第四章 予兆−巨星堕つ

第二話 阿修羅のささやき

ローレンスがイトゥーリオを出てから唯一の親友がいなくなり、ライルは退屈と共に日々を過ごしていた。ライラック・レオドリアはオルフェリオ大公のマール・レオドリアの一人息子である。一人息子、と言うからには当然兄弟がいない。彼の立場を考えれば、友人として対等に付き合える者もローレンスぐらいしかいなかった。ラードルールの大公やオルフェリオの騎士の中で、彼の年齢に近い子供を持つ者は外にいなかったからである。故にライルはローレンス以外の友人を持たなかった。唯一の例外としてローレンスの弟であるロイフィックがライルと近い年齢ではあったが、ライルはロイフィックを嫌っていたため、とても友人と呼べるようなものではなかった。もちろんラードルールには多くの貴族があり、その子供の中にはライルと近い年齢の者も大勢いる。しかしライルは、民衆から税を取る権利ばかり行使し、自らの義務を果たさない者が多い貴族というものをあまり良くは思っていなかった。だからその貴族の息子たちとも当然、深く関わろうなどという気にはならなかった。それに大公家は元々、貴族ではなく騎士の系譜である。そういった面からも、ライルは貴族の息子たちとは気が合わなかった。
 ローレンスがいなくなった当初、ライルはあまり館から外出しなくなっていた。しかしそうすると父親が彼の側に来て見合いを勧めるのである。連日の攻勢にうんざりした彼は、用もないのに城下町へふらふらと出掛けるようになった。しかしそこでも町の人々は鷹の紋章が入った服を見て、
「公子様、今日は」
「いかがなさいました、公子様」
「公子様、是非お寄りになって下さい」
と声を掛けてくる。だからライルは最近では、目立たぬような服を着て歩くようになった。それでも目ざとい商人などはライルであることに気が付くのだが、そういう時には、お忍びだから黙っているように、と小声で伝えるのであった。
 その日ライルは、今まであまり行ったことがなかった大通り方へ向かった。特に目的があった訳ではない。ただ、これまでに下町はもうあらかた歩き回ってしまったから、そちらへと向かっただけである。さすがに大通りは下町とは違い、きれいな店が多い。この大通りは主に貴族を相手にした店が並んでいる。大公家のものも、ほとんどがこの大通りの店で調達してくる。そのため、どの店も構えが大きい。そして下町の店との決定的な違いは、下品に声をがなり立てる呼び込みが全くいないということである。この通りには高級な衣装に身を包んだ貴族ばかりがねり歩いている。そんな人達は決まって質素な服を着ている場違いなライルを見て、蔑みの視線を与える。貴族ならば当然、公子たるライルの顔を知っていよう。しかし彼らはライルとは分からないのである。そのためライルは、服装でしか人を判断できない、とますます貴族が嫌いになるのであった。そんな彼らの態度にいらつきながらも、ライルは通りの店を眺めながら歩いていた。食料品店、衣料品店、宝石店、薬局、香水屋…。数々の店が並ぶ中で、彼は一つの店が目に付いた。そこは花屋である。と言っても、ただの花屋ではない。件の女性が勤めている店である。
(そういえば、以前に一度来たきりだったな。あの娘はまだ働いてるだろうか)
 もちろんライルは花屋で働く女性のことを忘れたことなどは決してない。彼はあまり女性には興味がないというポーズを普段から作っていた。そのためにそのような考えをわざと思い浮かべて、自分自身の心を誤魔化していたのである。
「いらっしゃいませ」
 ライルが戸を開けて店内へ入るとむせ返るような花の香りと共に店内に響く、高く澄んだ声に迎えられた。そして一人の店員が彼の元へとやって来た。その人物こそが、ライルが見初めた少女である。くりくりとした目を持つ、小柄な可愛いらしい少女。彼女は茶色いふわふわの巻き毛を揺らしながら頭を下げた。腰に巻いているエプロンがよく似合う。ライルはその少女の仕草一つ一つに目を奪われていたが、はっとなって我に返り、まるで何事にも頓着していなかったかのように店内を見回した。店の中にはその少女だけではなく奥の椅子に座っている店主と思しき中年の男や、老若男女さまざまな店員がいて、この広い店の中でそれぞれの客を相手にしている。
