第三章 邂逅−水竜と鳳凰

第三話 二人の天才

 水瀬大河はステージの上にいた。その中央には教壇が置かれ、向かって左側には椅子が五つ並べられている。左から数えて三つ目、ちょうど真ん中の椅子に彼は座っていた。国際学術会初日、政治学と社会学の発表日である。すでに発表は始まっていて、水瀬は自分の番が来るのを待っているのだった。客席は満員。一番前の席には来賓の貴族と思われる人々が豪華な服装に身を包んで並んでいる。この人たちは学問にはあまり関心がない様子で、居眠りをしている者もチラホラいる。その後ろに座っているのは学者、研究者らしき人々で、よれよれの一張羅を羽織り熱心に発表を聞いている。その一団がだいたい二、三列ぐらいあり、それより後ろは学生や一般客らしい。入場に制限がないので様々な人々が集まっているが、半分ぐらいは聞いているのか聞いていないのか分からない人たちである。いま発表しているのは水瀬よりも四つか五つぐらい年上の男性で、その内容は『貨幣経済の必要性と利便性』という題のものである。水瀬はその発表者が題目を言った途端、
(あの年にもなってまだそんなことをやっているのか)
と思い、聞く必要はなしと判断して、ステージ上から観客たちを眺めていた。
(こんなことをしたり顔で聞いている連中もいるなんて…。来るだけ無駄だったかもしれないな)
 やがて一人目と同様に退屈な二人目、三人目の発表も終わり、いよいよ水瀬の順番が回ってきた。
「次は登陽代表、水瀬大河。十七歳」
 司会者がそう言うと、まばらではあったが拍手が起こった。しかしその拍手以上にざわめきがあった。おそらく彼がまだ十七歳でこの場にいることに対する驚きと称賛、そして妬みによるものであろう。彼はそんなことは意に介さず教壇に立つと、一礼して用意しておいた原稿を読み始めた。
「登陽代表、水瀬大河。『王政、帝政について』」
 その題目は平々凡々のものであり、あまり皆の注意を引かなかった。しかしその内容は彼が先日、熱海冬維に話した王制に対する批判を含んだものであった。ほかの国々より血統による支配の意識が強いこのラードルールでは衝撃的なものであり、聴衆ははじめのうちは言葉を失ったように静まり返っていたが、やがて彼が登場した時よりも一層大きなざわめきへと変わり、ついには
「やめろ」
「出て行け」
「若造が、何様のつもりだ」
という野次へと成長していった。それでも水瀬は構わず発表を続けた。役員たちはただおろおろするばかりで、どうしようもなかった。最前列の貴族はその気位の高さから野次を飛ばすようなことこそしなかったものの、横の人とひそひそ話し合ったり水瀬を睨みつけたりしていた。
「以上で終わります」
 当然、拍手などもなかった。それでも一応、礼をしてステージを降りようとすると、過激な学生が水瀬の方に走ってきた。それを見た警備員が慌てて水瀬の回りを取り囲んだ。学生たちは屈強な男の群れを見てためらい、下がって行った。水瀬がそのままホールを出ようとすると、後ろから拍手が聞こえた。そちらの方を振り返ると、ステージの椅子の上で拍手をしている者が一人だけいた。振り返ってみたものの遠目でよく見えなかったが、拍手は会場中の皆が注目しても一向にやめなかった。結局それは水瀬がホールを出て行くまで続いた。警備員に連れられ控室の前まで来ると、そこにも先回りした学生がいた。しかしやはり警備員を見るとすごすごと引き上げて行った。
「うかつに部屋からは出ないように」
「ああ、わかっている」
 六人いた警備員のうち二人はドアの前に仁王立ちに立ち、残りの四人は会場の方へと戻って行った。水瀬は戸を開けて控室に入った。あまり広くはない室内には水瀬の前に発表した二人がいた。どうやら最初に発表した男はもう帰ったようだ。
