第二章 接触−猛る狼、笑う阿修羅

第一話 黒き野望

光明は着替えを終えて練習場に入るとすぐに御剣の所へ向かった。
「師範、私に稽古をつけてください」
 しかし御剣は怪訝な顔をして答えた。
「今は全員素振りの時間だ。あんたが将軍の息子だからといって、特別扱いはしないと言ったはずだが?」
 その言葉と鋭い目付きにひるみもせず、光明ははっきりと言った。
「先代から継承者の座を受け継いだということだが、率直に言って俺はその実力を疑っている。本当に俺に教えるだけの実力があるのか、確かめたい」
 御剣はしばらく光明の目を見つめてから言った。
「やらないことには収まりがつかなそうだな。いいだろう、相手になってやる」
 御剣は一時的に練習を中断させ、門下生達を端に座らせた。そして光明と御剣は道場の中央で向かい合って構えた。
(下段か。先代とは違うな)
 光明は青眼に構え、御剣を凝視していた。しばらくの間、光明はそのまま動かなかった。
「どうした、実力を試すのではなかったのか?」
「言われなくてもっ」
 光明は竹刀を握り直して相手に飛び掛った。力を込めて振り下ろした竹刀は虚しく空を切った。御剣はギリギリの差で横にかわしていた。光明は続けて竹刀を振るったが、御剣は右に左にと鮮やかにかわしていった。門下生達もそれを見て驚いたようであった。
「どうした。そんなに力んでいたのでは、当たるものも当たらなくなるぞ」
 御剣は竹刀を下段に構えたまま、息一つ切らさずに言った。
(振り回していたら、当たらないな)
光明は竹刀を水平に構えた。そして一瞬の内に素早く突きを四度放った。
(とらえた)
 光明は竹刀の先端が御剣に命中したように見えた。しかしいつの間にか御剣は自分の左側に回り込んでいた。
「今のはなかなかだったな。それでは今度は、こちらの番だな」
 光明は防御のために竹刀を構え直した。しかし御剣は下段に構えたまま動かない。光明は相手のわずかな動きも見落とすまいと集中していた。
(来る)
 気配を察し、そう思った瞬間には、下段から振り上げた竹刀がもう自分の喉下へと突きつけられていた。光明は愕然とした。
(そ、そんな馬鹿な)
「これで納得したか?」
 そう言うと御剣は門下生の方へ振り向いて言った。
「さあ皆、練習だ」
 ざわめきながらも門下生達は再び並んで素振りを開始した。そんな中で光明だけは呆然と立ち尽くしていた。その側に御剣が来た。
「どうした、素振りだぞ」
 光明は顔を上げたが、その目は焦点が定まらぬかのように宙を彷徨っていた。
「無理もないか」
 御剣は皆の方を向いて大きな声で言った。
「しばらくそのまま続けていろ」
 そして光明の方へ向き直って言った。
「ちょっと、表に出ようか」
 二人は連れ立って表に出た。御剣は石段に腰を下ろしたが、光明はその正面に立っていた。
「驚いたようだな」
「ああ。あんなに一方的に…」
「まあ、そうだろうな。昨夜は父上も驚いていたからな」
「先代も?」
「ああ。当たったはずなのに、もうそこには自分がいなかった、ってな」
「同じだ。俺もそうだった」
 御剣は光明の言葉を聞いてから少し考えて言った。
「でもな、自分から見ていると違うんだ。皆、自分が動いた後に、今まで自分がいた所を狙って剣を振るっているんだ。しかも自分が動き始めても反応せず、剣を振り終えてからこちらを見るんだ」
「どういうことだ?」
「さあな。ただ、こうなったのは、つい最近のことだ。師範代の千葉と打ち合いをしている時に、今、言ったようになった。それで昨晩、父上相手に試して見た。結果はさっき言った通り。父上はそれで自分を第十三代継承者にすると言い出したんだ」
「ふうん。しかし、一体何なんだろうか」