「どのようなものをお探しでしょうか」
 ライルはこの少女がいないかどうか見に来ただけで、花を買いに来たつもりはなかった。そしてその少女に会えたのだから、もう目的は達したと言っても良かった。だから答えに窮してしばらく黙ったままであった。しかし少女とずっと目を合わせていることに耐えられなくなり、店内を眺める振りをして目をそらして口を開いた。
「…そうだな、何か、部屋に飾るものが欲しいな」
「かしこまりました。何かお望みのものはございますか」
「いや、花のことはよくわからないんだ」
「そうですか。では部屋の様子を教えて下さい」
「様子?」
「広さ、通風、採光、それに家具の種類などです。そういった要素からお客様の部屋にふさわしいお花を選ぶお手伝いをさせていただきます」
「ふうん。俺の部屋ね…。広さはこの店の半分くらい。東、南、西にそれぞれ大きな窓があるから、ほとんど一日中日光は入るし、風通しもいい。机もテーブルもみんな白ビオの木で作られている。カーテン、カーペット、それにベッドのシーツは緑色だな」
 ライルが自分の部屋を思い浮かべながら話していると、少女は下を向いて少し考えてから言った。
「でしたらこちらのフィオンやニッキン、セリンといった広い葉の赤い花がよろしいかと思います」
 ライルは少女に連れられて燃えるような赤い花びらと大きな葉を持つ植物が並べられた場所へと行った。
「…悪いけど、俺、赤って嫌いなんだ」
 せっかく少女が勧めてくれた花であるから、それに決めたいところではあった。しかし彼は、鮮やかな赤を見ていると、胸騒ぎがして心がかき乱されてくるような気がするのだ。その原因は分からないが、それ故に彼は身の回りに赤い物は一切、置いていない。勧められた物を買うだけ買って自分の部屋には置かない、という選択肢もあったが、それも後ろ暗いような気がしてできなかった。だからライルは、正直にそうこたえた。
「そうですか」
 少女は残念そうな顔をした。
「ではお客様はどういったお花がお好みでしょうか」
「うぅん、さっきも言ったけど、俺は花のことはよく分からないんだ。何がいいとかはさ」
 せっかくフォローを入れてくれたのに、ライルはまたも相手を困らせてしまう返事しかできないことを気恥ずかしく思った。
「どんなことでも構いませんよ。例えば、好きな色は」
「好きな色?緑だな」
 ライルの答えを聞いて少女は困ったような顔をした。
「あの、お客様。生憎、緑色の花というのはございませんが…」
「あ、ああ。そういえばそうだ」
 ライルは少女と目を合わせているのがつらくなり、視線を逸らして思わず溜息をついた。
(つくづく上手くいかないな)
少女のみならずライルも困った顔をし、二人とも黙ってしまった。その時、椅子に腰掛けていた男が二人の側へとやって来た。そして男は少女に声を掛けた。
「ミュウ、我々は普段から花だけを相手にしているわけじゃないだろう。よく考えてごらん」
「て、店長…」
 男は顎を手のひらでこすりながら優しい笑顔をその少女、ミュウに向けた。
(そうか、ミュウって名前なのか)
 ライルは重くなってしまった雰囲気から二人を救い出してくれたこの男に感謝し、そして黙ったままそのミュウの方を見ていた。彼女はしばらく考え込んでいたが、やがて思い立ったように店の奥へと行き鉢植えを一つ持って来た。
「お客様、こちらはいかがでしょう」
 ミュウが手にした鉢植えには、鮮やかな緑色で複雑な形をした葉を持つ植物が植えられていた。
「これはロディナという植物でして、花はつけませんがその葉の形の玄妙さから観賞用としても人気が高いものです」
 ライルはミュウから鉢を受け取り上から下から、そして横から眺めた。茎は細いが、大ぶりな葉っぱが互いに重なり合う事なく生え、それぞれが全く違った形をしていた。丸みを帯びたもの、三角形に近いもの、縁が真っすぐなものや波形をしているもの。確かに葉の形を見ているだけでも飽きさせない。
