第二章 接触−猛る狼、笑う阿修羅

第四話 孤独の少女

 イトゥーリオの大公の館。その日は朝から騒がしかった。
「何処にもいないのか」
「部屋からは服が何着かと愛用の剣が、シャンナ小屋からはシャンナが一頭いなくなっています。おそらくはしばらく帰ってこないつもりかと思われますが」
「そうか…。下がってよい」
 そしてその男は椅子に腰掛けて溜め息をついた。
(ローレンス、お前までいなくなったらわしは…)
 その男はイトゥーリオの大公、ロレント・ロクアドル。朝、起きてからローレンスを呼びに使いの者を部屋にやったが、彼は姿を消していたのである。
(お前にも何か考えあっての行動であろう。しかしこの父に何の相談もないとは…。一体何処へ行ったのだ)
 そんなことを考えていると、衛兵が入ってきた。
「失礼します」
「何だ」
「閣下に面会を求める方が…」
 衛兵が言い終わらぬうちに、大公は言葉を遮った。
「引き取らせろ。今は誰にも会う気はない」
 すると衛兵は困った顔をした。
「よろしいのですか、ライラック・レオドリア様ですが」
 そう言われて大公は顔を上げた。
(ライラック・レオドリアか。ローレンスとも仲の良いあの男なら、何か知っているやも知れぬ)
「通せ」
「はっ、只今」
 衛兵は急ぎ足で部屋を後にした。しばらくすると、ライルが衛兵に連れられてやって来た。大公と面会であるため第一正装である。左胸に鷹の紋章を付けた服を着て、濃い緑色のマントを羽織っている。彼は一礼して言った。
「おはようございます。大公閣下におかれましてはご機嫌麗しゅう、とは言い難いようで」
 ライルの言葉を聞いて大公は言った。
「その口振り、そしてこのように朝早くからの参上とは、何があったのかもう御存じのようだが」
「御子息のことでしょう。そのことについて、一つ」
「何か知っているのか」
「ええ、実は今朝目が覚めたら窓の間にこのような物が挟まっておりまして」
 そう言ってライルはマントの中から封筒を取り出し、大公に手渡した。表には『親愛なるライラック・レオドリアへ』と、そして裏には『ローレンス・ロクアドル』と書いてあった。既にライルは目を通したらしく、封筒は開いていた。
「…読んでも構わぬか?」
「閣下にはその権利があると思います」
 ライルがそう言うと、大公は封筒の中から手紙を取り出した。
『僕は今夜、家を出る。国を離れて考えたいことがあるんだ。詳しいことは今は話せないが、これは僕自身にとっても、この国、いや、全世界の国々にとっても重要なことだと思う。だからしばらく時間が欲しい。じっくり考えたいんだ。それにこのことはいろんな国を見て回ることが必要なんだ。でも父さんに言ってもきっと反対されるだろう。だから黙って出て行くことにした。父さんには君の方からうまく言っておいてくれ。なんならこの手紙を見せてもらっても構わない。父さんに手紙を残して行こうかと思ったけれど、見つけたらすぐに追っ手を出すだろう。でも君の所なら手紙を見つけてから父さんに知れるまで時間がかかる。だから君のところへ置いて行くことにした。
 僕はきっと帰ってくる。どのくらいかかるのかは分からないけれど、きっと帰ってくる。だから心配せずにその時まで待っていてくれるよう、父さんに伝えてくれ。
 急いで書いたから、字は汚いし文章も整っていなくて読みづらいだろうけど、勘弁して欲しい。それでは、しばらくさよなら』
 それは幾分崩れた字体ではあったが、確かにローレンスの筆跡であった。大公は読み終えてから暫く頭を抱えたまま、考え込んでいた。ライルは心配になって思わず声を掛けた。
「…閣下?」
 すると大公はゆっくりと顔を上げた。
「済まぬ。突然のことなので少々動揺してしまったようだ。いや、しかし良く知らせてくれた礼を言う」
「閣下、差し出がましいようですが、彼には彼なりの考えがあっての行動でしょう。あまり心配せずとも…」
「うむ、分かっている。しかし、しかしな…。済まぬが、一人にさせてくれ」
「はい。失礼致します、閣下」
 ライルが一礼して退室すると、衛兵たちも部屋を出て来た。
(ふう、先を越されたな)
 ライルは何とも言えない気持ちで館を後にした。

 その大公館の騒ぎの張本人はシャンナに跨がり、北へと向かっていた。
(ここまで来れば大丈夫だろうか。夜通し駆けて来たから、追っ手があったとしても追いつけやしないだろう。取り敢えずラードルールを出ないことには話にならない。このまま北へ行ってジェダの森を抜けてソロレシアにでも向かうとするか)