「お疲れさま」
「外が騒がしいけど、何かあったのか」
「別に」
 男の質問に簡単に答えると水瀬は原稿をしまおうとした。
「あ、ちょっと」
 その時、二番目に発表した男が声を掛けてきた。
「君の原稿を見せてくれないか。君みたいに若いのが、どんなことを発表したのか興味があるんだ」
 水瀬は最初、ためらったがそれを手渡した。それを受け取った男は食い入るように読んでいた。
「こ、これは…」
「なんだ。何が書いてあるんだ」
 もう一人の男が興味深そうに後ろからのぞき込んだ。二人目は三人目にその原稿を手渡した。二人が読み終えると水瀬は何も言わずにそれを返してもらい、封筒にしまった。
「騒ぎの原因はこれか」
 二人目が納得したように言った。相変わらず水瀬は何も答えない。
「これはまずいよな」
 三人目がつぶやいた。
「新鮮な意見だが、賛同しかねるな」
「ああ」
(お前らには最初から期待してないよ)
 水瀬は二人を無視して発表用の窮屈な服を脱いでいつもの着物へと着替え始めた。
「じゃあ、俺たちはこれで帰るよ」
「それじゃ」
 二人はいそいそと荷物をまとめ、逃げるように部屋を出た。それに対して水瀬は頭を下げることさえしなかった。やがて着替えは終わったが、水瀬は控室で座っていた。今、出て帰ろうとしたら、またあの過激派が襲ってこないとも限らない。しばらく待ってほとぼりが冷めたころに帰ろうと思った。そうこうしているうちに次々と発表者が控室に戻ってきては着替えて帰って行った。その誰もが水瀬に声を掛けることはなく、ただ一瞥をくれるだけであった。
(ま、襲いかかってこないだけマシか)
 何する訳でもなくただ時間が過ぎていくのを水瀬が椅子に座っていると、またドアが開いて人が入ってきた。見事な金髪を肩の辺りまでのばしている。白い肌、長いまつげ、高い鼻、美しい唇、整った輪郭。身長こそは水瀬よりも低いものの足も長く、体は細い。最初は分からなかったが、どうやら昨日浴場の帰りに見た人のようだ。その人物は部屋に入ってきて水瀬を見るなり歓喜の声を挙げた。
「まだ帰ってなかったんだ」
 高く透き通った声が部屋の中に響いた。水瀬は何も答えずに座ったままである。
「あの、水瀬君、だったよね?」
「ああ」
 面倒臭そうに彼は答えた。
「さっきステージで拍手したんだけど…」
「君だったのか。ありがとう」
 回答は簡潔なものであり、それ以上は何も言わなかった。水瀬の態度は予想外ものであったらしく、相手は口をぱくぱくさせているだけだった。しかし気を取り直して、もう一度話しかけた。
「お客さんにはちょっと不評だったようだけど、ボクは素晴らしい意見だと思うよ」
「それはどうも」
 一応はそう答えたが、水瀬は全く別のことを考えていた。
(たとえどんなに見た目が良くても、一人称が『僕』なんていう女は嫌いだな)
「退屈な発表ばっかりで、正直、来た意味ないかと思ったけど、思わぬ収穫があって良かったよ」
 水瀬は何も答えないが、それでも話し続けた。
「それにしてもこの国は駄目だね。思想の自由というものが確立されていない。伝統と格式の上に胡座をかいているだけじゃ、もう長くはないかもね」
 そう言いながら相手は原稿をしまって服を脱ぎ始めた。それを見て水瀬は驚いて声を挙げた。
「お、おい。着替えるのなら言ってくれよ。外に出てるから」
 そう言って水瀬は立ち上がってドアの方へと向かった。
「別にいいよ。そんなこと、ボクは気にしないよ」
「俺が気にするんだ」
「ふうん、潔癖なんだ。男同士でも気にするなんて」
 その言葉を聞いて水瀬はドアのノブにかけた手を止めて振り返った。
「男?」
「そうだよ」
「女じゃなかったのか」