「うん、気に入った。これをもらおう」
「はい、ありがとうございます」
 ミュウは鉢を袋に入れてライルに手渡した。
「よくできたね、ミュウ」
 店主も嬉しそうであった。
「ありがとう。俺は植物のことなんてさっぱり分からないから助かったよ」
「いいえ、お時間をかけさせましてかえって申し訳ありませんでした」
「そうだ、お礼にお茶でも御馳走するよ。仕事はいつまでだい?」
 ライルはミュウをさりげなく誘い出す口実を見つけて心の中で喜んでいた。
(こうやって少しずつ親しくなれれば…)
 ライルは先走って何を話そうかと考えていると、予期せぬ答えが返って来た。
「お誘いは嬉しいのですが、仕事として当然のことをしたまででそのようにされる訳には参りません」
「そ、そっか。そりゃ、そうだよね」
 ライルは事もなげに振る舞ったが、心の中では残念がっていた。すると店長がミュウに言った。
「行って来なよ。せっかくああ言ってくれてるんだし。今日はもうあがりにしていいからさ」
「でも店長…」
「いいからいいから。ちょうど良かったじゃないか。それじゃ君、頼んだよ」
 なにがちょうど良かったのか分かりかねたが、ともかく店主の助け舟のお陰でライルは当初の目的以上の成果を挙げることができた。

 ライルの誘いによって大通りにある近くの喫茶店へと行き、二人は店の外のバルコニーの席で向かい合って座っていた。ライルはコーヒーを、ミュウはアーリー茶を注文した。その湯気の向こうにあるミュウの顔は沈黙のうえに無表情であり、迷惑か困惑か、はたまた喜びであるかは容易に推察し得なかった。しかしずっと黙っている訳にもいかないので、ライルの方から話しかけた。
「君は確か、ミュウさん、だったね。俺のことはライルって呼んでくれ」
「ライルさんですか。あなたは以前、店に来たことがありますよね?」
 ミュウの言葉を聞いてライルは少なからず驚いた。確かに少し前に、彼はミュウの働く花屋へ来たことがある。確かその時はどこやらの貴族の娘の誕生日に贈る花を買いに来た時のことであった。もっともその貴族の娘には一回会っただけであまり親しくはなかったが、父がうるさくいうからしかたなく適当に花を贈っただけである。なんでもその貴族は他国とのつながりが強いからオルフェリオとしても大事にしなければならない人物、ということである。その時はミュウではなく、ほかの店員が彼に対応した。花のことは一緒に連れてきた部下と店員に任せて、ライルはぼんやりと店の中を眺めていた。その時にミュウを見て一目惚れしたのである。
「よく覚えてるね。結構、前のことだし、あのとき応対したのも別の人だったと思ったけど」
「ええ、貴族以外の方がいらっしゃるのは珍しいので、覚えておりました。あなたは騎士でしょう」
 そういわれて思い出したがその時のライルは、マントつけていた。ラードルールでマントをつけるのは大公家か騎士だけである。胸の鷹の紋章が見えなかったのならば、騎士と思われても不思議はない。しかし訂正して公子である、と告げればきっと相手は萎縮してしまうであろう。だからライルはあえて勘違いをそのままで放置しておいた。
「まあね。君があそこで働きだしたのは、その頃からじゃないのかい。それより前に行ったときにはいなかったようだし」
「私の事を覚えていて下さったのですか」
 ミュウは驚いた様子であった。そしてその中にわずかに喜びの表情が混じっていたことをライルは見逃さなかった。しかし彼はここで深追いをせずに話題を転換した。
「花が好きなの?」
「ええ、とっても。家でもたくさん花を育てているんですけど、それだけでは飽き足らなくなって、あそこで働き始めました」
「ふうん。じゃあ、ずっとあそこで働くつもりなのかな」
 ライルの言葉に対し、彼女は微かに笑顔を曇らせた。
「できればそうしたいのですが、父は私がこのようなこのような仕事をしていることをあまり快くは思っておりません」
「親なんて関係ないでしょ。自分のことなんだから、自分の好きにやればいいんじゃないの」
