第二章 接触−猛る狼、笑う阿修羅

第五話 十二神将

翔が陽京へ向かったのとちょうど同じ日に水瀬はラードルールへ向けて出発していた。用意された船は大きなものではなかったが、陽登ではほとんど見ることができない、魔法により推進力を得る型のものあった。こういった魔法艇は魔法を利用することにより、通常の船よりもスピードが出るようになっている。肌に突き刺さる潮風を味わいながら水瀬は青く広がる海を飽きる事なく眺めていた。この船には操舵士と水瀬しか乗っていない。水瀬は、いくら魔法艇とはいえおかしなことだと思った。
「まさか魔法艇を用意してもらえるとはな」
 いつもなら学術会に出席する者はこれから経験することに対する期待と興奮で余計な事までも話してしまうものである。しかし水瀬は船に乗り込む時に挨拶もせず、乗り込んでからも海を眺めていただけであったので、彼が喋った時に操舵士は少なからず驚いた。航海が始まって数日経つが、彼が発した言葉はこれが初めてだったからである。
「学術会に出席する方はいつもこの船ですよ」
「ま、何にしても有り難いことだ」
 しかし結局、会話はこれで終わりであった。海鳥の鳴き声と波の音だけが聞こえてくる。そんな状態がしばらく続いた後、遠くに陸地が見えてきた。
「もうすぐですよ。向こうに着いたら港に案内人がいますから、後はその人に従って下さい。帰りにはまた迎えに来ますから」
「ああ、分かった」
 程なく港に到着したが、やはり水瀬は操舵士に礼も言わず船から降りた。ラードルールの大公領の一つ、オルフェリオの港。貿易の盛んなオルフェリオらしく大きな船が停泊し、荷の積み降ろしに勤しむ人々や、商談をしているらしき人々の姿が数多く見られる。そんなあたりの様子を眺めていた彼に声をかける者があった。
「水瀬大河様ですね」
「ああ」
 目の前に背の高い、いかつい顔をした中年の男が現れた。おそらく案内人であろう。体格も良く、武道の心得もあると思われる。おそらく護衛の役目も果たすのだろう。彼の後について行くと、港から少し離れた所に大きな車が用意してあった。
「この動物は?」
 その車は彼の故郷、登陽の馬車と作りはほぼ同じであったが、車を引く動物は見たこともないものであった。
「シャンナです。このようにシャンナが引くものを引車といいます」
「ああ、これが…」
 水瀬は引車に繋がれたシャンナ二頭をしげしげと眺めた後、車に乗り込んだ。
「それではまず宿舎に参りまして、それから会場の下見、発表は明日以降になります。水瀬様の発表分野は?」
「政治学だ」
「政治学は経済学、社会学と一緒に初日になります。登録はこちらでしておきますから、原稿は今夜中に用意しておいて下さい」
「ああ」
 宿舎へと向かう車の中でそう説明を受けた。宿舎に着き、自分の割り当てられた部屋に荷物を置くとすぐに会場へ向かうこととなった。繁華街から離れた所にあるその会場は、赤レンガで作られた大きく立派なものであった。周りには様々な花や木々が植えられ、ベンチも数多くあった。掃除も行き届いているようで、ゴミ一つ落ちていない。会場となる第一ホールも広く、豪華な机と椅子が階段状に並べられていた。ステージには良質の木材で作られた大きめの教壇が置いてある。床は赤いじゅうたんが敷き詰められ、高い天井には窓があって採光も行き届いている。
「あそこの壇上で発表することになります」
 案内人は指をさして示した。水瀬は興味無さそうにホールを見回してから言った。
「分かった、もういい」
 案内人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにもとのいかつい顔に戻った。
「かしこまりました、では宿舎へ戻りましょう」
 宿舎の前で引車から降りると案内人は言った。
「では明日、お迎えに上がります。今夜はゆっくりとお休み下さい」
「ああ」
「それから日が暮れてからの外出はなさいませんように。旅行者を標的にした悪質な商売を生業としている者もおりますから」
「分かった。気を付けよう」
 それだけ言うと、水瀬は去って行く引車を見送ることもせずに自分の部屋へ向かった。
