第二章 接触−猛る狼、笑う阿修羅

第二話 宿命の出会い

 大陸西部に位置するラードルール公国。この国は五つの自治区に別れ、それぞれを大公と呼ばれる人物が支配していた。そのうちの一つ、イトゥーリオ。ここはアルバラルカスの部下、ラヴァーダを先祖とするロクアドル家が統治していた。現在の大公はロレント・ロクアドル。今年で五十五になる人物である。彼には三人の息子がいた。それぞれローランド、ローレンス、ロイフィックといった。ローランド、ローレンスは大公の妾であるレニーから生まれた。ただしローランドは四年前に病気で他界している。一方、ロイフィックは大公の本妻であるアリーナの子である。そのため、ロクアドル家は複雑な事情を孕んでいる。レニーというのは元は町娘で、ロレントが若いころ城下に来た時に見初めて妻とした。しかし元々、位の高い家柄ではないため、妾という形をとることになった。そしてもらった本妻がアリーナである。大公はアリーナよりもレニーを愛していた。だから長男のローランドの死後、ローレンスを次の大公にと考えている。ところがアリーナはどこの馬の骨とも知れない町娘の子を大公にしたくはない。と言うよりも自分の子供を大公にしたい。そんな親同士の思惑もあってか、子供たちの仲は良くない。正確にはロイフィックがローレンスを嫌っているだけで、ローレンス自身は別段ロイフィックを嫌っているということはないのだが。
「はあ」
 ローレンスは隣の大公領であるオルフェリオとの境にある森の泉にいた。彼は癖のある長めの髪をくしゃくしゃとかきまわして独り言を呟いた。そのとき後ろから声をかける者があった。
「よう、どうした。シケた面してよ」
「ああ、ライル」
 その男の名はライラック・レオドリア。オルフェリオの大公であるマール・レオドリアの長男である。身長はローレンスより若干高い。年齢も二つ上。茶色の長髪が特徴的である。顔は面長で少し垂れ気味の目をしている。ほどよくついた筋肉が常日頃から鍛えているという事を伺わせる。二人は仲が良く、ローレンスは親しみを込めて彼のことをライルと呼んでいる。
「またいつものか」
「ああ、まあね。どうして僕の家族は仲良くいかないのかな」
「そりゃあ無理ってもんだな。何度も言うようだがお前は妾の子だし、弟もその母親もお前を邪魔者としか思ってないからな。それなのに大公は死んじまったお前の母親とお前の味方だ。どうしたって上手くいくわけはないさ。そんなことは言われなくても分かっているだろう」
 ライルの言葉通り、このことは二人の間で幾度となく交わされてきたお決まりの会話なのである。ローレンスはいっそ口に出して愚痴ったほうが気が楽になるので、いつもライルに話しているのである。ライルもローレンスが昔から悩んでいることを知っているため、この話に付き合っている。
「でも僕自身は大公になりたい訳じゃないのにな」
「お前の考えなんて問題にされていないのさ。親父さんはお前を大公にしたい。それだけでもうお前の家族は上手くいかなくなるんだ」
「そうなんだよね。父さんは僕がいくら言っても、妾の子だからって誰にも遠慮することはない、って言って聞かないし。別に遠慮している訳じゃないのに。同じ家族なんだからもっと仲良くしたいのになぁ」
「同じ家族、か。でも向こうは同じだとは思っていないかもな」
「やっぱり僕は邪魔者なのかな」
 寂しげな表情でローレンスは泉を見つめていた。そんなローレンスの背中をライルは叩いて言った。
「なあ、遠駆けでもしないか」
「いや、今日はやめておくよ。もう帰るから」
 そう言い残すと、ローレンスは泉を後にした。
「あいつ、いつかとんでもないことをやらかすんじゃないだろうか」