 ミュウはしばらく黙ったまま考え込んだ様子であったが、やがて意を決したように話始めた。
「あの、誰にも言わないで下さい」
「ん?」
「実は私は…、貴族の一人娘なのです」
 それを聞いただけでライルには十分に彼女が置かれている立場が分かった。貴族の娘ならば、家の勢力拡大のために他の貴族の息子との結婚が求められる。特に一人娘ともなれば家の存続のために、ほかの貴族の次男や三男を婿に取らねばならない。もし相続者がいなくなればその家は取り潰しとなる。町人と違い、自分一人の我が儘で将来を決められない立場なのである。
「しかも父は最近、縁談を勧めるようになりました」
(似たような話はどこにでもあるものだな)
 ライルは自分の状況とミュウの状況を照らし合わせてそう思った。
「でも良く知りもしない人と結婚なんてできません」
「会ったことは?」
「ありません」
「じゃあ、取り敢えず一度会ってみたらどうだい」
 これは一般論であったが、ライルの心とは相反するものであった。しかもこれはライル自身がよくローレンスに言われていたことなので、彼はより一層複雑な気分になった。
「それはできません。一度でも会えば、きっと父は無理矢理にでも婚約させるでしょうから。それに…」
「それに?」
「い、いえ。なんでもありません」
 それきり二人とも黙ってしまったが、その沈黙はミュウによって破られた。
「ごめんなさい。変なことを話してしまって。こんなのはただの愚痴ですよね。家のことを考えたら、私のはただの我が儘ですよね」
 無理に笑顔を作るミュウにライルは切なさを感じた。と、同時になんとかしてやりたいとも思った。
「君は、その…、好きな人とかはいないのか?」
 自分で問いかけておきながら、ライルにとっては心の凍りつくような質問であった。しかし自分自身の気持ちを押し殺してでもやはり、ミュウの事をなんとかしてやりたいと思った。だからこそ、胸の奥からこの質問を絞り出すことができたのである。そしてその問いに対してミュウは困惑の表情を浮かべた。それを見てライルはその胸の内を察した。
「…いるんだね」
「…はい」
 頬を赤らめ、ためらいがちに返答するミュウを見て、ライルの心は締め付けられたように苦しくなったが、ひたすらに平静を装い話を続けた。
「じゃあ、その人を父上の所へ連れて行って会わせてみたらどうだろう。そしてこの人と結婚したいと言うんだ。いくら貴族の娘だって、それくらいの我が儘は許されてもいいはずだ」
「でも…」
「ためらうことはないだろう。君は君の想い人と結ばれることを望まないのか」
「…その人は、私には興味がないようなのです」
 不謹慎にもライルはその一言に一筋の光明を見いだした気分になったが、逆にまた、ミュウの幸せは得られないということを知って胸が痛むのでもあった。
「済まない」
「いいえ」
 ミュウの顔には明らかに悲しみの色があった。二人は何も言えなくなり、黙ったままであった。気まずい沈黙の中、ライルは重い口を開いた。
「…出ようか」
「ええ」
 店を出て、ミュウに別れを告げ立ち去ろうとしたとき、ライルはミュウに呼び止められた。
「あの、すいません。こんな話をしてしまって。でも聞いて下さってありがとうございます。少しすっきりしました。けれどあなたには御迷惑だったでしょう。どうか忘れてください」
 頭を下げるミュウを見て、ライルはますます悲壮な気分になった。それでもそんな思いを表には出さずに言った。
「いや、いいんだ。俺の方こそ悪かった。個人的なことに踏み込んだりして」
 そして改めてミュウに別れを告げると、ライルは沈痛な思いを抱えたまま家路へとついた。

 生駒に連れられ翔は神殿の中を案内されていた。しかしその間中、彼の頭の中には光明が風魔に呼び戻されたことが気にかかっていた。風魔のことは陵から聞いている。なんでも幕府の調査官の中でも高い地位にいるということだ。そんな人物が直々に光明の元に来たということは、容易ならざる事態、ということであろう。そんなことを考えていたから、生駒の言うことに対しても生返事でしか答えず、気が付いたときにはもう神殿の中を一通り廻り終えていた。