「たまに間違われる。でも良く見てくれよ」
 彼は上着を脱いで裸の上半身を水瀬に見せた。色白でほっそりとはしていたが、その胸は紛れもなく男性のものであった。
「本当だ」
「なんなら、下も見るかい」
 そう言って彼はズボンに手をかけた。
「よせ」
 水瀬は椅子に戻ってそっぽを向いた。
「ボクはシャーロック・ストラー。スフィッツオから来たんだ」
「それでどんなことを発表したんだ」
「まあ、取るに足らない内容さ。本当はボクの専門は経済学だからね。それでもあの会場の方々にとっては十分に称賛に値する内容のものらしいけれどね」
 水瀬は礼儀として相手が発表した内容を尋ねたが、実際には何の興味もなかった。それゆえ、先程水瀬自身がされたように発表した論文を見せてもらうようなことなどはしなかった。
「ね、外に出ようよ」
「いや、しかしまだあの暴徒たちがいるかも知れん」
「大丈夫だよ。君の後の人が美辞麗句を並べ立てて帝政を称賛するような論文を発表していた。それで幾分と溜飲を下げた様子だったから、もう君のことなど忘れているんじゃないかな」
 水瀬は今一つ納得しかねたが、いつまでもこんなところにいるのも気が進まなかったのでシャーロックと一緒に外に出ることにした。二人がドアを開けようとした時、シャーロックの次に発表した者が部屋に入って来た。その男は水瀬に一瞥をくれると、フンと見下した笑いをしただけであった。それを見て水瀬も
(大丈夫そうだな)
 と考えて外に出ることにした。
 水瀬とシャーロックは会場から少し離れた通りにあるカフェテラスで飲み物を飲みながら話をしていた。と言っても、シャーロックが一方的に話をして水瀬はそれに相槌を打っているだけであったが。本当のところ水瀬はさっさと宿に帰って休みたかったのだが、なぜかシャーロックの誘いを断ることが出来なかった。
「…それじゃあさ、今度は登陽の経済がどうなっているのか教えてよ」
(面倒だな)
 水瀬はそう思ったが、なぜか無下に断ることも出来ず話始めた。
「あまりほかの国と変わらないさ。領主の許可を得たものがその領内でのみ商いを許される。ただし多額の税を取られるがな」
「で、価格はどういうふうに決まるんだい」
「領主が決める」
「やっぱりそうか。不自由なもんだね」
「俺は商人じゃないからその辺のことはわからないな」
「でもね、そういうふうに固定された市場は需要まで固定される。安定と言えば聞こえはいいが、発展は望めないんだ」
「まあ、そうだろうな」
「ボクはそれを改善したいんだ」
 水瀬は政治学が専門で経済のことに関してはそれほど深い知識を持っている訳ではなかった。しかしそれでも、シャーロックの意見は優れたものであると同時に、自分の考えと同様に好ましく思わない者もいる、ということがわかった。
「そこでボクは…」
 そこまで言ってからシャーロックは話を止め、顔は動かさずに目だけを動かして辺りを観察した。
「水瀬君、出よう。店を出たらあそこの通りまでは歩いて行って、そこの角を曲がったら走るんだ」
 水瀬は何のことか分からなかったが、取り敢えず相手の言うことに従うことにした。二人は会計を済ますと、一言も交わさずにゆっくりと大通りを進んで行った。最初の角を右に曲がった途端、シャーロックが叫んだ。
「水瀬君、こっちだ」
 水瀬はシャーロックの後について走りだした。しばらくまっすぐ進んだ後、二人は角を曲がり積み上げられていた木箱の隅に隠れた。二人が黙っていると、遠くから何者かが走ってくる音が聞こえる。やがて水瀬たちが隠れている通りに入って来て足音は止まり、代わりに話し声が聞こえてきた。
「見失ったか」
「くそ、どこへ行った」
「まだあまり遠くへは行っていないはずだ。もう一度、辺りを良く探してみよう」