(やっぱりラードルールの服なんて俺には合わないな。せっかく幕府が用意してくれたけどこんな服、肩がこるだけだ)
 登陽や会王朝の服は前を重ねてそれを帯で締めるようになっていて、着物と呼ぶ場合は主にこれを指す。それに対してラードルールを中心とした西方諸国は帯ではなくボタンでとめるものか、あるいは貫頭衣である。普通、服と言えばこちらを指すことになる。水瀬に与えられた服は貫頭衣のほうであった。だから余計に違和感を覚えたのであろう。もっとも国家間の交流がなかった時代ならともかく、現在では洋の東西に拘わらず皆、西方型の衣服を着ることが多い。特に登陽においては朝廷や幕府の関係者、あるいは儀式の時を除いて東方型の衣服を着ることはかえって珍しい。そんな中で水瀬は伝統的な服を好んでいつも着ていたので、あまりこのような服には慣れていなかったのである。そんな訳で、水瀬は部屋に着くとすぐに荷物を開けて、着慣れた着物へと着替えた。それから鞄の中から明日発表する原稿を取り出して眺めた。
(原稿はもう用意してある。となれば飯を食って風呂に入って寝るだけだな)
 水瀬はその原稿をベッドの横のテーブルに置くと部屋を出てロビーへ行った。
「食堂は?」
「そちらの方をまっすぐ行って左に曲がるとございます」
 顔を上げて従業員はにこやかに答えた。それに対して水瀬は一言の礼もなく、言われた方へと歩きだした。それでも従業員はいやな顔ひとつせずに見送った。
 食堂へ着いた水瀬は誰も座っていない席を探して座った。メニューを手にした途端、給仕がやって来た。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 優雅な仕草で水の入ったコップをテーブルに置いてから給仕はそう尋ねた。
(今、来たところなのに決まっている訳がなかろう)
 そんなことを考えながら水瀬はメニューを見た。とはいうものの、この国に初めて来た彼には知らない料理ばかりであった。こんなことで悩むのも馬鹿らしいと思い、平均的な値段のものを頼んだ。給仕が下がった後、水瀬は辺りにいる人々を見回した。あまり人は多くないが様々な国籍の人がいるらしく、頭髪の色、肌の色、身長、体格など皆それぞれに違っていた。
(なるほど、こいつら全部、学術会の関係者か)
 そうしているうちに、すぐに料理が運ばれて来た。皿を見てみると、肉と卵の料理、それにライスとスープであった。まずスープを一口飲んだ。
(ふむ、野菜のスープのようだな。しかし登陽の野菜とはだいぶ違うものが使われているようだ)
 スープを飲み干した後、ライスと卵だけを食べて席を立った。するとさっきとは違う給仕が来た。
「お客様、もう召し上がらないのですか」
「ああ、もういい」
「何かこちらに落ち度でも…」
「いや」
「ではどうぞ、お召し上がりください。こちらはシェフおすすめでして、新鮮な羊の肉を…」
 料理の講釈を始めた相手を遮って水瀬は言った。
「肉は嫌いなんだ。それより会計はどこで済ませればいいんだ」
「こちらの紙にルームナンバーを御記入下さい。チェックアウトの時にまとめて払うことになります」
 差し出された紙に四○二と記した。
「あ、学術会の出席者ですね。でしたら料金は無料になります」
「そうか」
水瀬はそう答えると食堂を後にした。部屋に戻るとタオルを取り出して再びロビーに向かった。
「風呂はどこだ」
「は?」
「風呂はどこにあるかと聞いているんだ」
「御入浴ですか?申し訳ありませんが、当ホテルでは浴場は用意してございません。ですが、この通りの並びに大衆浴場がございますのでそちらを利用されてはいかがでしょうか」
「わかった」
 そうして水瀬は夜の異国の街へと出掛けて行った。

 三つの宝石を見つめたまま、翔、光明、南雲の三人はしばしの間、沈黙していた。美しいまでの輝きと耳をつんざくような音が部屋に満ちている。南雲はただ静かに、光明は注意深く観察するように、そして翔は茫然とそれらを見ていたが、しばらくしてから南雲は宝石を取って懐に入れた。光明と翔もそれに習うように宝石を取り、それぞれ箱と懐にしまった。
「…それで、これが何だって言うんだ」