「あまり集中できなかったようだね」
 生駒は何でもお見通しといった体で翔に言った。
「すいません、ちょっと風魔のことが気にかかっていたもので」
「ま、別にいいさ。とりあえず神殿の案内は終わったから、もう戻った方がいいね」
 常に笑顔は崩さない。それが性格から来るものなのか、年齢から来るものなのか、それとも神官という職業のためなのかは、翔には分からなかった。
「すいません」
「いいって。それじゃ、馬車を呼ぶよ」
「あ、いいです。歩いて帰りますから」
「でも結構、距離あるよ」
「道は分かってます。来る時も歩いて来ましたから」
「あ、そうなんだ。元気だねぇ。さすがに若いだけある」
「生駒さんだってまだまだ若いじゃないですか」
「いやあ、僕はもう年だよ」
 そう言って笑う生駒につられて、思わず翔も笑ってしまった。
「それじゃ、機会があったらまた今度」
「うん。こっちの方に来たときは遠慮なく寄ってくれよ」
「はい。失礼します」
 出口まで生駒に見送られて、翔は神殿を立ち去った。そして店が並ぶ、林へと続く道を歩きだした。来る時は光明と一緒であったため話し相手に不自由はしなかったが、一人でこの長い道程を歩いていると自然に物事を考え込むようになってしまった。光明を呼びに来た風魔のこと。理解しがたい話をした南雲のこと。もうすっかり姿を見せなくなってしまった海老名のこと。翔と同じように石を持つ生駒のこと。その生駒の占いのこと。様々な事柄が彼の脳裏に去来する。気が付けばもう、林を通り抜けていた。後はこの所々に茶店があるこの道を行けば宿場が並ぶ通りに出る。この辺りに来るとあまり人影もない。そんな道で、翔はある茶店の前に立っている人物に気が付いた。翔が歩いてその近くを通り過ぎようとすると、その男は声を掛けてきた。
「黙って通り過ぎることもないだろう。全く知らない間柄でもあるまいに」
 怪訝に思って翔がその人物の方を見ると、冷たい笑いを浮かべていた。
「お前、阿部…」
「年上に向かってお前呼ばわりはないだろう。まあいい、少し話をしないか?」
「話すことなど何もない。それよりもお前、よく俺の前に顔を出せたものだな」
「そういきり立つな。どうやら誤解があるようだから、そのことも含めて話をしたいと言っているんだ」
 翔は迷った。この男は信用できないという直感のようなものがあったが、この世界で翔のほかにいる日本人なのである。だからちゃんと話をしてみたいとも思っていた。
「今度はこっちのおごりだ」
 迷う翔を無視して、阿部は先に茶店へと入って行った。一瞬迷ったが、結局翔も後に続いた。

 翔と阿部は壁際の席に向かい合わせで座っていた。阿部は気をつかって周りに誰も座っていない席を選んだようであった。もっとも、この狭い店内で、客は翔たちを除けばほんの二、三組しかいなかったのだが。二人とも冷たいアーリー茶を頼んで、それが運ばれてくるまで黙っていた。しばらくして二人の前に注文の品が置かれると、店員が立ち去ったのを確認してから翔は口を開いた。
「で、誤解ってのは何のことだ?」
「ソロレシア帝国のソレビー・カイアン皇子のことだ。あれは俺の仕業じゃない。部下が勝手にやったことだ」
 そう話す阿部は無表情であった。そのため翔はその言葉の裏に潜む阿部の心を読み取ることはできなかった。
「まあ、いきなり俺の話を信じろと言っても、無理だろう。信じられなければ信じなくてもいい」
 こう言われると、ますます分からなくなる。そこで翔は、阿部に一つの問を出した。
「日本人のお前が、どうやってこの国で最も古い貴族の当主になったんだ?」
「いきなりだな。…偶然さ。ある人物にある事情でここに連れて来られた俺は、どうしたらいいのかもわからずにただ立ち尽くしていた。そうしたら、近くを通りかかった男が俺の名前を聞くものだから教えてやった。すると丁重に俺をある貴族の家へと送り届けた。そこの家の者に勘違いだと言ったんだが、何を思ったか、いきなり養子にならないかと言ってきたんだ。行くところもなかったし、ちょうどいいと思って俺は承諾した。そこが大貴族の家だと知ったのはその後のことだがな。で、養父が急死、俺が当主を継ぐことになったって訳だ」