 ローレンスはシャンナから降りて、まだ昼前の太陽に照らされながら皮袋の中の水を口に含んだ。この辺りは町から遠くあまり人通りもないようだ。それでも遠くに見える畑では野良仕事をしている人がポツポツと見える。ローレンスはシャンナを引いてそこまで行った。
「あんた、旅人かい」
 近付いてくるローレンスの姿に気が付いたらしく、ぼろを纏った人の良さそうな中年の農夫は声を掛けてきた。
「ああ、そうだ。ここらへんはどの辺りだい」
 ローレンスは旅人らしく見えるように、あらかじめ質素な服を選んで着ていた。普段着ているような服では、貴族が何かを探りに来たのか、などと痛くもない腹を探られかねないと思ったからだ。もっとも全くやましいところがないわけでもなかったが。ともかくその甲斐あってか、農夫は何の疑いもなしに答えてくれた。
「ここはおめえ、もうフレリオだべ。あんた、イトゥーリオから来たんだろう。どこ行くつもりか知らねぇが、悪いことは言わねえからソロレシアにだけは行くのはやめとけ」
「なぜだい。ソロレシア帝国は安全な国だろう。国も豊かで治安も良いし、あそこに行くのに何の心配もいらないんじゃないのかい。手形だって、ほら」
 ローレンスは懐からラードルールとソロレシアとの通行手形を出して見せた。
「それがな、何日か前にあすこの国は滅びちまったらしいぜ」
「なんだって。内乱か?いや、それはないだろう。じゃあ、何処がやったんだ。会王朝か、それともファーン王国か、まさかラードルールじゃないだろう」
「いやいや、戦じゃねえ。わしもよう知らんが、なんでも天から光が降って来て国中を襲ったらしい」
「は?」
 ローレンスは驚きの余り、目を丸くした。
「ソロレシアから逃げて来た奴がそう言っていたんだ。そいつが言うには光の矢は帝国だけ襲ったらしい。国境を堺にして帝国だけをな。そいつは国境の近くに住んでたから、すぐに逃げられたらしいがな」
「そんな馬鹿な」
「だからそいつは、『天の怒りだ、この国が何か神罰を受けるような事をしたんだ』、とか言ってたぞ」
「ううぅん」
 ローレンスはまだ信じられないといった様子で考え込んだ。
「まあ、信じる、信じないは勝手だがな」
 農夫は不機嫌そうに言った。
「あ、いや、信じるよ、信じる。ところで港にはどっちへ行けば良いんだい」
「この道を真っすぐ行くと二又に別れてる。その西側の道がそうだ」
「そうか、ありがとう。仕事の邪魔して悪かったね。それじゃあ」
 ローレンスはシャンナに乗り、手綱を取った。
「一雨来るかも知れんから気を付けろよ」
 立ち去るローレンスに向かって農夫は叫んだ。
(雨?こんなに晴れているじゃないか。降るわけないだろうに。帝国の話といい、信用していいものかどうか。でもまあ、念には念を入れて帝国は避けよう。港から船でファーン王国にでも行ってみるか。あそこはまだ新しい国だし、色々と面白いものがあるかもしれないな)
 ローレンスは手綱を引き絞って駆け出した。
 翔と光明は部屋で食事をしていた。湯上がりの火照った体を浴衣で包み、開け放した窓から流れ込んで来る冷たい空気に身を晒していた。
「なんだか、意外だな」
 先に口を開いたのは翔であった。
「何がだ」
「いや、何と言ったらいいのかな。こんなふうに部屋でバラバラに食事をとるっていうことがさ」
「別に不思議はないだろう。ここに来たのは公務であって慰安旅行じゃない。今まだ仕事中の者だっているし、皆揃って食事、って訳にはいかないのさ」
「そういうものなのかね」
「そういうものなのさ」
 若い二人はあっと言う間に食事を平らげ、食器を下げさせた。寝るにはまだ早い時間である。翔はもちろんのこと、光明さえ特にすることもなかったので二人は食後の雑談を楽しんでいた。そうしているうちに、部屋の外で声がした。
「光明様、南雲様が到着致しました」
 その言葉に先に反応したのは翔であった。
「本当か」
 光明は戸を開けて使いに言った。
「よし、分かった。すぐに会いに行こう。部屋はどこだ」
「いえ、南雲様の方から伺うとのことですので、そのまま部屋でお待ちください」
「ああ、分かった」
「それでは失礼します」
 二人は顔を見合わせた。
「やったな、翔」
「ああ」