 心配になったライルは思わず口にした。幼いころから親同士の縁もあって二人は大変仲が良かった。ライルはその頃から自分は将来、大公になるのだろうと漠然と思っていた。しかしローレンスは大公の家に生まれたら大公にならねばならないのか、という疑問を持っていてそのことをしばしばライルに話していた。特に自分の母親が妾であり、ロイフィックの母親が本妻である、ということの意味を知ってからは何も自分が大公になる必要はないと強く思うようになった。ローレンスのそんな面を知っているし、最近ライル自身も早く後を継ぐように急かされていたのでローレンスの気持ちは良く分かる。だからライルはローレンスが突拍子もないことをしでかしたりはしないかと少々心配になったりもするのであった。

 早朝の幕府の学問所。あまり広くはないこの建物の二階の一室に一人の男がいた。水瀬大河である。彼はいつも誰よりも早く来て一人で勉強をしている。休みの日には同じくらい早い時間から資料館に行っている。その日も水瀬は講義が始まるまで一人で勉強をしていた。そこに一つの人影が現れた。その人影は室内の花瓶を取ってから部屋を出ようとして向きを変えたとき、軽い悲鳴をあげた。
「きゃっ」
 その声を聞いて水瀬は顔を上げた。人影の正体は東山明日香であった。
「びっくりした。まだ誰もいないと思ってたのに。水瀬君っていつもこんなに早く来てるんだ」
「ああ」
 相変わらず愛想のない返事である。
「水瀬君、一つ聞いてもいい?」
「手短にな」
「水瀬君って毎朝こんなに早く来て、休みの日も資料館で勉強して、何か目標でもあるの?アカデミーに入りたいとか」
 明日香の言葉を聞いて水瀬は吹き出した。
「アカデミー?アカデミーだって?俺はアカデミーなんて意味のない所に行く気はないね。奴らは先人の書いた物を追いかけるだけで、社会の役に立つことは何もしていない。それなのに自分たちは優れた人間だと勘違いしている。そんな愚か者たちの中に入って行く気はサラサラないね」
 少しムッとして明日香は言った。
「随分はっきりと言うのね。じゃあ何がしたいの」
「分からん。ただ、やりたいことがあるのならもうやっている。それが決められないからこうやって知識を増やしてその中から見つけていこうとしているんだ」
「ふうん」
「もういいだろう。忙しいんだ、邪魔をしないでくれ」
「あ、ごめんね。どうぞ続けて」
 そう言って明日香は花瓶を抱えて部屋を出て行った。水瀬の考えを聞いてもよく分からなかったが、それでも自分とは考え方が違う、ということぐらいは分かった。明日香は何とはなしに自分とは違う水瀬の考え方が気になった。
 その日の講義が終わった後、水瀬は先生に呼ばれた。
「何の用でしょうか」
 職員の控え室に入るなり水瀬は尋ねた。
「ああ。実はな、今度ラードルールで国際学術会があるのは知っているだろう。それでな、この国の代表としてお前に行ってもらおうと思うんだが」
「でもあれは確か毎年アカデミーの人が行くはずでは?」
「いや、今年はアカデミーからは誰も行けなくてな。そこで学生の中で成績が一番優秀なお前に行ってもらおうということになったんだ。行ってくれないか」
 ほんの少し考え込んでから水瀬は答えた。
「分かりました。興味もありますし、何か自分の役に立つこともあるかと思いますので行ってみます。でもいいんですか、自分のような、言ってみれば若造が出席しても」
「気にするな。今まで十代の代表者がいなかったわけじゃない。それに今回はスフィッツオの代表者がお前よりも若い十六歳だというぞ」
「へえ、そうですか」
「じゃ、ま、詳しいことは後で伝えるから、よろしく頼むぞ」
「分かりました」
 話が終わって水瀬が帰ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「おめでとう、水瀬君」
「東山さんか。聞いていたのか」