 翔はもう、自分もこのことに深く関わっていると認めざるを得ない状況であることを理解していたが、心の何処かではまだ信じられないでいた。というよりも信じたくはなかった。そんな彼の胸の内を知ってか知らずか、南雲は説明を始めた。
「これらの宝石は賢者の石と言って、マニトウ単反応体である十二神将の能力を増幅させるとともに…、いや、今そんなことを言っても分からないだろう。取り敢えずそれを持っていることが十二神将であるということ、そして我々が仲間であるということの証なのだ」
 まだ納得できないでいる翔をよそに光明は言った。
「それで十二神将というからには十二人いるんだろう。今、何人見つかったんだ。我々二人で最後なのか」
「今のところは七人。ここにいる三人に加え、あなたの従兄弟である熱海冬維様、私と同じ調査官の風魔疾、幕府剣術指南役の御剣夢幻斎宗春、同じく音楽教師の西響二。今のところこれだけです」
「幕府の関係者ばかりだな」
「幕府にこれだけいたのは幸いです。お陰で思ったよりも早く見つけられました。もっとも覚醒しているのは私と風魔のみです。ただ、御剱はその能力を発揮し始めたようで、覚醒も近いのではないかと思います」
「御剱が能力を発揮…?もしかして」
「ええ、そうです。あなたは御存じでしょう」
 光明は御剱と道場で立ち会った時の事を思い出していた。
「で、どうやって翔を見つけだしたんだ。翔は幕府の関係者でもなければ、この国の人間でもないだろう」
 翔は黙ったまま下を向いて考え事をしているようであったが、光明がこの質問をすると顔を上げて南雲を見た。
「海老名龍一朗という男からの情報です」
「海老名…、そうだ、あいつはどうしたんだ。あいつもその十二神将なのか?」
 翔が口をはさんだ。
「今は何処にいるのか分からん。この世界の人間ではないしな。ついでに言えば十二神将でもない」
「ということは俺と同じ世界の?」
「いや、ラントという世界から来た。と言っても分からないだろうが」
 今度はそこに光明が割り込んで来た。
「ちょっと待った。翔は別の世界の人間なのか」
「あれ、言ってなかったっけ」
「初耳だぞ。ここに来る時、馬車の中で誰でも知っているようなことを聞くなぁと思っていたんだが、そういう訳だったのか」
「まあ、そういうこと」
「まあいいや。それより海老名って聞いたことあるな。…そうだ、魔神討伐四勇者の一人と同じ名前だ」
「よくご存じですね。まあ、海老名のことはともかく、十二神将としての役目を終えるまでは土方を返す訳にはいかないのです」
「その役目ってのは一体何だ。それが終われば本当に返してくれるんだろうな」
 翔の声は自分でも驚くほど大きくなっていた。そんな翔に一向にお構いなしで南雲は言った。
「全てが終わったら返してやる。だが何をするかは今はまだ言えない。十二人揃ったときに説明しよう。もっとも、覚醒すれば分かることだし、そうすればお前も帰りたいなどとは言わなくなるだろうがな。それではまだ仕事残っておりますので、この辺で」
 一方的に話を打ち切り光明に一言断って礼をすると、南雲は部屋を出て行ってしまった。後に残された二人は、それぞれお互いに顔を合わせることもなく深い意識の底へと沈み込んでいったかのように黙ったままであった。しばらくしてから光明が隣に人がいるのを思い出したかのように横を向いた。翔は腕を組み、むっつりとしていた。
「…あの、翔?」
 翔の心中を察して光明は恐る恐る声をかけた。
「ん、ああ?」
 翔は半分、心ここににあらずといった様子で答えた。
「どうする?」
「どうしようもないな。あいつが帰さないと言った以上、どうしようもない」
「そうだよなあ」
 そして二人ともまた黙り込んでしまったが、すぐに光明は口を開いた。
「…もう寝ようか」
「そうだな。あ、その前にさっき言ってた魔神討伐って何のことだ?」
「ああ、あれか。ラードルールとファーン王国については前に話しただろう」
「確か西の方にあるっていう国のことだろう」
「そう。簡単に説明すると、今から十年ほど前にラードルールの大公領の一つ、インベオが所有するブリッド島に魔神が現れて、そこに住む者を全て殺した。そして四人の勇者が現れ魔神を退治し、再びブリッド島に平和を取り戻した。その四人のうち一人が海老名という名前なんだ」