「わからないな。超高速とか目の錯覚とか、そう言った類のものじゃないだろう。自分から見れば、皆、幻を追っているかのようだった。だから夢幻斎、という号がついたんだがな。実際、自分で受けた訳じゃないから、何とも言えないな」
「よく分からんな」
「自分自身、そうだ。ただ、これも誰が相手でもなるものじゃない。ある程度の腕を持っているものを相手にした時じゃないとならないんだ。まあ、だからあんたの技術にそれほどの問題があった訳じゃないということだ。技術以前の別のところで勝負は決まっていたんだ。もっとも、自分の技術があんたに劣っているとは思わないが」
「言ってくれるな」
「ふふ。あんたはもっと踏み込みを早くした方がいい。腕の振りと踏み込みにズレがある。それじゃあ、剣に速さと重さが充分に伝わらない。それじゃ、稽古に戻ろうか。腕と足の動きを揃えるには、素振りが一番だ」

 幕府資料館の中庭。ここには三人の男女がいた。熱海冬維、東山明日香、水瀬大河である。そこのベンチに冬維と明日香が隣同士に、そして水瀬がその正面のベンチに腰掛けた。まず冬維が口を開いた。
「で、何の話だ?」
「今の世界各国の政治体制についてどう思う?」
「どういう意味だ?」
「現在、大国と言われる国は王、あるいはそれに相当する者が統治している。ソロレシア帝国、ラードルール公国、エルドラド、会王朝、そしてもちろん、この登陽も」
「ああ。ただ、俺は公国については詳しく知らない。大公と呼ばれる者が分割統治しているらしいということ以外、詳しい政治体制はもちろん、それが出来上がった歴史的背景などもな」
「そうか、お前はまだこの本を読んでいなかったのだったな」
 水瀬は手に持った本を見せて言った。
「では簡単に説明しよう。かつて大陸西部は小国が乱立する地域だった。もっとも、当時は世界中どこもそんなものだったが。で、そのころは世界中の国々が覇権を得んがため、戦に明け暮れていた。そこに現れたのがアルバラルカス、英雄と呼ばれる男だ。彼はある小国の生まれで若くして将軍になったが、その後、当時では考えられないほどの画期的な戦術を用い、次々と周囲の国を打ち倒し、ラードルールという王国を築き上げた。ここまではいいな」
「ああ」
「それから約五十年間、大過なく国は続いた。しかしその後、彼はレンディア病にかかった」
「当時は不治の病と言われたアレだな」
「そうだ。自分の命がもう長くはないと知ったアルバラルカスは、後継者を誰にしたものか迷った。彼は不幸にして子供がいなかったからな。そこで彼は国を五分割し、五人の腹心の部下に任命し、分割した領地を任せることにした。それがラヴァーダ、ギルガメッシュ、アレキサンダー、ジークフリード、ペンドラゴンだ。そしてそれから現在に至るまでそれぞれの大公の一族が治めている。つまりは公国もそれぞれに王制を敷いているも同然なんだ」
「なるほど、よく分かった。で、王制を敷いているとどうだというんだ?」
「うむ、まず王というものは武力によってその地位を得たものがほとんどだ。しかし武に長けた者が必ずしも治にも長けている訳ではない」
「それはそうだ。しかし戦略と政治には相通ずるところが少なからずある。戦略に長けた人物にはある程度の政治力は期待できると思う。それにそのような人物には統治者には不可欠なカリスマがあるしな。第一、どこの馬の骨ともわからない者よりも何がしかの業績があるものがそれなりの地位に就くのが自然じゃないか」
 水瀬は冬維の言葉を聞き、少し考えてから言った。
「ふむ、仮にそうだとしよう。しかし次なる問題点として、王の座は通常、その一族が継ぐものとなっている。だが、その人物が政治に向いているのかどうかは分からない。英雄の子は必ずしも英雄ならず、と言うだろう」