 二人は、ことに翔は南雲が来るのを今か今かと待っていた。窓からの風が二人の肌にも冷たく感じられるようになったころに南雲は現れた。
「失礼します」
 南雲は自分がギリギリ通れるくらいに襖を開けて入って来た。光明は南雲の分の座布団と三人分のお茶を用意した。
「これは畏れ多い」
「いいからいいから。それより俺もここにいていいのか」
「それは勿論。あなたにも関係あることですから」
 最後の方は小さな声になったのでよく聞き取れなかった。そして三人はほぼ同時に茶をすすった。奇妙な沈黙が張り詰める。しかしそれはすぐに破られた。翔によって。
「早速本題に入らせてもらおう。俺を元の所に返してくれ」
「それは出来ない」
 南雲は目も合わさずに答えた。
「なぜだ」
「言っただろう、お前の力が必要だと」
「その割には今までほったらかしだったじゃないか」
「仕方あるまい、お前は何処かに行ってしまっていたからな」
「勝手に連れて来ておいて、まるで俺が悪いかのような言い方だな」
 声を荒げる翔を光明は抑えた。
「まあまあ、翔、落ち着いて。順を追って話して行こう。まず、南雲は翔の力が必要だから、この国に呼んだ、と言うんだな」
 今度は南雲も顔を挙げて答えた。
「ええ、そうです。その男だけではありません。あなたもです」
「俺も?何のために何の力が必要なんだ」
「大袈裟に言えば全世界の平和のため」
 翔と光明は相手の言っていることを聞き損ねたかのように南雲を見つめた。
「全世界の平和のためにです」
 南雲はもう一度繰り返した。
「何を言っているのやら…」
 翔は口を挟んだが、光明は手を挙げて黙らせた。
「やはりアレか」
「はい。あとどのくらいの猶予があるのかは分かりませんが、なるべく早く準備はしておきたいと思います」
「何だ、光明。アレってのは」
 光明は翔の方へ向き直った。
「魔神だよ」
「まじん?」
「ああ、そうだ。この世界に古くから伝わる伝説だ。いつの日か魔神が復活して災厄をもたらす、ごく簡単に言えばそんな内容だ。もっともそんな話は、俺自身あまり信じてはいなかったがな」
 翔は呆れたような声で言った。
「伝説の魔神だって?そんなものを根拠にして行動しているのか。馬鹿馬鹿しい」
 すると南雲は翔を睨みつけた。
「魔神はただの言い伝えではない。実在する。まだ覚醒していないお前には分からぬことだろうがな」
「覚醒?何のことだ?」
「十二神将としての、だ。…まあいい、いずれ分かることだ。とにかくお前の力は必要なんだ」
「じゅうにしんしょう?なんだ、それは。まあ、いずれにしても俺には関係ないな。自分たちの世界のことは自分たちでケリをつけるんだな」
「お前にも十分関わりあることだ。その首からぶら下げているトパーズがその証拠だ。それに全世界の危機と言ったはずだ。この世界だけではない、お前のいた世界も含めた、全ての世界だ」
 翔は祖母からもらった宝石を眺めた。
「これがその証拠だというのか。こんなものはどこにでもあるただの宝石だ。ならトパーズを持っている者はみんな、その力とかいうものがあるのか」
「これを見ろ」
 翔が南雲の方を見ると南雲も手に宝石を持っていた。
「猫目石?」
 南雲はその石を翔の持つ石に近づけた。すると二つの石は、耳が痛くなるほどに大きな高い音がして輝き出した。
「ただの宝石ではないことが分かっただろう」
 すると二人の様子を見ていた光明は急いで部屋の隅に行き、小さな箱を持って戻って来た。光明がそれを開けると、中にはダイヤモンドが入っていた。光明がその石を箱から取り出し、ほかの二つに近づけると同様に輝きと音を放った。
「なるほど、俺もか」

 ローレンスは既に海岸沿いの道を駆けていた。潮の香りを含んだ空気が鼻をつく。もう夕暮れ近い時刻であり、海からの風が一層冷たく感じられた。
(だいぶ来たな。そろそろ野宿するところを探さなくっちゃな)
 農夫と別れてからここに来るまで、宿どころか家の一軒さえ見なかった。それゆえローレンスは野宿を覚悟していた。まだそれほど寒い季節ではないので大したことはないだろう、という考えが彼にはあった。そしてシャンナから降りたその時、額に冷たいものが当たったような気がした。ローレンスが空を見上げる間もなく大粒の雨が降り出した。
(あんなに晴れていたのに…。あの農夫の言った通りになったな。しかし困った。これじゃあ野宿なんて言ってられないぞ。どこか雨をしのげるところはないのかな?)