「それがあの海老名と同一人物なのか」
「南雲の話振りじゃあそうだな。だがその海老名という人間がどこまで信用できるのか分からないけれど」
「どういうことだ」
「実はその魔神討伐なんだが、どうも俺は作り話なんじゃないかと思うんだ」
「なぜだ」
「ああ、ファーン王国っていうのはさっき言ったブリッド島というのがラードルールから独立してできた国だ。ブリッド島は元々は独立した国家だった。もっとも国家と言ってもイルンという三百人に満たない民族のみが住む村落のようなものだったし、島国というせいもあってその存在自体があまり注目されてはいなかっただけだが。しかしその肥沃な土壌と大量の鉱物資源はインベオ大公の食指を動かすには十分だった。今のインベオの大公、グアス・トゥイバーンが大公になった時、インベオからの発案でラードルールはブリッド島に侵略した。ラードルールの圧倒的な軍事力と島国という守りにくさからブリッド島はすぐに陥落した。そしてブリッド島は地理的に見てインベオの属領となるはずだった」
「だった?」
「ああ、ここで問題が起こったんだ。ブリッド島には確かに多くの鉱山があった。しかしその鉱脈がどこにあるのかイルンにしか分からない。時間をかけて調査すればいずれ分かるだろうがその費用と時間が惜しい。そこでラードルールはある提案をした。農作物の取れ高の四割と発掘された鉱物資源の六割をラードルールに差し出す代わりに、ブリッド島をイルンの自治領とするというものだ。イルンもこれを認め、この問題には一応の決着がついた」
「うん、それで?」
「その状態がしばらく続いたんだが、さっき言った通り魔神が現れてからイルンは全滅。その魔神は四人の人間によって討伐され、ブリッド島はインベオの統治下におかれることとなった。魔神討伐の四勇者の一人、エアリアー・ファーンが領主となってな。しかし二年ほど前、ファーンはラードルールからの独立を宣言、ファーン王国が誕生した」
「それでどこらへんが作り話なんだ」
 ここまで話した光明は既に冷えきった茶を一口すすってから話を続けた。
「都合が良すぎると思わないか」
「何が?」
「魔神がブリッド島に現れてイルンだけを滅ぼしたってことがさ」
「でもブリッド島に現れたならイルンだけが全滅したって不思議はないはずだ。だってそこにはイルンしか住んでいなかったんだろう?」
 何の疑問も持たずに翔は答えた。
「それはそうなんだが、俺が疑問に思っているのは、本当に魔神は現れたのか、ということだ」
「と言うと?」
「イルンが全滅してブリッド島は完全にラードルールのものになった。しかもそのころには島の鉱脈も全てラードルールは知っていた」
「じゃあ、ラードルールが?」
「俺はそう睨んでいる。特にインベオはクサイな。ブリッド島はイルン全滅の後、やっぱりインベオ領になった。それまではラードルール国内の取り決めで、農作物と鉱物はラードルールに与えられた内、五分の一しか得られなかった。しかしそれ以降はインベオの総取りだ。どう考えてもインベオの狂言だ。四勇者なんてとんでもない。やつらこそがイルンを皆殺しにしたのではないか。そしてファーンにブリッド島が与えられたものその実行犯だからじゃないのか」
「しかしそんなことをしたら、ほかのラードルールの大公が黙っていないだろう。ましてや作り話に使うには魔神は影響が大きすぎるんじゃないのか」
「イルンはこの世界に一般的にある宗教とは違う宗教を持っていた。といっても古くからあの島にある巨像を神として崇めていただけだがな。インベオはその巨像こそが実は魔神であり、そして目覚めて暴れ始めたと発表している」
「そんな無茶な」
「狭い島国でのことだ。本当のことは分からない」
「もしその通りだとすると、インベオは自らの利益のためだけに一つの民族を根絶やしにしたことになるな」
「あくまで俺の推測に過ぎんがな。もっともブリッド島がファーン王国として独立してしまったからインベオの犯した危険も無駄になったって訳だ」
「ファーン王国が独立するときに戦争は起こらなかったのか?」