「うん、ちょっと用事があって先生の所に来たら水瀬君がいてね。聞こえちゃった。すごいね」
「そうか?」
「うん、すごいよ。だってアカデミーの人達と同等と評価されたんだもの」
「あんな連中と一緒に見られても迷惑なだけだ」
 相変わらずの調子の水瀬を見て、明日香は軽く笑って言った。
「頑張ってね」
「ああ、それじゃ」
 そう言い残して水瀬は去って行った。

 翔は幕府に着くと圭に少し広めだが何もない部屋に案内された。
「翔君、すぐに使いの者が来るからそのまま待っていてくれ」
「ええ、分かりました。圭さんは陽京へは行かないんですか」
「ああ、僕のとは種類の違う仕事だからね。残念ながら行かれない。君とも今日でお別れだな。…短い間だけれど、とても楽しかったよ。ありがとう」
「やめて下さい。お礼を言うのはこっちの方です。それに言ったじゃないですか、きっとここへもう一度来るって。もう二度と会えないような言い方はしないで下さい」
「ああ、そうだったね。陵と二人で待っているよ。じゃあ、僕は仕事があるから、もう行くよ。またね」
「はい。それじゃあ、また」
 圭は名残惜しそうに立ち去った。するとすぐに使いの者らしき男が現れた。
「土方様でございますね」
「ああ、そうだけど…」
「将軍がお待ちです。いらして下さい」
 翔はその男について行った。そこは大きな広間で、将軍のほかにも何人かの人間がいた。彼らは一目でこの国にとって重要な人物であると分かるような顔付きをしていた。翔はその場の雰囲気に圧倒されて、息を呑んだ。翔の姿が目に入ったので、正面に座っていた将軍が口を開いた。
「よく来たな」
 将軍がそう言うと、翔の隣に座っていた男が翔のズボンの裾を引っ張って言った。
「将軍の御前だぞ。平伏しろ」
 翔は慌てて座って頭を下げた。
「構わぬ、楽にせい。今日呼んだのは外でもない。天宮から聞いてはいようが、改めて言おう。実はわしはこれから陽京へ行かねばならなくなった。だから先日の約束どおり連れて行こうと思ってな」
「はっ、無理な願いをお聞き頂き、感謝の言葉もございません」
「では早速これから出発なのだが、構わぬか」
「ええ、私の方はもう全て済んでおります」
「ふむ、では後のことはよろしく頼むぞ。」
 将軍は隣に座っていた男に言った。その男こそは副将軍・熱海冬雪である。幕府のことなどは何も知らない翔にでさえ、その人物は要職にあると思わせるような雰囲気を持っていた。翔は改めて、自分がこれまでとはまったく違う世界にいることを感じていた。
将軍との会見が終わった後、翔が案内されて馬車のある所に着いた時に、後ろから声を掛けられた。
「君が土方翔君だね」
 振り返るとそこには翔と同じぐらいの年齢の少年が立っていた。その少年は翔よりもいくらか背が高く、美しい模様の着物を着て腰には刀を帯びていた。
「君は…」
「東山光明。将軍の息子さ」
「これは失礼致しました」
「いいよ、いいよ。そんな改まった喋り方しなくても。年だって同じぐらいだし、何より君はこの国の人間じゃないんだろう。気にしないで光明って呼んでくれよ」
 翔は感心した。権力者の子供という者は大抵、嫌みな性格でどこか偉ぶったところがあると思っていたからである。
「じゃあ、俺のことも翔って呼んでくれよ」
「じゃ、乗ろうか」
 翔は光明の後に続いて馬車に乗り込んだ。

 数日後、将軍の一行は陽京に到着した。この道中は翔にとっては馬車に乗るのも初めてなら、このような長旅も初めてという貴重な体験であった。そのため、いささか気苦労があろうかと思ってはいたが、同じ馬車に乗った光明と気が合い、ずっと話をしていたのでさほどのことはなかった。その話の内容はと言えば翔が光明から登陽のことについて質問することがほとんどであった。そのため、退屈さを感じることもなかった。こうした五日ほどの馬車行を経て、一向は陽京入りした。