「しかし王家の人間ともなれば十分に高い水準の教育を受けられよう。とすれば自然、愚鈍な王は少なくなるのではないか?」
「しかし、教育の差によっても埋められぬほどに高い能力の持ち主が野にあることもあるだろう。第一、全ての人間に同等の教育を受けさせた訳でもないのに、教育の水準を理由に王座を譲り渡すのは不公平ではないのか?高い水準の教育を受けられたのは本人の手柄ではないからな。そもそもその人物は自身では何の業績もない。どこの馬の骨とそう変わらないとも言えるのではないのか?」
「…」
「しかしまだ最も大きな問題が残っている」
 水瀬は身を乗り出していた。
「幕府は政治の理念について何と言っている?」
「全国民が将軍のもとで幸福を等しく享受できるよう幕府が政治を執る、と」
「そうだ。それは何もこの国だけに限ったことではない。表現の違いこそあれ、どの国もそれと同様のことを大義名分として政治を行っている。しかし実際にはどうだ。政治は王と一部の者の手によって運営されている。国民には政治参加の機会がない。民意を反映せずして全国民の幸福などかなうはずがないのではないか?」
 水瀬のまくし立てるような弁舌に冬維は押されていた。
「…平民を政治に参加させろというのか?」
「それが当然だろう。その理念に偽りがなければな。王とその周りの者たちだけでは、それぞれの国に住まう様々な立場の人間の各々の願いの全てを理解することなどはできないはずだからな」
「具体的にはどうするんだ?平民の中でも優秀なものを取り立てろというのか?」
「それは当然、必要だろう。だが、それだけでは不十分だ。全国民の意見を取り入れなければ意味がない」
「それは不可能だ」
「そんなことは分かっている。だがそうでなくては、全国民の幸福など、到底かなわないのではないのか?」
「何かいい方法があるのか?」
「いや、ない」
「ないって、お前…」
「あるのかもしれんが、思いつかない。だからお前に話してみた。一人で考えるよりもその方がいいに決まっているからな」
「俺だって、急には思いつかない。明日香ちゃんはどう?」
 冬維は明日香の方を向いて言った。しかし彼女はこれまでの二人の会話を見て呆然としていた。
「え、ええと、あの、その、うぅんと、分からないわ。でも二人とも、随分と大きな規模の話をしているのね」
「…まあいい。長話に付き合わせて悪かったな」
 そう言うと水瀬は立ち上がって冬維に約束の本を手渡した。その本を受け取ってから冬維は尋ねた。
「どうして俺なんかに話した?」
「なぜかな、分からない。だがまあ、楽しかったよ。俺の言うことを理解してくれる人間はあまりいなかったからな。その本を読み終えたらもう一度、話をしないか?その頃には、何か考えが浮かんでいるかもしれないからな」
「ああ、約束しよう」
 冬維は立ち上がって手を差し出した。水瀬はためらいながらも照れ臭そうに手を伸ばして握手をした。
「だが今日の話、あまり人には言わない方がいいぞ」
「将軍の娘と副将軍の息子に聞かせて、それ以上誰に聞かせるとマズいんだ。後は直接、将軍に言うくらいしかないだろう」
「ふふ、それもそうか」
「じゃあな」
 そう言い残して水瀬は再び資料館の中へと入って言った。

「じゃあ俺は先に行かせてもらうぜ」
 ルノーはジャイロに乗り込み、NOAHから出て行った。
「デザートコートは充電がまだ完全じゃないから、二時間ぐらいで切れるわ。あまり長い間ウロウロしていたらまた同じ目に遭うわよ」
 サラは通信機にそう言うと通信を切り、作業に戻った。
「サラ、後、どのくらいかかる?」
「そうね。ま、丸一日はかかると思って」