「もちろん起きたさ。しかし軍も何も持っていなかったイルンとは違う。八年の歳月をかければ豊富な資源をもつブリッド島だ。あっと言う間に軍備は整う。それにファーンはラードルールきっての戦上手として知られた男だ。おまけに三騎士と呼ばれる三人の部下がいて、これまた強い。なにせ元円卓の騎士だからな」
「円卓の騎士?」
「ああ。インベオの将軍十三人のことを俗にそう呼ぶんだ。もともとファーンも三騎士もインベオの円卓の騎士。特にファーンはその筆頭だった。だから彼らが欠けた今では円卓の騎士は九人しかいない。しかし九人とはいえその戦力はかなりのものになる、はずなのになぜか独立戦争に参加していない」
「おかしな話だな。ブリッド島が独立したら一番益を損なうのは、インベオのはずだろう」
「ああ、まあな。ともかくそんな訳で思いの外、ラードルールの消耗は激しく、また極端に長い補給線を突かれたためラードルールは撤退を余儀なくされた。結局、ラードルールはブリッド島の独立を認めざるをえなかった」
「じゃあこの事件で得をしたのは最終的にはファーン一人ってことか」
「厳密に言えばもう一人、ルシア・モーガンもだ」
「誰だ?」
「四勇者の一人、ルシア・モーガン。彼女は女性ながらもかなりの武芸の達人だった。戦略家としても超一流。ファーンがブリッド島を与えられたときに彼と結婚している。つまり今ではファーン王国王妃という訳だ」
「ふうん。待てよ、四勇者はファーンとそのルシア・モーガン、それに海老名。もう一人は」
「ペギラとかいうやつだ。こいつと海老名は出自不明、事件後もどうなったのか分からない。それ以前になぜこの二人が魔神討伐に選抜されたのかも不明だ」
 少し考えてから翔は答えた。
「金じゃないのか。ファーンとかと違ってラードルールの人間じゃなければ後腐れなく手を切れるだろうからな。腕さえ立てば他国の人間のほうが都合はいいだろう。なにせ違う民族とは言え、同じ国の人間を皆殺しにするんだからな」
「それは海老名にはあてはまっても、ペギラにもあてはまるとは限らない。ラードルールの人間じゃないかどうか分からないからな」
「そいつはファーンのように領地をもらったりしたわけじゃないんだろう。なら他国の人間と見てもいいんじゃないか」
「そうかもな。…それにしても、そんな事件に手を貸す海老名、その仲間の南雲。信用していいものかどうか」
「ああ、そうだな。ただし光明の推測が真実だとしての話だが、な。本当にその四人は勇者かもしれないわけだろう」
「そう言われているがな」
「今後、南雲や海老名とは慎重に対応した方が良さそうだな。…おっとすっかり遅くなった。もう寝よう」
 二人は部屋を片付け、布団を敷いて床に就いた。しかし翔は今日一日、あまりにも色々なことが起こり過ぎたため気持ちが高ぶって、なかなか寝付けなかった。

 ラードルール、オルフェリオの夜の街。夜になっても昼間と変わらず、いや、それ以上に街は騒がしい。繁華街の夜の顔が姿を現し始めていた。
「そこのお兄さん、寄って行かない」
 厚い化粧をした女が声をかけてくる。いかにも怪しげな店の入り口に立って異邦人を呼び寄せている。
「よう、あんちゃん。いいものがあるんだ。安くしとくから、買わねえか」
 宿舎を出てから十歩と行かないうちに、知り合いなど一人もいないのに次々と声をかけられる。水瀬はそれらを無視して教えられた大衆浴場へと急いだ。宿舎と同じ並びの角に目的地はあった。戸を開けて入ると、さらに男子用と女子用の入り口がある。しかし登陽の銭湯と違い、下駄箱がない。草履を履いたまま男子用の入り口から中へ入った。客はほかには見当たらない。番台は暇そうに座っている。客が入って来たのに気が付いたらしく、水瀬の方を向いて言った。
「いらっしゃい。珍しいね、登陽の人かい。この国じゃ、めったに風呂に入る奴なんかいないから、毎日風呂に入る登陽の人はありがたいよ」
 番台の声を無視して水瀬は服を脱いで浴場への戸を開けた。中は広く、左右の壁には湯を汲むための細長い湯桶があり、いっぱいに湯が張られている。中央には浴場を二等分するかのように水桶があり、これまたいっぱいに水が張られている。一番奥は広い浴槽となっており、その横には左右にそれぞれ木でできた戸と中が見えるガラスを張られた戸があった。左の木戸には露天を表す石と湯気のマークが、そして右のガラス戸には蒸し風呂を表す水蒸気のマークが書かれていた。この光景を見て水瀬は少なからず驚いた。