 目的の宿に着いたらしく、翔が光明の後に続いて馬車を降りると、宿の玄関へと案内された。
(流石に将軍の泊まる宿だけあるな。立派なもんだな。俺までこんな所に泊まっていいのかな)
 翔がその豪華な宿を見上げていると光明が声を掛けた。
「何してるんだ、早く入ろうぜ。翔は俺と一緒の部屋だからな」
「ん、あ、ああ」
「本当は将軍の息子が見知らぬ男と相部屋なんて許されることじゃないんだけど、翔はこの国は初めてのようだから知った者が誰もいないと不安だと思って頼んだんだ」
「悪いな、ありがとう」
 翔と光明は『藤の間』という部屋を割り当てられた。二人が部屋の中に入って目に付いたのは、窓の外に見える大きな寺であった。
「凄いな」
 翔は思わず声にした。
「あれは西漣神殿。陽京一の神殿さ」
「神殿?寺じゃないのか」
「そうとも言うな。でも普通は神殿って呼ぶぜ」
「そうか、俺の所とは宗教が違うだろうからな」
「気に入ったんなら、後で見に言って来なよ」
「いいのか」
「大丈夫だよ。親父には俺の方から言っておくから」
 光明は話をしながら湯を沸かし、お茶を入れていた。
「はい」
 お茶を手渡された翔はこの少年にますます驚いた。将軍の息子などという身分でありながら、何の権力も持たない男に対して自分から茶を入れる。なかなか出来ることではない。普通は相手に入れさせるものだ。このようなちょっとしたことからでも、その人の人格は伺い知れるものである。
「ありがとう」
 翔がお茶をすすっていると、光明はテーブルの上にある箱を開けた。
「ああ、茶菓子だ。旅館側で用意しておいてくれたんだな。翔、食うかい」
 翔はその茶菓子を一つ受け取って、しげしげと見つめた。
(生八橋そっくり。修学旅行とかじゃあ、必ず部屋の中で取り合いになるんだよな。そのうち隣の部屋のヤツまで奪いに行ったりして)
「どうしたんだ、翔。この茶菓子がそんなに珍しいか」
「いや、全然。だから驚いている」
「ふうん?じゃあ、俺は親父に話があるからちょっと行って来るよ。翔もそこらへんでも見て来なよ。あんまり遅くならなきゃ、大丈夫だからさ」
「ああ、わかった」
 光明が部屋を出て行った後、しばらくしてから翔も部屋を出た。

 ある日ライルは、父でありオルフェリオの大公でもあるマール・レオドリアに呼ばれて書斎へ行った。
「父上、如何なるご用件でしょうか」
「ライラック、お前も今年で二十歳になる。そろそろ良いだろう」
「お、おまち下さい、父上。私はまだ…」
「いい加減に決心しろ。もう相手は探して来た。肖像画も用意してある。見てみろ」
 この二人が話しているのは、ライルの結婚についてである。マールは心臓に持病があるため、早くライルに後を継いで欲しいと思い、結婚を急かしているのである。しかしライルは乗り気ではない。何も大公になるのが嫌なのではない。大公になるにあたって、妻を娶れというのが嫌なのである。
「どうだ、美しかろう。今年で十六らしい」
(肖像画なんて当てになるもんか。特に貴族なら尚更だ)
 ライルは父の手から肖像画を受け取ったが、一瞥をくれることさえなかった。
「何と言ってもあのバランタイン家だ。お前の将来にも有利に働くこと間違いなしだ。どうだ、気に入ったか」
「あのバランタイン家、ですか。それはすごいですね」
 ライルは感情のこもっていない声で言った。バランタイン家とはラードルールで一番大きな領地を持つ貴族であり、経済的には大公にも迫るほどであると言われている。
「人事のように…、お前のことだぞ。なあ、気持ちも分からんではないが、早くわしを安心させてはくれぬか」
「はあ」
「もう良い、下がって今夜は休め。よく考えておいてくれよ」