「はあ、そんなに」
 ラナンは力が抜けたように両腕をだらりと下ろして天を仰いだ。
「それよりもどうなの?見つかったの?」
「いや、まだ」
「場所はこの辺りで間違いないはずなんだけれど」
「まだ起動していないんじゃないのか。だとしたら見つからなくても仕方がない。前にエネルギーを感知してから結構時間が経ってるし」
「そうね、チャージが終わっていないのかも」
「でも今度出たら、ただじゃ済まないだろうね。こっちの世界に被害が出ないうちになんとか見つけたいんだが」
「魔神の力は驚異的だものね。エンジェルもどうしてあんな物を作ったのかしら。おまけにこんなところで起動させるし」
「エンジェルってのは、おかしな奴らの集まりだって言うからな。何を考えていたかなんて、常人には理解できないよ。ただ、技術に関してはなかなかのものだったらしいじゃないか」
「なんにしても急いで終わらせて、さっさと魔神を探しましょうよ」
「そうだな」
 二人は休めていた手を再び動かし始めた。

 圭が部屋に駆け込んで来たのを、翔と陵は唖然として見ていた。
「兄貴、どうしたの?」
「だから今から将軍に会いに行くんだよ。今日、勲章を授与するってさ」
「こりゃまた、随分と急な話だね」
「だから二人とも、早く用意をしろ」
 急かされるままに二人は上着を着た。
「圭さん、こんな格好でいいんですか?」
「別に構わないと思うよ。じゃ、行こうか」
 三人は連れ立って城まで歩いた。城に着くと、衛兵が敬礼をした。翔は何となく気分が良くなったが、反面、照れ臭くもあった。
「お待ちしておりました。土方翔様、天宮陵様ですね」
「ああ、そうだ。閣下は謁見の間か?」
 圭が二人の代わりに答えると、足早に城の中へと入って行った。翔たちが通された部屋は広く、衛兵が二十人ばかり並んでいた。やがて将軍と思われる人物が現れ、翔たちからだいぶ離れてはいたが、正面に座った。翔は将軍から何か言葉では表現しがたい威圧感を感じた。これまで学校の授業で学んだ源頼朝や織田信長もこういった雰囲気を持っていたのだろうと、何となく思った。
「二人とも、頭を下げろ」
 圭に言われるままに翔と陵は将軍の前で平伏した。
「構わん、楽にせい。この度のその方らの働き、誠に大儀であった。故に勲章と褒賞を授ける」
 いきなり将軍本人からそのように言われたので、翔は面食らった。そして思わず、隣の陵に小声で言った。
「何だか、えらく簡単だな」
「将軍はあんまり形式張ったことが好きじゃないからね」
(まあ、日本とは違うと言ってしまえばそれまでだけど、でもそれにしたって簡単過ぎだ。将軍自らが出てくる授与式とは思えない)
 翔がそんなことを考えていると、将軍は侍従が手に持つ盆から勲章を受け取り、二人に順番に手渡した。
「二人にはそれぞれ東彰に二千石の領土を与える。そのほか、何か望みがあれば申してみるがよい」
 翔はここぞとばかりに即答した。
「私はこの国の人間ではございません。ですから領地は辞退したく思います」
「二人とも天宮の弟だと聞いたが?」
 将軍の言葉に圭が割って入った。
「いえ、いささか事情がありまして、彼は他国の親類の元で生活しておりましたもので。ですから姓も違うのです」
「そうか。では代わりにそれに見合った金子を遣わそう」
 しかし翔はそれも断った。
「いえ、金子も不要にございます。その代わり、一つお願いがございます」
「何だ、申してみよ」
 翔はここで息をついた。夢中で答えてはいたが、この人に囲まれた中でこれまで会ったこともないようなプレッシャーを放つ人間を前にして、多少緊張していたためであった。