 辺りを見回すと少し離れたところに大きな木が見えた。ローレンスはシャンナを引いてそこまで行った。一息ついて濡れた服を拭いていると、シャンナも身を震わせて水を払った。
(さて、どうしますか)
 ぼんやり辺りの様子をみていたローレンスの目に明かりが見えた。目を凝らしてよく見てみると、どうやら民家らしい。
(ありがたい)
 その家までは思ったよりも距離があったが、それでもローレンスはシャンナを引きながら走ってそこへ向かった。近付いてみると、その家は木造の小さなものであることがわかった。だがとても贅沢は言ってはいられない。ローレンスは戸を叩いて叫んだ。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか。一晩泊めて頂きたいのですが」
 ややあって戸は開けられた。中から出て来たのはローレンスと同じくらいの年齢の少女であった。金髪を肩まで伸ばし目はつり気味、高い鼻の整った顔立ちであったが質素な服を着ていた。彼女はローレンスを見るなり言った。
「そんな大きな声で言わなくても聞こえているわよ。こんな狭い家なんだから」
「ああ、それは済まなかった。不意の雨でね、泊めてもらえないだろうか」
「いいわよ、お入んなさい」
 ローレンスはシャンナを外につないでから招かれるまま家に入った。狭い。おまけに汚い。お坊っちゃん育ちの彼にとっては信じられない光景であった。しかしもっと気になることがあった。
「家の人は?」
「いないわよ」
「出掛けているのかい」
「一人で暮らしているのよ」
「そうなのか。それじゃまずいな」
「なにが」
「いや、女性一人の家に泊めてもらうなんてできない。失礼するよ」
 そう言ってローレンスは立ち上がろうとした。しかし少女はそれを止めた。
「何を言ってるのよ。大体、この雨の中、どこに行くつもり?」
「うん、それはそうなんだけどね…」
 ローレンスは腰を浮かせたままの姿勢で止まっていた。
「それとも貴方は女性と一緒にいると何かするの」
「い、いや、そんなことはない。これでも僕は紳士だ」
「それなら今夜はその紳士振りを発揮してちょうだい」
「…分かった」
 結局ローレンスは一晩、世話になることとなった。彼は腰を下ろしたが、何となく気まずい雰囲気を感じた。少女は黙ったまま座っているので、ますます話しかけづらい。ローレンスも黙ったまま、渡されたタオルを使って濡れた体を拭いていた。すると少女の方から話しかけてきたので、沈黙の苦手なローレンスも安心した。
「あなた、この辺りの人じゃないでしょ」
「ああ。イトゥーリオから来た」
「ふうん。わたしはミレイ。あなたは」
「ロー…いや、ロックと呼んでくれ」
 正体が知れると不都合があるかもしれない。特にここはまだラードルールだ。ローレンスは偽名を使うことにした。
「ふうん、ロックね。それで本名は」
「あ、えっと…」
「言いたくないならいいわ。貴方にも事情があるのでしょうから」
(勘の鋭い女だな)
 その少女、ミレイに何か油断ならないものをローレンスは感じた。
「何か食べる?」
「それじゃあ、御馳走になろうか」
「じゃあ今用意するわ。大したものは何も出来ないけれどね」
 出てきたものは本当に大したものではなかった。野菜が申し訳程度に入ったスープである。それでも体が冷えきった彼にとってはありがたいものであった。
「君は食べないのか」
 自分が食べる様を見つめているミレイが気になってローレンスは尋ねた。
「わたしはいいの」
「どうして」
「今日は食欲がないの」
「ふうん」
 ローレンスが食べ終えると食器を洗ってからミレイは部屋の隅にあるこの部屋には大きすぎるベッドに入った。
「これ一つしかないのよ。別にいいでしょ」
「よくない。いくらなんでもそりゃまずいよ」
「あら、貴方は紳士なんでしょう。だったら気にすることはないわ。それとも二人も入ると狭いとか、泊めてもらう身で文句でもあるわけ?」
「そうじゃないけど…」
「はっきりしなさい!」
「は、はい。おっしゃるとおりにいたします」
 ローレンスはミレイの迫力に押されて思わず承諾してしまった。
「それじゃ、もう寝るわよ」
 明かりを消して一足先にミレイは布団に入った。ローレンスはためらいながらも布団に入った。
(どういうつもりだ、この女)