「はあ、では失礼します」
 部屋に戻ったライルは窓を開け放して、ぼんやりと外を眺めていた。
(ローレンス、やっぱり大公の息子になんてなるもんじゃないよな)
 ライルはワインを一口飲むと、ベッドに大の字になった。

 翔が旅館を出て先程の寺の方角へ向かって歩くと次第に人通りが多くなってきた。割合、高級と思われる宿屋が並んでいることもあり、歩いている人々は値段の高そうな良質の生地で出来た服を着ている。人だけではなく、馬車も多い。特に翔が歩いて行く方角に向かう馬車が多いようだ。いくつもの馬車に抜かれながら歩いていると、宿場町の出口に着いた。ここまで歩いて来たためいい加減疲れたので、翔は町の出口近くにあった茶店に入って行った。出発前に圭にもらったこの国のお金はあまり多くはなかったが、どうせ使う機会もあまりないだろうからここで多少使っても問題はないと思った。店は生憎と混んでいるようで、翔は相席を余儀なくされた。翔は冷たいお茶を注文して、向かい席の人にお辞儀をして座った。
「どちらへ行かれるのですか」
 声を掛けられて翔は顔を上げた。
「え、えっと、西漣神殿へ」
 相手の男はちょうど二十歳ぐらい。細い目と薄い唇以外はそれほど特徴のある外見ではない。ただ、翔のジャンパーをジロジロと見ている。翔はこの国では珍しい服なので見ているのだろうと思ったが、黙ったままでいとずっと見られていそうで何となく気まずいので、翔の方から話しかけた。
「初めて来たんですが、良いところですね、ここは」
 相手の男は笑って言った。
「そうですか、私もここが好きなんですよ」
「あなたはここに住んでいるのですか?」
「ええ、分かりますか」
「いや、なんとなくそうじゃないかと思っただけです」
「私も実際、長い訳じゃないんですけどね。けどまあ、気に入ってますよ。前に住んでいた所を思い出しますからね」
 翔の注文した品がきたのでそれを一口飲み、そして話題を転換した。
「ここらへんは貴族が多いんですよね」
「ええ、皇居がありますしね」
 二人はしばらく黙っていたが、翔は思い切って尋ねた。
「あの、ちょっとお伺いしたいのですが阿部清晴と言う人をご存じですか」
「阿部清晴、ですか。まあ、有名と言ってもいい人ですからね。知っていますよ。しかしなぜ?」
「ええ、ちょっと。それで、どういう人なんですか」
「では私が知っている範囲でお教えしましょう。御存じかもしれませんが彼、阿部清晴は阿部家の第十九代当主です。阿部家というのは全貴族の中でも最も由緒ある家柄です。しかし十八代目の阿部嘉晴が子宝に恵まれず、養子として連れて来たのが彼です。どこから連れて来られたのかは誰も知りません。一年半で阿部家の当主としての修行を済ませ、ちょうどその時に先代が不幸な事故でなくなって当主の座を得たそうです。彼はいずれこの国の権力を手に入れようとしています」
「な…、その話は本当ですか」
「ええ、間違いありません」
「しかし、…あなたはなぜそんなことを知っているのです」
「それはね…、ちょっと失礼」
 そう言うと、男は懐から何かの箱を取り出した。そして箱の中から白い棒を取り出し、口にくわえて火を点けた。翔は即座に反応した。
「煙草…、日本人!」
「そうさ、君と同じ」
「え、どうして…?」
「その皮ジャン、SFのものだろう」
 翔はハッと自分の皮ジャンを見た。左の肩には狼をデザインしたエンブレムが付いている。このエンブレムはシルバー・ファング、通称SFと呼ばれる日本では有名な新鋭のメーカーのものである。
「あんた、何者だ」
 相手は含み笑いをして答えた。
「俺が阿部清晴だ」
 翔は驚きのあまり立ちあがった。
「貴様が阿部か」
「なぜ俺を探す?」
「貴様だな、カイアンをあんな目に会わせたのは」
