第一章 転送−濁流に呑まれる若き狼

第四話 陵の想い

 カイアンと風魔が出て行った後、翔は陵に聞いた。
「何でお兄さんと一緒に暮らさない?」
 本来ならば立ち入るべきではないことかもしれない。しかし、兄弟というものは一番身近な家族として、お互いに支えあっていくものだと翔は思っていた。だから陵に兄がいることを聞いた時、離れて暮らすことに疑問を感じた。そして、できることなら一緒にいるべきだとも思った。そのように感じるのは、翔には兄弟がいないせいかもしれなかった。翔が兄ことに触れたことに対して、陵は迷惑そうな顔などはしなかったが、その代わりしばらく黙っていた。だがそれも長くは続かず、翔の真っ直ぐな眼差しに耐えられなくなったらしく、口を開いた。
「翔、どうしてここが貧民街か、分かるかい?分かるはずないか。ここは今の幕府ができた時に、貴族の居住区だったんだ。その頃、この家には俺の家族が住んでいた」
「じゃあ、陵は貴族なのか?」
「いや、親父は商人だった。貴族相手が専門のね。だからこの家は、他の家よりも小さいだろう。他は貴族の屋敷ばっかりだからな」
「ああ、そう言えばそうだ」
 翔はこの家に入るまでに見た景色を思い浮かべた。
「もう気がついているかもしれないけど、この町には商店が全くないんだ。だから親父が全部の貴族から注文を取って品物を調達してきていた。貴族相手だから、それなりの暮らしをしていたし、何より一家四人揃っていて幸せだった。だけどある時、もう五年くらい前になるかな、ここの隣国の大名が幕府に対して反乱を起こしたんだ。幕府はその時、ここを戦場にした。貴族たちは金があるから、逃げるように引っ越して行った。俺たち一家は行くところもなく、戦争に巻き込まれた。俺たち兄弟は命こそ助かったものの、両親は戦のせいで死んだ。その後、兄貴はまだ小さかった俺を養うために幕府の軍人になった」
「いいお兄さんじゃないか」
 翔の言葉に対して陵は何も答えずに続けた。
「その後、兄貴は役人の試験を受けて軍人から役人になった。いつ死ぬか分からない軍人のままじゃ、俺が一人っきりになるかもしれないってんでな」
「ますますいいお兄さんじゃないか」
 それは正に翔が幼いころから思い描いていた『兄』というものの理想像に一致するものであった。そして今度は、翔の言葉に対して、陵も反応を示した。
「うん、まあそこまではいいんだ。だけどそれで兄貴が役人になった時、この家から引っ越そうと言い出したんだ。役人は城下町に住むことになっているし、やっぱりこの辺りは治安のいい所でもないからね。でも俺はこの家を出たくはなかった。そうしたら兄貴は『いつまで感傷に浸っているんだ。父さんも母さんももういないんだぞ』って言ったんだ。それを聞いて俺はカッとなって、『兄貴こそ父さんたちを巻き添えにした幕府の世話になるな』って言っちまったんだ。もちろん、兄貴が幕府の世話にならなきゃ、俺たちは生きていけなかったし、幕府の世話になることを悪いだなんてぜんぜん思ってなかった。父さん達のことだって『幕府が巻き添えにした』とは言ったけど、誰が悪いわけでもないのはわかってるつもりだ。でもその時はそう言っちゃったんだ。今思えば、やっぱり感傷的になってたのかもしれないなぁ。それでまあ、そのまま、喧嘩別れさ」
「そっか。でも仲直りしたいとは思っているんだろう?さっき風魔に言ったことは本心じゃないんだろう?」
「うん、まあね」
 力無くそう答えたかと思うと、陵はしばらく何かを考え込んでいた。翔が黙ってその様子を見つめていると、やがて無理に作ったような笑顔で陵は言った。
「つまんない話しちゃったな。忘れてよ」
 明るい声ではあったが、その陵の横顔がどこか寂しげであるのを、翔は見逃さなかった。

「光明、どこへ行くんだ?」
「む、冬維か」