 緊張してミレイに背を向けたローレンスはそんなことを考えていた。するともうミレイの寝息が聞こえてきた。
(もう寝たのか。図太い神経してるな。それに気も強い)
 彼はその晩ミレイのことが気になってなかなか寝付かれず、明け方に少しの間まどろんだだけであった。眠ったのかどうか自分でもわからないような状態の時に物音がして、ローレンスは気が付いた。ベッドの中であたりを見回すと、もうすでにミレイは起きていて朝食の支度を始めていた。
「お早うございます。昨夜は良くお休みになられましたか」
 昨日とはあまりに違うミレイの話し方にローレンスは戸惑い、言葉を失った。
「どうかなさいましたか。やはり二人で一つのベッドでは不自由でしたでしょうか」
「いや、そんなことはないけれど…」
「もうすぐ朝食が出来ますから、その間に外で顔でも洗っていらしてください」
「ああ」
 ローレンスはミレイからタオルを受け取って外に出た。雨上がりの朝の空気が心地良い。井戸から引き上げた冷たい水で顔を洗いながら、彼は昨夜と今朝とで全く様子の違うミレイの豹変ぶりについて考えた。
(どうしたというんだ、あの態度の変わりようは。まるで別人じゃないか。昨夜は酔っていたとでもいうのか。…思い切って聞いてみるか。そうすればはっきりするだろう)
 ローレンスが中に入ると、すでに朝食は並べられていた。
「お飲み物は何になさいましょうか」
「コーヒーをお願いしようか」
「はい、分かりました」
 すでに沸かしてあったらしく、ミレイはコーヒーをカップに入れるとローレンスに手渡した。そしてミレイは自分用にミルクをコップに入れて置いた。
「ありがとう」
「それじゃ、食べましょうか」
「ああ、いただきます」
 ミレイが用意したものは焼いたパンに暖かいスープ、生ハムと野菜、そして先程入れてくれたコーヒーであった。どれも良い食材であるらしく、素晴らしく美味であった。大公の息子であるローレンスでさえ、これほどのものはあまり口に出来ないほどである。昨夜出されたものとは対照的であった。ローレンスはコーヒーを飲みながら言った。
「あのさ、一つ聞いていいかい」
「食事中にお喋りをするものではありませんよ」
「…はい」
 そう言われたのでローレンスは口をつぐんで黙って食事に専念した。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
 黙々とした食事を終えるとミレイは言った。
「それで、聞きたいことというのは何でしょう、ロックさん」
「その、なんて言うのかな、君の喋り方とかさ、なんか昨夜とは違うなあっと思ってさ」
 もしかしたら触れてはいけないことなのかもしれない、と思いながらもローレンスは直接的に聞いた。ミレイはしばらく黙っていた。その様子をローレンスは見つめた。その時に気が付いたのだが、彼女の金髪が光線の具合のせいか少しくすんで見えた。顔付きも違うような気がした。そんなことを考えていると、ミレイが口を開いた。
「実は私、時々あのように気が強く、私ではないような喋り方をするようになるのです。そうなっている間はそれが普通だと思っています。そして今の私の方をおかしいと感じるのです。もちろん今はその逆です。そうなってからだいぶ経つので、どちらが本来の私なのかは忘れてしまいました。原因は分かっていますが、私にはどうしようもなくて…」
 ミレイの声は次第に小さくなっていき、最後は聞こえなくなった。
「ふうん。二重人格みたいなものか。もしかしてこんな人里離れた所に住んでいるのも…」
「はい、他人を避けるためです。以前はソロレシアのある町に住んでいたのですが、周りの人達に奇異の目で見られていました。それが耐えられなくて…」
「なるほどなぁ。でも、原因が分かっているんだろう。なら治せるんじゃないのか。その原因ってのは?」
「それは…、言えません。言えば貴方に迷惑をかけることになります」
「どういうことだ」
「聞かない方が貴方にとって幸せです」
 そう言ったきり下を向いて黙ってしまったミレイの様子を見て、好奇心の強いローレンスはますます原因とやらが知りたくなってしまった。もちろん、ミレイのことを助けてやりたいという気持ちも多分にあったことは言うまでもない。
「気になるな。君はそうやってずっと一人で悩んできたんじゃないのか。僕にできることなら協力するから話してみてくれないか」