「実は南雲殿と面会したく存じますが、生憎、南雲殿は陽京へ出張中でこちらにはいらっしゃらない、と伺いました。そこで図々しいのは承知の上で申し上げますが、南雲殿を呼び戻していただきたいのです」
 将軍は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、やがて重々しく口を開いた、
「なるほど、わかった、と言いたいところだが、南雲は自分の仕事を決して途中では投げ出さぬ男。仕事が終わらぬうちは戻って来るまい。例えわしが言ったとしてもだ。あの男はあれでなかなか頑固だからな。済まぬがその望みは叶えてやることはできぬであろう」
 将軍の答えを聞き、どうしたものか迷ったが、少し考えてから翔は顔を上げて口を開いた。
「それならば、私の方から会いに行きたく思います。つきましては、閣下にそのための助力をお願いしたく思います」
「分かった。協力しよう。しかし帝国との関係悪化を防いでくれた者に対して、このぐらいしかできないとは申し訳ないと言うか、なんと言うか…」
「いえ、閣下。その御心遣いだけで十分でございます」
「それではもう一人の功労者、天宮陵」
 将軍は陵の方を向いて言った。
「はい」
「そなたまで褒賞を辞退すると言い出すのではあるまいな?」
 陵は圭の方をチラリと見たが、すぐに向き直って答えた。
「…謹んでお受け致します」
 そして深々と頭を下げた。
「では仔細は後ほど使いの者をやり、連絡する」
 そして将軍は退室し、その後に翔たちも退室した。

 その日の夜、将軍は書斎で書類に目を通していた。その後ろに一つの影が現れた。
「風魔か」
「はい」
「取調べは済んだか」
「やはり、阿部の仕業のようです」
「そうか。ならば直ちに陛下へ連絡して、阿部家の処遇を決めねばな」
「もうすでに南雲が会見を申し入れました」
 将軍は軽く笑った。
「相変わらず、行動が早いな。して、陛下はなんと?」
「将軍と直に会って話がしたい。そのための日取りは近日中に伝える、と」
「分かった。ではすぐに準備に取り掛かったほうが良いな。留守中のことは副将軍に一任する。そう伝えてくれ」
「かしこまりました」
「しかし私を直々に指名とは、陛下は一体、如何なる御積りであろうか」
「さあ、私には分かりかねますが」
「まあ良い。では頼んだぞ」
「承知しました」
 そして影は消えた。
(そうだ、土方とかいったか。あの男は南雲に会いたがっていたな。今、南雲を連れ戻すことはできぬ故、あの時はああ答えたが、こちらから行くのであれば連れて行ってやらねばな。今回の事件にかかわっていることでもあるし。しかし、何かこの国の人間には無い空気を含んでいる男であったな。不思議な男よ。一体何者か)
 将軍は再び書類に目を通し始めた。

 少し時を遡った陽京の皇居。かつてはこの国の政治の中枢であったこの土地は今でも人口が多く、栄えている。幕府が大京にあるとは言え、民は幕府など一時的なものであり本当の首都は歴史あるこの陽京と考えているのであろうか。多くの商人や職人は未だこの土地に多く留まっている。
「ば、ば、幕府の使いが来たそうじゃ。ど、ど、ど、どうすれば良い」
 たどたどしく話す、頼り無く意志の弱そうなこの男こそ天皇である。着物はだらしなくはだけ、どたどたととても気品があるとは言い難い歩き方をしている。外見上はすでに五十を過ぎているように見えるが、まるで子供である。阿部嘉晴に傀儡として扱われるうちにすっかり骨抜きにされてしまったかのようだ。
「お、お前の言う通りにしたのじゃぞ。な、な、な、なんとかせい、阿部」
 阿部とは勿論、阿部嘉晴の息子、阿部清晴の事である。阿部はいかにも残忍そうな血走ったような細い目をさらに細め薄い唇を歪めて答えた。