「カイアン?ああ、あの皇子様か。そんな事はどうでも良いだろう。それよりも、俺と手を組まないか?」
「どういうつもりかは知らないが、貴様のような奴と手を組む気など無い。それよりも貴様がカイアンにしたことはどういうことだか、分かっているのか」
 翔が腕を伸ばして阿部の襟を掴もうとしたとき、阿部の姿は消えて声だけが残った。
「思ったよりも直情的な男だ。ま、今は気が立っているようだから、しばらく時間を置くことにしよう。次に会うときまで、良く考えておいてくれ」
「くっ、どこだ」
 翔は辺りを見回したが、声も聞こえなくなっていた。そのとき、後ろから声を掛けられ、翔は振り向いた。
「お客さん、あんまり大きな声出すと、他の人に迷惑だよ」
「あ、ああ、済まない。もう出るよ、いくらだい」
「お連れさんの分と合わせて二銀だね」
 翔は店主の言っている意味が良く分からなかった。
「連れ?連れなんていないが」
「何言ってる。さっきまでそこにいただろうよ。話ししてただろうよ。それとも踏み倒そうってかい」
「あ、ああ、そうだな。うっかりしていた。二銀だな」
 翔は二銀を渡して、そそくさと店を出て行った。
(阿部清晴、この貸しは高くつくぞ)
 翔の心には怒りがあったが、同時になぜ自分を仲間に誘うのかという疑問も残った。

 森の泉。ここではローレンスとライルがいつものように話をしていた。
「なあ、ローレンス。聞いてくれよ」
「なんだい」
「親父の奴、また見合い話を持って来やがった」
「ふうん、大変だね」
「人事だと思って…。しかしお互い大変だな」
「うん、そうだね。ああ、兄さんが生きていてくれたら、こんなことで悩まなくて済んだのに」
「今更言っても仕様が無いだろう」
「なら、ロイに継がせりゃあ良いんだ。ロイは頭も良いし、きっと上手くやると思うんだけどな」
「俺は反対だな。あいつ、なんだかやばい奴って気がするんだ」
「人の弟をつかまえて、ひどい事言うなあ」
「あ、いや、すまん。そういう訳じゃないんだ」
「それよりも、今度の相手は誰」
 ライルは一瞬、ローレンスの言わんとすることを掴みかねて戸惑ったが、すぐに答えた。
「ああ、バランタインだ」
「あのバランタインか。良い話じゃないか」
「家にとってはな。でも俺自身にとって良い話かどうかは、また別さ」
「気に入らないのか」
「まだ会っていない」
「じゃあ、分からないじゃないか」
「いや、でも…」
 そのライルの様子からローレンスは何かを感じ取った。
「ああ、誰かほかに好きな人がいるんだね」
「いや、違う違う、そうじゃない」
「なんだよ、僕にまで隠すことはないだろう」
「そういうんじゃないんだ。ただ、前に一度見た時、なんかいいなって思ってさ。それだけだよ」
「誰?僕の知ってる人?」
 ライルはしばらく黙っていたが、観念したように話し始めた。
「仕方ないな。誰にも言うなよ。オルフェリオの城下に大きな花屋があるのを知ってるか」
「ああ、三叉路の所の」
「そうそう。あそこでちょっと前から働きだした娘がいるんだ」
「その娘か」
「ああ」
 ローレンスはちょっと考えてから言った。
「正直に父上にそう言えば良いんじゃないかな。その娘が気になってるから、ほかの女性とは会う気はないってさ」
「言えるかよ、そんなこと。ほとんど話したこともないのに。それに例えその娘と上手くいったとしても、親父は認めやしないさ。お前の親父さんを見ているからな」
「なるほど。そう言われると、何も言い返せないや」
「つくづく思うね」
「大公の息子になんて生まれるもんじゃないって?」
 一時でも悩みを忘れられることを願っているかのように、二人は同時に大きな声で笑い出した。

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