「お心遣いは感謝します。けれど私自身のことですから。…どうして初対面の貴方にこんなことを話してしまったのか、自分でも分かりません。でも、もうこれ以上は聞かないでください」
 そうまで言われるとローレンスにはもうどうしようもなかった。二人は黙りこくって見つめ合っていたが、やがてローレンスの方から口を開いた。
「僕はそろそろ行くよ。いろいろとありがとう。大したお礼はできないけれど」
 ローレンスは懐から金貨を三枚取り出した。
「いけません。そんな、受け取れませんよ」
「こんなところで一人で生活するなんて大変だろう。いいから取っておきなよ。大した額じゃないけどね」
 ローレンスはミレイの手を取り、金貨を握らせた。
「…ありがとうございます」
「それじゃ」
 ローレンスは荷物を手に取り、外に出た。後を追ってミレイも外に出た。ローレンスはシャンナの背に荷物をくくりつけていた。
「あの…」
「ん?」
「いえ、何でもありません」
 ミレイは下を向いて黙ってしまった。相手の言いたいことを察したかのようにローレンスは言った。
「また今度、おいしいパンを食べさせて欲しいな」
「はい、お待ちしています」
 ミレイはありったけの笑顔でそれに答えた。

 NOAHの船内ハンガーにまた一つ、新たな機体が置かれた。線の細く、鳥か竜を思わせるようなフォルムの機体だが、両肩に開いた傘のような装置が付いている。ミーナ・メガエラの操縦するステルスナイツであった。
「今日は」
「よう」
「お疲れさま」
 ブリッジに入って来たミーナをルノーとサラは迎えた。
「ラナンは?」
「あいつなら今、部屋で報告書を書いている。呼ぼうか」
「別にいいわ。急ぎの用があるわけじゃないし」
 そこへラナンが入って来た。彼は書き上げた報告書を眺めていたがミーナがいるのに気が付くと、彼女のそばまでかけて来た。
「ミーナ!いつの間に」
「今、着いた所よ。魔神を発見したんでしょう。どうだったの」
「これに詳しく書いてあるよ。ミーナの方はどうだった」
「駄目、ナシのつぶて」
 ミーナはラナンから報告書を受け取り、それを読みながら答えた。
「マリエとペギラの方はどうなんだろうな」
「ここにくる途中で連絡を入れたんだけど、つながらないのよ。モーターフィギュアから降りて調査しているのかもね」
 ルノーとサラはコーヒーを飲みながら話していた。それを見てラナンは言った。
「あれ、俺とミーナにはコーヒー入れてくれないの?」
「自分で入れなさい」
「分かったよ」
 ラナンは給湯室の方へと足を運んだ。
「アルバードより高い運動性、強固な表面素材、高レベルのABF、それに冷凍化ミサイル…。強敵ね」
 報告書を読み終えたミーナはそう呟いてラナンが運んできたカップを手に取った。
「たぶん、冷凍化ミサイルはこの世界の魔術と組み合わせたものでしょうね。こういう技術を持っているということは、他にもとんでもない武器を持っているかも知れないわね」
「例えばロスト・テクノロジーに匹敵するような?」
「核兵器か?脅かすなよ、ルノー。…しかし、こんなのが全部で十三体もいるんだよなぁ。たったの五人でどうなるってんだ。しかも用意された機体は全て試作品だものな」
 と、ラナンはこぼした。その言葉を聞いてサラは反論した。
「ちょっと、ラナン。確かにあなたたちのモーターフィギュアは試作品だけれど、いま軍で正式採用されているどの機体よりも高性能なのよ。魔神を倒せる確率が最も高いのよ」
「ああ、悪かった」
 ラナンは決まり悪そうに答えた。
「でも本当に五人じゃどうしようもないかもね。いくら人手不足とはいえねぇ」
 ミーナも不安そうな表情をしている。
「だからと言ってここで死ぬつもりなんかはないがな」
 ルノーはもうすでに冷めきったコーヒーを一口含んでから呟いた。
「とにかくそろそろマリエとペギラも戻って来るはずだから、そうしたら対策を練りましょう」
 サラは立ち上がって言った。
「そうだな。じゃあ俺は報告書を本部に転送しちゃうから」
「俺は夕食の支度でもしよう」
「じゃ、ミーナ、整備手伝って」
「分かったわ」
 四人はそれぞれに散っていった。

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