 どうやら相手は二人らしい。水瀬は小声でシャーロックに言った。
「すまんな。どうやら俺のせいらしい。巻き込んでしまったようだな」
「いや、違うよ。ボクが君を巻き込んだんだ」
「…?どういうことだ」
 と、その時、野良猫が彼らに擦り寄って来た。
「しっしっ。あっちに行け」
 シャーロックは猫を追い払おうとしたが、その猫がちょっと体を動かした拍子にそばに並べてあった空き瓶を倒してしまった。
「誰だ」
「まずい、逃げよう」
 男たちに気付かれ、シャーロックは水瀬の腕を掴んで再び走りだした。今度はすぐ近くからの追走であったため、男たちから離れるのは容易ではなかった。それでも相手より水瀬とシャーロックの方が若かったため、ほんの少しづつではあるが距離が開いてきた。二人は曲がり角を何度も曲がり、追っ手をまこうと試みた。その甲斐あってか、息を整えるために休む時間を取るくらいの余裕ができた。
(くそ、なんだってラードルールくんだりまで来て犯罪者みたいに追われなきゃならないんだ)
 水瀬は普段、あまり運動をしないためシャーロックよりも疲労が激しく、また追われる理由もわからなかったため追っ手に対する怒りも大きかった。
(雨でも降れば足音と気配を消してくれて逃げやすくなるのに)
 水瀬がそんなことを考えながら天を仰ぐと、何か冷たいものが額に当たった。と思ったら大粒の雨が滝のように降り出した。
「しめた。水瀬君、これで逃げやすくなるぞ」
 シャーロックは喜々として叫んだ。そして二人は立ち上がり、細い路地に入って曲がりくねった道を進んで行った。
「どこへ逃げるんだ」
「ボクが部屋をとってある宿が近くにあるんだ。そこへ行こう」
「大丈夫なのか」
「うん、誰も知らないよ。学会が用意した宿じゃあ、さっきの奴らにすぐ見つかると思ってね。こっちに来てから自分で探したんだ」
「そういえば奴らはお前を追って来たとか言っていたな」
「うん、君を巻き込んでしまって大変申し訳ないと思っている」
「いや、それはいい。しかし訳くらいは、話してくれるんだろう」
「勿論。その前に、さっさと宿に行こう」
 水瀬はシャーロックの後について激しい雨の中を歩いて行った。

 翔と光明が南雲と話をした翌朝。翔は光明が起きるよりもだいぶ前に目が覚めた。いやな夢を見て、目が覚めてしまったのだ。黒い雲が大地を覆い、その下で一人の少女が倒れている。自分はこの少女に見覚えがある。この美しい黒いショートヘアーを、この整った目鼻立ちを、この均整のとれた体つきを、そしてこのセーラー服を知っている。いつか見た記憶がある。しかしそれがいつのことであったのか、そして誰であったのかは思い出せない。自分はその少女の傍らに立ち、動くことも出来ずにただ見つめていることしか出来ない。悲しみ、怒り、悔しさ、苛立ちが入り交じった不快な感情が胸の中に渦巻く。そこで目が覚めた。寝汗をびっしょりとかいている。翔はその夢を忘れようと、窓際に座って東の空が輝いてくるのを見つめた。そうしていると、平塚の人々のことが思い出される。あまり話す機会がないが、翔を大切に育ててくれた両親。無愛想な翔にも別け隔て無く付き合ってくれた友達。進路に関して親身になってくれた担任教師。そして翔自身はまだはっきりとは自覚してはいないが、彼にとって特別な存在である羽諸澪。みんなはどうしているのだろうか。もう二度と、あの人たちの元へと戻ることはできないのだろうか。今までの暮らしからは遠くかけ離れたこの世界に、不思議と自分は順応してしまっている。自分はこの世界で生きていくこともできるのだろうか。南雲の言うように自分の持つ何らかの力が必要なのだとしたら、自分は平塚よりもここで生きていくべき人間なのではないだろうか。それもいいかもしれない。日本とは違うこの世界変化に富んだ世界で、圭や陵とともに生きていくのも悪くはない。この世界に興味もある。南雲には帰らせてくれと頼んだが、この登陽と日本のどちらかをとれと言われたらきっと迷うであろう。まだ半年とは過ごしていないのに、なぜかそう思える。だから自分の願いが聞き入れられず、未だこの世界に留まらねばならないということに、翔は少しホッとしていたこともまた事実であった。