 光明に声を掛けたのは、熱海冬維。副将軍の熱海冬雪の息子で、光明の同い年の従兄弟である。身長は光明よりちょっと高いくらい。丸顔で柔和な顔立ちの、笑顔がよく似合いそうな少年であった。彼は同じくらいの年齢の少女と一緒にいた。彼女の名は東山明日香、光明の二歳年下の妹である。この場の三人の中では当然、一番身長が低いが、それでも同年代の女子の中では高い方であろう。黒く艶のある髪を長く伸ばして後ろで束ねている。切れ長の目、高い鼻、赤く塗れたような唇。美少女と言っても差し支えのない外見をしている。
「なんだ、明日香も一緒か。俺はこれから御剣の所へ稽古に行くんだ。それより、そっちこそ二人揃ってどうした?」
 それに答えたのは冬維ではなく明日香だった。
「私たちはこれから資料館に行くのよ。冬維君が探し物があるって言うから」
「そういうこと」
「じゃあ、途中まで一緒だな。それとも俺がいたら邪魔か」
「未来のお兄さんを邪険に扱う気なんてありません」
「ちょっと、冬維君たら何言ってるのよ」
 そういう明日香の顔は、まんざらでもない、といった様子である。それを見て光明は微笑を浮かべていた。特にこの二人は恋人同士でもなければもちろん婚約者などでもない。しかし、冬維の父親である熱海冬雪は将軍の奥方の弟であり、義理の兄弟にしか過ぎない。そういった場合には、次期将軍と次期副将軍の血の繋がりを濃くするため、このような政略結婚が組まれることが多い。現時点では双方の父親は何も言ってはなかったが、何とはなしに本人達もそうなるのかな、と思っていたはいた。
「ところで冬維、やはり学問所には通わないのか?」
 光明の質問に対し、冬維は少し考えてから答えた。
「うん、色々と制約ができるし、勉強は自分一人でもできるからね」
「しかし学問所に通っていた者でなくては、アカデミーには入れないぞ」
 アカデミーというのは、幕府の援助によって様々な学問的研究を行う団体である。一般人の目に触れることのない貴重な資料を閲覧することもできる。そのうえ、アカデミーで規定の研究年数をこなせば、そのまま幕府の上級役人に推薦される。武家の跡取りも知識と教養を身につけるためにアカデミーに入ることが多いため、アカデミーに入っていれば有力な武家との繋がりを作ることもできる。そのため、学問所に通うもの、特に平民の出でありながら将来は幕府で働こうと思っている者にとっては、憧れの対象にもなっていた。元々、この団体は登陽にはなかったが、ソロレシア帝国のアカデミーを参考にして幕府が中心となって組織されたものである。ソレビー・カイアンが留学してきたのには、アカデミー運営のための助言をする、といった意味合いのことも含まれていたのである。
「僕が勉強しているのは、別にアカデミーに入ることが目的じゃないからね」
「そうか。何か、もったいない気もするな」
 二人の会話に明日香が割って入った。
「いいんじゃないの。冬維君が自分で決めたことだから」
「まあな。じゃあ、明日香。お前はどうする?」
 明日香は光明と同じ学問所に通っていて、成績も良い。本人が望めば学問所を卒業した後、無試験でアカデミーに入ることもできるほどだ。
「まだ分からないわよ、そんなことは」
「ま、立場が立場だけに、あまり自由には決められないだろうがな」
 明日香自身は将来的には冬維と結婚することになると思っていたが、光明は有力貴族の息子との結婚もありえると考えていたため、このような言葉が出た。
「じゃ、俺はこっちだから」
 話をしているうちに御剣道場の前に着いた。光明は二人とここで別れることになった。
「しっかり稽古するんだよ」
「そっちこそ、しっかり勉強しろよ」
「じゃあね、お兄ちゃん」
 光明は道場の門をくぐって中へと入って行った。

 所変わって会王朝。中央大陸の東に位置する大国である。中央大陸は島国である登陽の西にあり、東西南北それぞれに大きな国がある。北にはカイアンの故郷、ソロレシア帝国。西には文化と伝統のラードルール公国。南には新興国エルドラド。そして東にはこの会王朝があり、この四つの大国それぞれの周りにはあまり知られていない小国が点在している。その会王朝の中央部にある砂漠地帯での出来事である。