「ある事情ってのは何だ。どうやってお前はこの世界に来たんだ?」
「それは言えない。言えば迷惑がかかる人間がいるからな」
 嘘をつけば済むことなのに敢えて、言えない、と告げた阿部を翔は、もしかしたら信用できるかもしれない、と思い始めていた。いや、実際には『信用できる』というほどのものではなかったが、最初から疑ってかかるべきではない、と感じていた。じっと自分を見つめる翔を阿部は真っ向から見つめ返し、今度は阿部が翔に尋ねた。
「君がここに来てからどのくらいになる?」
「まだ一ヶ月にも満たない」
「そうか。俺はもうこっちに来てからけっこう経つ。その間にこの世界の事を色々と調べてみたんだが、いくつか面白いことを知った」
 いつの間にか二人の会話は、カイアンのことから遠ざかっていた。しかし阿部の言葉に興味を惹かれた翔は、その話を中断することはできなかった。
「例えば?」
「そうだな…。ここに来て君はおかしいと思わなかったか?」
「何を?」
「日本語が通じるということだ」
「そういえば…」
 今まで翔は全く気にも留めていなかったが、ほんの一部の言葉を除いて翔の言葉は当然のように相手に通じていた。しかし考えるまでもなく、これは不思議なことである。自分のいた国と全くかかわりのあるはずのない世界で、日本語が通じるのだから。
「しかもこの世界は基本的に単一の言語だ」
 確かに登陽の人間ではないカイアンとでさえ、翔は苦もなく話をしていた。一定以上の広さの世界で、人間がある程度の文明を持つほどに栄えているような世界において、単一の言語しか用いられていないというのは阿部の言う通り注目に値する事柄であった。
「君が会ったカイアン、どういう字を書くと思う?」
「K、A、いや、K、Y、A…」
「片仮名だ」
「え?」
「片仮名なんだよ」
「まさか」
「俺も驚いた。この世界は俺たちの日本語が、そのまま使われているんだ。それだけじゃない、ほかにもある。この世界は我々の世界で見ることができた動物はほとんどいる。それどころか、我々の世界では見ることもできなかったものまでいる。しかしたった一つ、ある種類の動物だけがいない。それが何だか分かるか?」
「いや」
「猿だよ」
 軽いショックに似たものが翔を襲った。翔は考え込んで黙りこくってしまった。それを見て阿部は独り言のように呟く。その時もやはり無表情のままであった。
「もっとも最初はいたが絶滅しただけなのかもしれない。だがこの世界ではいまだにトキなんかも飛んでいるし、森の中にはニホンオオカミと思しきものもいる。自然環境がこれだけ残っているこの世界で、ある種族が絶滅するとはあまり考えにくい」
 翔はまだ考え込んでいたが、次の阿部の質問で顔をあげることになった。
「日本語が使われている。しかも広い世界なのに単一言語。人類の祖先であるはずの猿がいない。これらは何を意味していると思う?」
 翔は相手の言わんとする事が分からずに、ただただ阿部の顔を見ているだけであった。すると阿部は見るものを凍えさせるような冷たい笑みを浮かべて言った。
「この世界は人為的に作られたもの、と考えることはできないか?しかも日本人、あるいは日本語が分かる者が、だ。面白いことにほとんどの名詞は我々の世界とほぼ同じなのに、植物の名前だけは違う。このことは植物に関してはあまり知識のない者がこの世界を作ったということを裏付けているとも言える」
 阿部の言葉に驚き、翔は身を乗り出して叫んだ。
「一体、誰が、何のために、どうやって、そんなことを…」
「さあな。でも俺はそれを知りたい。そのために君に協力してもらいたいんだ」
「俺に?どういうことだ?」
「前にも言っただろう、この国の権力を狙っている、と。権力を持てばこの世界の多くを知ることができるようになる。そうすれば、この世界がなぜ作られたのかが、分かるかもしれない。この世界は、はっきり言って我々が住んでいた世界よりも様々な面においてかなり遅れている。だから我々が二人で動けば、たやすく権力を得られるだろう。どうだ、協力してくれないか」
