ばれていた悪魔がいた。そう呼んでいた人間が死んだ。最後の願いを叶えてから三ヵ月後のことだった。原因は交通事故。
(思ったよりも早かったな)
 悪魔が思ったのはそれだけだった。その他には何も特別な感情は抱かない。ただ、生前の彼との約束に従い、魂を回収するために彼の元へと向かうだけだった。その途中のことである。
『悪魔第381号。我が元へ参れ』
 彼の耳に声が聞こえた。それは全ての悪魔を従える者の声だった。支配者の命令は全てに優先する。悪魔は魂の回収を後回しにして主の待つ所へと向かった。
「ご苦労だった、悪魔第381号」
 悪魔は何も答えず、ただ、頭を下げただけだった。
「お前は今、立迫正文と呼ばれていた人間の魂の回収に行く途中だったのだろう?」
「はい」
「そいつの魂は回収しなくていい」
「なぜですか?」
「もうすでに転生した」
 滅多に表情を変えることのない悪魔が驚きの表情を見せる。
「そんな、悪魔と取引をした者の魂は永遠に転生できないはず…」
「ああ、そのはずだ」
「ではなぜ?」
「考えられることは一つ。その魂に光が差し込んだのだろう」
「どういうことですか?」
「分からなければいい。とにかく立迫正文であった者の魂はすでに回収不能だ。お前は別の仕事に向かえ」
「…分かりました」
 不思議そうな表情を浮かべたまま悪魔は、黒いコートの下から現れた翼を羽ばたかせてその場を去った。

<完>

前編へ  外伝目次へ戻る  ホームへ戻る