(これは、登陽の一般的な銭湯と同じ造りじゃないか)
 一瞬、故郷に戻って来たような錯覚を起こすほど、水瀬の馴染みの銭湯に似ていたのである。
(更衣室はそうでもなかったのにな)
 水瀬は端に積まれた椅子と洗面器を手に取り、湯桶の前に椅子を置くとそれに腰掛けた。そして洗面器に湯を汲み、下を向いて頭にかけた。その時、戸が開く音がした。おそらくほかの客であろう。先程見たときにはガラス戸の中には人影がなかったので露天風呂の方から出て来たと思われる。水瀬は頭を洗っていたのでそれを確かめることはしなかったが、引き戸の開く音がしたので更衣室へ出て行ったことが分かった。水瀬は全身を洗い終えると湯船に肩まで浸かって大きく息を吐き出した。
(やはり風呂に入らなくては一日が終わった気がしないな)
 その後、蒸し風呂にしばらくこもった後、水桶から汲んだ水を浴びて浴場を出た。体を拭きながら水瀬は彼にしては珍しく、自分から番台に話しかけた。
「ここの造りは登陽のものに似ているな」
「ああ、分かったかい。さすがに登陽の人だ。…ここの国の人間はめったに風呂に入らないんだ。入るにしても小さい桶に湯をわずかばかり入れて、まさに体を洗うためだけのものだ。わしも以前はそうしていた。けどな、昔に一度だけ登陽に行ったことがあってな。その時に入った風呂が気持ち良かったのなんのって。それ以来、わしはすっかり風呂の魅力にとりつかれちまってな。それまでやってた宿屋を潰してこの登陽式の風呂屋を作ったのさ」
「ふうん。でもきついんじゃないのか、経営が」
「まあな。家族にゃ『風呂屋をやるなら香水屋をやれ』って言われたくらいさ」
「香水屋?」
「ああ。ラードルールじゃめったに風呂に入らないから、体臭がきつくなっちまう。東方の人間に比べて西方の人間は体臭も強いしな。で、その匂いを押さえるのに香水を使うんだ。だから香水屋は儲かるって訳だ。大公家御用達なんかになったら、そりゃもうウハウハってなもんだ」
「なるほどな」
「だからこの店はよっぽどの物好きか、そうでもなきゃあんたみたいな異人さんしかこないんだ。赤字もいいとこさ」
「大変だな」
「なあに、好きでやってるんだ。儲けなんかなくったって構わねえよ」
 話をしている間に水瀬はすっかり服を着てしまっていた。
「それじゃ」
 そう言い残すと、水瀬は戸を開けて外に出た。店の外には一つの人影があった。暗かったので、水瀬は目を凝らして見た。身長は水瀬より少し低いくらい。白い肌、美しい瞳に長い睫、高い鼻、形の良い唇。少し濡れた金髪とほんのり桜色に染まった頬から、水瀬は今さっき出て来た大衆浴場の客であったことを推察した。他人に対してそれほどの興味を持たない水瀬でも、その美しさに目を奪われた。
(湯上がり美人は主に四つの要素から構成される。一つ目は体を洗ったばかりであるという清潔感。二つ目は化粧という仮面に覆われていない自然な素顔。三つ目は体に残る石鹸の香り。そして最後は火照った体を冷ますための薄着…)
 水瀬はそんなことを考えながらその人物を眺めていた。
(見た目ではこの国の人間かどうかは分からないが、あのおやじの言うように変わり者か、それとも俺と同じように外国人か。だとしてもあの髪の色は西方人のものだな)
 しばらく立ち止まっていると、その人物はいつの間にか夜の街の闇の中へと消えてしまっていた。
(俺も帰るか)
 帰りにもやはり、色々な人に声をかけられたが、水瀬は当然のごとくそれらを無視して宿に帰って自室へと戻った。濡れたタオルを干すと彼は食堂へ行き、そこで火照った体を冷やすために冷たいアーリー茶を頼んだ。
(さすがに貿易都市だな。バルダーナのアーリー茶まであるとは)
 水瀬はその香りと味と冷たさを楽しんだ後、部屋に戻って床に就いた。

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