「なんだ、翔、もう起きていたのか」
 今、目が覚めたらしく、光明は布団に寝転がったまま言った。翔はぼんやり考え事をしていた時に声を掛けられたので少し驚いた。
「ああ、ちょっと早く目が覚めちゃってね」
 光明は身を起こし翔のそばによって来て、窓の外を眺めた。
「うん、今日もいい天気になるな。今日はどうしようか」
「あれ、光明は何もやることはないのか」
「俺が来たのはただの付き添い。いずれ将軍になったときのために陽京を見ておけってことさ。とはいってももう何度か陽京に来たことはあるから、それほど深い意味はないんだけどね」
「ふうん。俺の用事は一応は終わったんだけど、どうするべきなんだろう」
「いいんじゃないか、大京に帰るときまでここにいて。急いで帰らなきゃならない理由があるのなら、頼んでみるけど」
 翔の頭の中に一瞬、圭と陵のことが浮かんだ。しかしまだ平塚に帰らないのならいつでも会えるのだから、急いで帰ることもないという結論に達した。
「いてもいいのならお言葉に甘えさせてもらうけど」
「おう、甘えろ甘えろ。一人でいても退屈だけど翔がいればそんなこともないしな」
「じゃあ、一日の始まりとして布団をあげることから始めようか」
「そうだな」
 二人は布団をたたんで部屋の隅に積み上げた。それから簡単な食事を運ばせてそれを軽く平らげた。食後のお茶を飲んでいる時に、光明は言った。
「そういや翔、昨日は結局、西漣神殿には行かなかったって言ってたよな」
「ああ」
「今日、行ってみないか」
「付き合ってくれるのか」
「俺も久しぶりに見てみたいんだ。大層立派なもんだぜ。それにあそこには知り合いがいるはずなんだ」
「へえ」
「生駒夏澄といってな、大神官の修行に東漣神殿に来ていたときに知り合いになったんだ。変わった男だが、悪い奴じゃない。神官だけあって占いも得意のはずだ。見てもらえよ」
「占いねえ」
「あんまり乗り気じゃないみたいだな」
「俺の世界じゃあ、科学…、いや、理屈で説明出来ないことは軽んじられる傾向にあったから」
「でも理屈で説明出来る事柄なんてのは、広いこの世の中でのほんの一部に過ぎないんじゃないか」
「そうかもな」
「ま、占いのことはともかくとして、しばらくしたら行ってみようぜ。一般来客の受付時間にはまだ早いからな。そうだな、昼前に出て、途中で食ってそれからかな」
 光明はそう言ったのに対して、翔は少し考えてから答えた。
「なあ、今から出ないか?」
「今から?受付時間にはまだ早いって言っただろう」
「それは馬車で行った場合の話だろう。歩いて行きたいんだ」
「歩きは疲れるぜ」
「何を年寄り染みたことを…」
 翔は軽く笑った。
「ま、いいけどな」
「悪いな。もうちょっとこの世界のことを良く知りたいんだ。そのために自分の足で歩きたい」
「分かった、そうしよう。じゃ、俺は一応どこに出掛けるのか報告だけはしてくるから、ちょっと待っててくれ」
「了解」
 光明は浴衣を脱いで着替えると、部屋から出て行った。翔も浴衣を脱ぎ、ジーンズをはいてシャツと皮ジャンを着た。
(まだ大丈夫だけど、洗濯しないとそのうちこのシャツも着れなくなるな)
 翔はシャツを引っ張ってその匂いを嗅いだ。