「ラナン、そっちの様子はどうだ?」
「ああ駄目だね、やっぱり砂が入っちまってるよ」
 ラナンと呼ばれた男は答えた。
「ルノー、そっちは?」
「こちらもだ」
 この二人の男はラナン・ニアノとルノー・アクランという。ラナンは赤、ルノーは黒い髪の毛をしている。身長はルノーの方が高いが、ラナンの方が筋肉がついている。二人は十五メートルはあろうかという、大きな人型の機械をいじっていた。肩に付いた砲門などから察するに、これらは兵器の一種と思われる。ラナンがいじっている人型兵器は白地に青いラインが入っていて、美しい流線型のデザインとなっていて、背中には羽をイメージさせる薄い板のようなものが付いている。ルノーがいじっている方は白地に赤いラインが入ったもので、全長はラナンのものと同程度だが、全体的に角ばった作りになっている。その側には人型兵器よりもさらに大きな飛行機があった。おそらくこの機械を輸送するためのものであろう。船体の側部にはNOAHと書かれている。
「さっきの砂嵐のせいだろう。まったく、ラントくんだりからわざわざ来たってのに、こんなところでデザート・コートのバッテリーが切れるなんて、ついてないな。結局、モーターフィギュアも動かなければただの鉄の塊だしな」
 ラナンの呟きを聞いてルノーは言った。
「モーターフィギュアのチェックはお前の仕事のはずだが?」
「まあ、そう言うなって。今更言ってもしょうがないだろう。NOAHの通信機で誰か呼ぼう」
 二人はロボットをその場に置いたまま、輸送機の中へ入って行った。
「こちらラナン。ミーナ、聞こえるか?」
 しかし通信機からは何の反応もなかった。
「ミーナは大分遠くで調査をしているはずだ。ここからじゃ、いくらミーナのステルスナイトとはいえども無理だろうな。どれ、代わってみろ」
 ルノーはラナンを押しのけて椅子に座った。
「マリエ、聞こえるか。マリエ」
 今度は応答があり、薄茶色をした髪の毛の女性の姿がスクリーンに映った。
「こちらマリエ。どなた?」
「俺だ、ルノーだ。ちょっと問題が起きてな。助けて欲しいんだが」
「どうしたの?」
「機体に砂が入っちまった」
「分かったわ。今、サラをそっちに向かわせるわ。えっと、X43Y22の辺りね。そこから動かないで」
「ああ、頼む」
 そう言ってルノーは通信を切り、ラナンに言った。
「と、いうことだ」
「ああ、助かったな。サラにはまたどやされるだろうけどな」
 ルノーは軽く笑って答えた。
「自分のせいだろう。覚悟するんだな。しかし、サラが来てくれたところで、お前のアルシオンは変形機構がある分、調整に時間がかかるぞ」
「ああ、分かってる」
「多分、俺のジャイロの方が早く終わるだろう。そうしたら俺一人でも調査を続けるからな」
「悪いな」
「別にお前のためにやるわけじゃない。…しかし、こんな穏やかな世界に魔神がいるなんてな」
 ルノーは澄み渡った空を眺めて呟いた。
「いや、穏やかで誰もいない世界、だからだろう?魔神を使おうっていうのは」
「ああ、そうかもしれんな。モーターフィギュアのない世界なら、魔神の起動実験にも都合がいいだろうからな。エンジェルの奴らもここならば世連の目が届かないと思ったのだろう。しかし、ペギラもよく見つけてきたものだ」
 ルノーのそんな言葉を半分聞き流しながらラナンは言った。
「それよりも、マリエ達の位置だと、ここまで来るには多少時間がかかるだろう。少し仮眠を取った方がいいんじゃないのか」
「機体はあのままにしておくのか?」
「動かせないんだからしょうがないさ。それに、ここは滅多に人が来ないところだし、万が一来たところでこの世界の人間にはあれが何なのかは分からないだろう」
「それもそうだな。しばらく寝るか」
 そして二人はそれぞれ、NOAHの中にあるそれぞれの寝室へと向かった。