 しばし阿部の言葉に聞き入っていたが、権力奪取の話を聞いて翔はカイアンが誘拐されたことを思い出した。
「そのためにカイアンを誘拐したのか」
 阿部は珍しく不意をつかれたような表情になったが、軽く笑って言った。
「ああ、そうだ。幕府が呼んだ他国の要人に何かあったら、幕府の責任だ。その責任を取って幕府は権力を手放す。そして天皇が権力を手にしたところで、俺が関白になる。藤原道長を知っているだろう?彼のやり方を真似れば、その後も権力の座は安泰だ」
「お前はさっき、部下が勝手にやったことだと言ったじゃないか」
「確かに皇子を誘拐するように指示したのは俺だ。だが麻薬の投与は部下が独断でやったことだ。別に俺は皇子を傷つける気はなかった。事が済めば無事に返す気だったさ」
「部下のやったことは、上に立つ者の責任だろう。それに麻薬のことはともかくとしても、誘拐は指示したんだな」
「何を怒っているんだ。目的のためにはそれなりの方法が必要だということぐらいはわかるだろう。必要だと思ったからやったまでだ」
 このような話をあくまでも冷静に、そして無表情に続ける阿部に対し、翔は一種の怖れのような感情を抱いていた。そしてそれを振り切るため、語気を強めて言った。
「お前、正気で言っているのか」
「この世界で生きていかなければならなくなったからには、俺の都合のいいようにこの世界を作り替えるだけだ。そのために必要だと思ったことは実行する。それだけだ。元の世界にもいただろう、そういう人間は。周りがどう言おうが、そういう人間はある意味成功者と呼べる。俺はここで成功者になるだけだ」
「元の世界に戻るつもりはないのか?」
 阿部はそれを聞いて笑った。
「どうやって?俺を連れてきた人物は俺を帰すつもりはないようだし、だとすればこの世界で生きていくよりほか、あるまい。クラインの壷でもあれば別だがな」
 翔は最後の言葉が気にかかって問い返した。
「クラインの壷?」
 しかし阿部は翔の言葉を無視して話を続けた。
「ともかく、手初めにこの国の権力だ。そのためには我々の世界の歴史と文化文明を知る者が役に立つ。協力してくれ。それに、俺たちは日本人だ。この日本語の世界がなぜ存在するのか、それなりに興味はあるだろう?」
 冷たい笑顔を伴って誘いかける阿部の言葉は、翔にはまるで悪魔と契約を結ぶことのように感じられた。
「冗談じゃない。平気で人を誘拐するような奴の手助けなんかできるものか」
「そう言うな。大きなことを成し遂げるにはある程度汚いこともやらねばならない。分かるだろう?」
 この一言で、翔は阿部とはお前とは相容れないことを確認した。そして思わず席を立ち上がって言った。
「阿部清晴…、お前のやり方は許せない。そう、同じ日本人として、俺はお前を止めなければならない」
「ほう、俺を相手にやり合おうというのか」
 阿部の顔には歪んだ笑いがあった。翔は蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんでしまった。それでも精一杯強がって言った。
「今日のところは見逃してやる。さっさと俺の前から消えろ」
「やれやれ。仕方がないな」
 そう言って阿部は席を立ち、立ち去ろうとした。しかし数歩進んでから翔の方へ振り返った。その阿部の視線に翔はビクッとして無言のまま相手を見つめていた。
「そうそう、俺の敵に回るのなら、同じ日本人のよしみで最後に一つだけ有用な情報を教えてやろう。将軍は死んだぞ」
 阿部はそれだけ言うと翔に背を向けて、代金を払うために店員のいる方へと歩いて行った。阿部が立ち去った後、翔は深い溜め息と共に両肩を落として冷や汗を拭った。そして咄嗟には理解できなかった阿部の最後の言葉を、もう一度考えてみた。

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