(同じようなシャツが売っていればいいんだけど、無理だろうな。和服っぽいのが中心のようだし)
 翔がいままでこの世界で会った人々は陵と南雲を除いて、確かに東方型の服を着ている人が多かった。しかし実際には登陽でも西方型の服を着ている人は少なくはない。ただ、幕府の役人は基本的には東方型の服が正装であったし、陽京も古い都市であるからいまだに東方型の服を着ているのがほとんどなのであった。だから探してみれば翔が望むような服は案外と容易く手に入るはずなのである。しかしそのことを翔が知るのはもう少し後のことであった。ただ、翔が履いているようなバスケットシューズだけはこの世界では決して手に入らないものであり、もしこれを履きつぶしたらこの世界の住民と同じように草履や下駄、あるいは木沓といったものを履かねばならないのであるが、今の翔にはやはり気の付かないことであった。
 着替え終わった翔は、急にもよおしてきた。部屋に専用のトイレがあるはずもないので、翔は廊下に出てトイレを探した。だが彼が見慣れているような案内板は当然ながらない。仕方なく翔は通りかかった人を捕まえて尋ねた。
「トイレはどちらでしょうか」
「といれ?なんだ、そりゃ」
(ああ、そうか)
「えっと、あの、そうそう、厠だ厠」
「ああ、便所か。ここを真っすぐ行った所にあるよ」
「どうもありがとうございます」
(そうか、便所でいいのか)
 目的地の在かを突き止めた翔は早足でそこに向かった。真っすぐ行った突き当たりにそれらしき戸があった。しかも二つ。
(どっちが男子用だ)
 二つの戸に書かれたマークは、当たり前だが翔には見覚えのないものである。ゆえにどちらに入るべきか見当をつけかねていると、片方の戸が開いた。出て来たのは男性であった。
(こっちか)
 トイレに気を取られてはじめは気が付かなかったが、その男性は東山光秀、すなわち将軍であった。
「おお、これは土方殿。奇遇ですな、このような所で」
「え、ええ。そう、ですね」
「南雲には会えましたかな」
「ええ、おかげさまで」
「それで、話はつきましたか」
「それが…」
 何と話したものか翔が迷っていると、将軍は大きな声で笑いだした。
「やや、これは失礼。どうやらこちらへ急ぎの用がおありのようですな。出物腫れ物所きらわずと申しますが、これは気が付かず…。ではこれにて」
 翔の話かねてモジモジした様子を見て将軍は勘違いし、一人で納得して去って行った。用を足して部屋へと戻ると、すでに光明が戻って来ていた。
「どこ行ってたんだ。こっちはもう準備できてるぞ」
「ああ、ちょっと便所。君の父君にお会いしたよ」
「便所でか?」
「ああ。あの人、俺のこと『土方殿』なんて呼ぶし、敬語も使うし、なんだか萎縮しちゃったよ」
「翔は幕府にとって恩人だ。しかも翔はこの国の人間じゃないと分かった。ってことは個人としては対等の位置にある。いや、むしろ恩がある分、翔の方が上か。まあ、だから翔が敬語を使うなら自分も使わなきゃならないってことなんだろう」
「へえ、立派な人だな。だから君のような息子が育つんだな」
「な、なんだよ、急に。おだてるなよ」
 光明は少し赤面した。将軍の息子であるから彼に対しておべっかを使ってくる者も多い。光明はそのような手合いにはうんざりしていたが、翔のような立場の者に誉められるのはそんなものとはまた別の意味を持つものである。だから光明は翔の言葉に対して素直に反応したのであった。
「さ、早く行こうぜ」
 光明は翔をせかした。翔は出発前に圭から受け取った金を懐に入れて、光明とともに宿を後にした。

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