 カイアンが風魔に連れて行かれた日の夜。陵はいつも使っている寝室を翔に明け渡し、居間で寝ることにした。居候である翔はいつも遠慮していたのだが、この日に限ってはなぜか陵がしつこく譲ろうとするので、その好意に甘えることにした。寝室を譲ってもらった翔は、布団の中でこれまでのこと、これからのことを思案していた。
(南雲は幕府の調査官だと分かった。風魔とやらに頼んでおいたから、すぐにでも会いに来るかもしれない。しかし海老名の方はどうなんだろうか。あいつも幕府の関係者か?陵は知らなかったみたいだが。しかしあいつら、なぜ俺をこんな所に連れてきたんだ?俺には力があるって言うけれど、何の力なんだか。…俺の力、か。学校の成績は、まあ良い方だな。でもそれがこっちで役に立つとは思えない。運動能力は、並だろう。一応、空手は習ってたけど、もうやめたし。そもそも俺が他の人間に比べて際立って特徴的なところなんてあるのか?そう言えばあの二人、石とか言ってたな。これがそうみたいだけど)
 翔は首から下げたペンダントを取り出して眺めた。
(でもこりゃあ、別に普通の宝石だよな。トパーズだからダイヤとかに比べてそれほど価値があるわけじゃない。もしかしたらこの世界じゃ、とてつもない価値があるのか?いや、それなら何も俺まで連れてくることはないよな)
 そんなことを考えていると、隣の居間で物音がした。翔は起き上がって少し戸を開け、部屋の様子を窺った。明かりがないので暗くてはっきりとは分からないが、陵が履物を履いて表へ出て行ったようである。しかし翔はそのまま寝床に戻って再び眠りにつくことにした。
 翌朝起きると、すでに陵は戻って来ていた。
「おはよう」
「おはよ」
 翔は寝ぼけ眼をこすりながら答え、バンダナを頭に巻いていた。
「陵、お兄さんは元気だったか?」
「うん。って、なんで知ってるの?」
 陵は驚いた顔をして言った。
「やっぱりな。昨夜、俺に寝室を譲ったのはこっそりと出掛けるためだったんだろう?」
「まあね。翔に言われたせいもあるけど、いつまでもこのままじゃ、いけないかと思ってね」
 陵は自分自身に言い聞かせているようであった。
「で、どうだった?」
「うん、喜んでくれた。俺が謝ったら、もうそんなことはどうでもいいから、一緒に住まないかって、言ってくれたよ」
「そうだな、それがいい。せっかくの兄弟なんだから」
 自分のしたことはひょっとしたらただのおせっかいかもしれない、と翔は思っていたが、陵の言葉を聞いて安心し、嬉しそうに顔をほころばせた。
「翔はどうするのさ。一緒に来ない?」
「そんな無粋なことはできないよ。それより一つ、頼まれてくれないか」
「何?何でも言ってよ」
「お兄さんに会わせて欲しい」
「そりゃもちろん。でもなんで改まってそんなこと頼むのさ」
「お兄さんは幕府の役人なんだろう?色々聞きたいことがあるのさ」
「分かった。じゃあ、行こうか」
 そういうと陵は、あちこち破れたたった一枚の上着を着た。
「おい、どこに行くんだ?」
「兄貴は今日、仕事が休みなんだ。それで一緒に住んでもいいなら、今日来てくれってさ。だから一緒に行けば会えるよ」
「そいつは有り難い」
 そして翔も皮ジャンを着て、戸を開けて外に出た。その時、陵が手ぶらなのを見て不思議に思い、翔は尋ねた。
「陵、お前、荷物なんかは?」
「別に何もないよ。こんな暮らしだしね。兄貴の所に必要なものは全部揃っているし。それに、兄貴とまた暮らせるのなら、何もいらないさ」
「…お前、言ってて恥ずかしくないか?」
 陵は赤面した。
「うるさいな、連れて行かないぞ」
「ああ、悪い悪い。冗談だよ。でもいいなあ。俺は兄弟なんていなかったから、そういうのが羨ましいんだ」
 翔がしんみりとした顔付きになったのを見て、陵は思わず言った。
「じゃあさ、俺のことを弟だと思ってくれよ」
「はは、サンキュー。じゃ、行こうか」