「何を慌てておられるのです、陛下。幕府はこの事件の首謀者は私と考えています。陛下が取り乱されることはありません。今日の使いもおそらく、私の処遇について話し合うということのためでしょう」
「で、ではどうすれば良い」
「これからが本番です。使者には将軍と直々に話し合うからということで、今日のところは帰ってもらいましょう。その後のことは私にお任せください」
「そ、そうか、分かった。おい」
 天皇はそばの小姓を呼んだ。
「そういう訳じゃから。そう伝えて早うに追い返せ」
 小姓が部屋を出て行くと、阿部は再び口を歪めて言った。
「まあ、ご覧になっていて下さい。あの纂奪者から権力を陛下に取り返してご覧にいれましょう」
「た、頼りにしているぞ」
「お任せ下さい。では失礼致します」
(権力は取り返してやろう。しかしそれはすぐにこの阿部清晴がいただいてやる。結局お前は、死ぬまでただのお飾りだ。まあ、天皇なんてのは元々、そんなものだし、何もしていないのにこれだけの生活ができるのだから構いはしないだろう。しかしまあ、これで俺も完全に悪役だな)

 夜の天宮家。圭が仕事を終えて帰って来た。
「お帰り、兄貴」
「お帰りなさい、圭さん」
「ただいま。翔君、いい加減に僕のことを兄と呼んでくれても良いんじゃないかい」
「でも圭さんこそ翔君って呼ぶじゃないですか」
「それは君がまだ僕を兄と呼んでくれないからだよ」
「分かりました。じゃあ今度からなるべく兄さんと呼びますよ」
「そうそう、それで良いんだよ、翔」
 そして三人は笑い合った。兄弟のいなかった翔にとって、ここは正に夢のような空間であった。
「ところで、良い知らせだよ。将軍が陽京に行くことになったから、君も連れて行ってくれるってさ」
「本当ですか」
「で、明日出発するらしい。だから今夜のうちに用意を済ませて、明日の朝一番に僕と一緒に幕府へ行くんだ」
「ようし、これで南雲に会えるぞ」
 はしゃぐ翔の横で陵が浮かない顔をしているのに圭は気が付いた。
「どうした、陵」
「翔、行っちゃうんだね」
「あ、ああ」
 翔は陵の言わんとする事が良く分からなかった。
「南雲と会ったらもう元の世界に帰っちゃうんだよね。もう会えなくなるんだよね」
 陵の言葉を聞いて、翔と圭は口をつぐんだ。
「いやだよ、そんなの。翔とはずっと一緒にいたいよ。ねえ、帰るなんて言わないで、俺たちと一緒に暮らそうよ」
 陵は泣きながら翔の肩を揺さぶった。翔は黙ったまま、下を見ていた。そんな陵の腕を掴んで圭は言った。
「陵、聞き分けのない事を言うな。翔君には向こうでの翔君の生活があるんだ。ご両親も心配なさっているだろうし」
「でも、でも…」
 翔は閉じていた目を開き、陵の肩に手を置いて言った。
「なあ、陵。俺がこの世界に来れたって事は、向こうに帰ってもまたこっちに来ることが出来るって事じゃないか。だから心配するなよ。南雲から帰る方法と一緒に、こっちに来る方法も聞き出して、また会いに来る」
「本当に、本当に来るんだね」
「ああ、約束だ」
 陵は涙を拭いながら言った。
「きっとだよ」
「さあ、明日は早い。二人とも、もう寝よう」
 圭がそう言うと、翔は首を振った。
「今夜はもっと話をしていたい」
 圭は笑みを浮かべた。
「ああ、そうだね。そうしよう。ありがとう、翔」
 そして三人は朝日が部屋を照らすまで語り続けた。

 翌朝、翔と圭は準備を済ませ。家を出るところであった。圭は陵に言った。
「じゃあ、陵。行ってくるよ」
「うん。気を付けてね、翔も」
「ああ、ありがとう。それじゃあ」
「さよなら、翔」
「じゃあ、またな」

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