 翔がそう言って陵の方を向いた時、陵は今まで住んでいた家をじっと見つめていた。幼い頃、両親と兄と住んでいた家。そしてその後、一人で住んでいた家。戸は曲がり屋根も破れ、壁には戦時についた矢や血の跡がある。それでも陵にとっては大切な思い出の家。陵はその家を見て何を思うのか。陵の横顔を見ながら翔がそんなことを考えていると、陵は振り向いて言った。
「何、ぼうっとしてるのさ、翔。早く行こうよ」
 ぼうっとしていたのはお前の方だろう、と思ったが、敢えて何も言わずに陵と歩き始めた。

 ある家の前に、一人の少年がいた。その家の表札には『羽諸』と書かれている。いかにも中流、といった感じの二階建ての一軒家。小さい庭があり、今はからっぽだが車が二台置ける駐車場もある。この家は海から近いためか、吹く風にも潮の香りが混じっている。その風と冬にしては温かい午後の日差しが何とも言えない気持ちの良い空気を作り出している。少年はその家の呼び鈴を押した。しばらくすると、その少年と同じくらいの年齢の少女が現れた。
「お待たせ、土方君」
 その少女とは、言うまでもなく羽諸澪である。彼女はいつもとは違い、髪を上げて後ろで束ねていた。そして膝までのスカートをはき、白い薄手のコートの前を開けて着ていた。その下には、鮮やかな青色のタートルネックのセーターが見える。
「さ、行きましょ」
 そう言って彼女の方から積極的に腕を組んできたが、そのことに対して相手は何も言わなかった。代わりに、澪に一つの提案をした。
「ねえ、羽諸さん。やっぱり映画じゃなくて他の所に行かない?」
 澪は一切の異議を唱えず、了承した。
「で、どこに行きたいの?」
「どこでもいいんだけど、映画館みたいに暗いところにずっと座っている気分じゃないんだ」
「じゃあ、遊園地に行かない?最近オープンした所があったでしょ」
「いいけど、今からじゃ遅くない?」
「いいからいいから。行こ行こ」
 澪は相手の腕を引っ張って、駅の方へと歩き出した。

 冬維と明日香は光明と別れた後、資料館へと来た。大きな木造建ての建築物で、その周りには大きな木が数多く植えられている。二人は戸を開けて中へと入って行った。いつものことだが、人はまばらで受付の女性も退屈そうにしている。一階には大きな机が端から端まで置かれていて、館内の書物を自由に閲覧するための席になっている。二階には書棚があり、国内外から集められた本が並べられている。といっても資料館が所有する本はそれで全てではなく、最近入荷したばかりでまだ整理されていないものや資料的価値が低く閲覧する人もあまりいないようなものは別の部屋に山積みにさている。三階は文化的資料の展示場になっていて、名刀として国宝級の扱いを受けているものや昔の文豪が使ったとされる筆などが陳列され、それぞれの展示物の横には『手を触れないでください』という注意書きの札が貼られている。資料館に入った二人は、一階を何気なく見回すと、二階へ上がって行った。
「冬維君、なんて本探してるの?」
「公国政治史ってやつなんだけどね…」
「政治関連だったらこっちね」
 明日香は足早に端の棚に向かって歩いて行った。冬維もその後をついて行き、その棚の前で目的の本を探し始めた。
「ないわねぇ」
「やっぱりね。来る度に誰かが借りているみたいなんだ」
「ここには入ってないんじゃない?それか未整理の蔵書になってるとか」
「いや、前に目録を見た時にはあったもの。未整理じゃあ目録には載せないから、きっと誰かが借りているんだよ」
「じゃ、しょうがないわね」
 そうして二人は階段を下りて帰ろうとした。一階へ来た時、冬維は何気なく机で勉強している人たちに目をやった。
「あ、あの男」
 冬維が大きな声を出したので、その場に居合わせた人々がキッと睨みつけた。冬維は慌てて口をつぐんだ。
「どうしたのよ、突然」
「いや、あの男さ」
 そう言って冬維は机に向かって本を見ながら書き物をしている一人を指差した。
「あ、水瀬君ね。冬維君、知ってるの?」
「いや、そうじゃなくて、あいつの所にある本…」
 その脇に積まれた本の中に、『公国政治史』と書かれた本が置いてあった。
「ああ、あの本ね」
「うん、そう。でも明日香ちゃんこそ、あの男、知ってるの?」
「学問所で同じ組だもの。水瀬大河君っていうのよ」
「じゃあさ、頼んであの本、借りられないかな?」
「そうね、頼んでみましょう」
 明日香は水瀬の方へ行き、冬維もそれに続いた。二人が側によると、水瀬は顔も上げずに言った。
「そこ、どいてくれ。影になる」
 冬維はその態度にカチンときた。
「話をする時は、人の目を見たらどうなんだ」
 すると水瀬は、やれやれ、といった感じで顔を上げた。
「何だ、さっきの迷惑男か」
 その時、冬維の後ろからひょっこりと顔を出した。
「あたしもいるよ」
「東山さんか。それで、俺に何の用だ」
「その前に、自己紹介して。二人とも」
 そう言って明日香は笑顔で二人を見た。しばらく二人とも黙っていたが、ややあって冬維の方から口を開いた。
「俺は熱海冬維。彼女の従兄弟だ」
 それに答えて水瀬は言った。
「熱海、ということは、名前から察するに副将軍の息子か。俺は水瀬大河」
 二人は、これで義務は果たした、といった様に再び押し黙ってしまった。その雰囲気に堪えかねて明日香は言った。
「あのね、水瀬君。その本をちょっと貸して欲しいのよ」
 明日香は机に積まれた本のうち一冊を指差した。
「これか。読みたいのか?」
 水瀬は本を手に取って聞いた。それに答えたのは冬維であった。
「ああ」
「駄目だ。今、使っている」
 簡潔にして全てを表すその一言で、水瀬は冬維の頼みを断った。
「いつ終わる?」
「少なくとも、今日中には終わらない」
「だったら明日、また来て借りるとするか」
「それは無理だな。明日も俺が使うから」
「ならいつまでかかる」
「さあ、分からないな」
 冬維はいらつき、少し声を荒げて言った。
「ふざけるな、資料館の本だぞ」
「何だ、資料館の本だから副将軍の息子であるお前には優先権があるとでも言うのか?」
「そうじゃない。資料館の物、ということは公共の物ということだ。お前一人が専有するべきものじゃない」
「公共の物、と言うのなら俺にも借りる権利はあるはずだ。俺は朝一番にここに来て、受付で然るべき手続きを経て借りているんだ。資料館、というより幕府が作った決まりに従ってやっているんだ。そのことに何か、文句でもあるのか?副将軍の御子息殿よ」
 冬維は何も言い返せなくなった。そしてそのまま振り返って言った。
「もういい。帰ろう、明日香ちゃん」
 明日香は先程から二人の様子を見てオロオロするばかりであった。そんな明日香の手を取って冬維が歩き出した時、水瀬は言った。
「少しの間なら、貸してやらないこともない」
 それを聞き、冬維は水瀬の方を振り返って言った。
「本当か?」
 水瀬は軽く笑って言った。
「ただし、条件がある」
 冬維は何となく嫌な予感がしたが、水瀬に尋ねた。
「何だ?」
 水瀬は本をクルクルと回していた。
「なに、そんなに大変なことじゃない。俺の言うことに対して、お前の思うところを言えばいい。それだけだ」
 相手の意図を読みかねて、疑り深い目で冬維は水瀬を見た。
「本当にそれだけか?気に入らない答えだったら貸さない、とか言うんじゃないだろうな?」
「俺はそんなに器量の狭い人間じゃない。約束は守るさ」
「じゃあ、聞こうか」
 冬維が水瀬の正面の椅子を引いて座ろうとすると、水瀬はそれを制した。
「ここは話をすべき場所じゃない。出よう」
 言われて初めて冬維は気が付いた。先程から周りの人間が自分達の方を睨んでいたことに。おそらく大きな声で言い争いをしていたためであろう。水瀬は立ち上がり、本を持って受付へと向かった。冬維と明日香は出入口の付近で水瀬を待った。やがて水瀬が本を片手にやって来た。
「待たせたな。中庭にでも行こう」
 三人は建物を出て、中庭にあるベンチを目指した。

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