第四章 予兆−巨星堕つ

第三話 御前試合

翔が宿に戻ってきた時、そこはこれまでと変わりなく静かであった。時折、その宿舎の前を貴族の乗った馬車が通り過ぎるくらいで、あまり人の行き来もない。出掛けと同じようにゆるやかな風が木の葉をさざめかす音が聞こえるばかりである。ただ、その風は夕暮れ近いこともあって、幾分、空気の冷たさを感じさせた。しかしこうして見ている分には、日常の一風景となんら変わるところはない。そのことを翔は不審に思った。というのも、彼は阿部との別れ際に将軍の死を知らされたからである。将軍に何かあるということは、今の登陽にとっては大政変が起きると言ってもよいだろう。となれば、当然この宿も騒がしく人々が動いているべきである。ところが普段と全く同じ様子に見える。
(将軍が死んだっていうのは、嘘か?だとしたら阿部は一体、どういうつもりなんだ)
 翔はそう思ったが、いつまでも宿の前で立ち止まっていてもしょうがないので中へと向かった。そして藤の間へと戻ったが、そこに光明の姿はなかった。
(そういえば、風魔が呼びに来ていたな。だとしたら風魔と話をしているんだろうな)
 光明がいないと翔はやることが何もない。だからしばらく窓際に座って外を眺めていた。しかし昨日からもう存分に見た景色なので、もうあまり興味を引くようなものもない。退屈しのぎに宿の中を歩き回ってみようと思い、戸に向かって手を伸ばした。しかし翔が手を触れる前に戸が開いた。驚いて翔が半歩後ろに下がって戸の方を見ると、そこには光明の姿があった。二人は無言のまま部屋の中に入り、向かい合って座った。翔が光明の顔をよく見ると、その目の周りには涙の跡があった。それで翔は阿部の言ったことに確信を持った。光明は翔のそんな視線にも気が付かず、なおも黙ったまま座っていたので翔の方から口を開いた。
「風魔は一体、何の用事だったんだ」
 分かりきったことではあったが、話すきっかけを作るためにもあえて翔は尋ねた。光明はしばらく間を置いてから半分かすれた声でその質問に答えた。
「ああ、ちょっと、な」
 予期したとおり、光明の返事は曖昧なものであった。翔は率直に尋ねようかどうか迷ったが、阿部が関わっているかもしれないということを考えて光明に言ってみた。
「親父さんが亡くなったのか」
 光明は驚いた顔をして、口を半開きにしたまま翔のことを見つめていた。
「やっぱりそうなのか」
「…どうしてそれを?まだほんの一部の者しか知らないはずだ」
「聞いたんだ」
「誰に?風魔か?南雲か?」
「いや、阿部に」
「阿部…、貴族の阿部か?どうして…」
 翔は阿部との会話を光明に話した。ただし、阿部が翔と同じ日本人であるということを巧妙に隠して。隠す必要などないのかもしれないが、なぜだかそのことまで話すのはためらわれた。あるいは自分と同じ日本人がとんでもないことをしたという負い目によるものであったかもしれない。ともかく翔は、阿部は将軍が死んだということすでに知っていた、という事実を光明に伝えた。光明はしばらく考え込むふうであったが、やがて口を開いた。
「阿部の仕業か」
「そう決断するのはまだ早い。奴は確かにそのことを知ってはいたが、知っていた、というだけに過ぎない。奴の仕業と決定するための材料がない」
「いや、父上が殺された現場には丹波の刀が残されていた」
「丹波?」
「ああ、阿部家に雇われている忍だ」
「それは阿部家だけが?」
「いや、ほかにも二、三あるが…」
「だとしたらまだ分からない。阿部の仕業という線は濃厚だが、まだ断定はできないし、仮にそうだとしても何とでも言い逃れができる」
「しかし…」
「焦るな。確かに俺と違って光明は実父が殺された訳だから平静じゃいられないだろう。しかしこんな時こそ、将軍の息子であるお前がしっかりして対処しなければならないんじゃないのか」
「それは十分わかっているつもりだ」
「それじゃ、差し支えなければ教えてくれ。これからのことはどうなっているんだ」
 高ぶる感情を抑えるようにして光明は話し始めた。
「まず副将軍である叔父上に知らせ、その判断を仰ぐことになっている。生前、父上はもし自分に何かあったら副将軍を将軍代行とするようおっしゃっていた」
「しかし副将軍は大京にいるんだろう。時間がかかり過ぎる」
「大丈夫だ、南雲をやった。あいつならば今日中に行って帰って来られる」
「あの距離を?どうやって?」
「そういう力を持ったやつなんだ」
 翔は今一つ光明の言うことを理解しかねた。しかし自分をこの世界へと連れて来たのがほかならぬ南雲であったことから考えて、あるいはそのような能力があるのかもしれないと思った。それに今のところはあまり関係がない話なので深く突っ込むことはしなかった。
「ただ問題は…」
「なんだ?」
 光明は顔を曇らせて言った。
「天皇との会見のことだ。先程、朝廷からの使者が来て、会見の日取りを伝えてきた。父上がいない今となってはどうしたものか」
「会見?」
「ああ。ソロレシア帝国皇子誘拐事件に関して、天皇と話し合う予定だった」
「なるほど」
「天皇に直に会うなら、最低でも副将軍、あるいは幕府奉行級の人間。しかし叔父上も幕府奉行も全員、今は大京にいる。到底間に合わない。だからといってこちらの都合で日程を変えてもらうことなどはできないし…」
 それを聞き、少し考えてから翔は言った。
「なら、お前が行けよ」
「なっ…」
「いずれは将軍になるんだろう?だったら構わないじゃないか」
「しかし今はまだ何の権限もない。それにそういう経験もない」
「誰だって何だって初めて時ってのはあるものさ。不安なら、誰かここに来ている人間を連れて行けばいい」
 翔は努めて明るく話した。しかし光明は頭を抱えて考え込んでしまった。それを見て翔は、今度は真剣な表情で言った。
「阿部の処遇について話し合うなら、当事者の阿部も来るんだろう。そこで本当に奴が将軍暗殺の黒幕かどうか探りを入れるんだ。こんなこと、ほかの人間に任せられるか」
「…そうだな、考えてみるか。しかしいずれにせよ、叔父上からの返答があるまでは動けないが」
「それより、もう夜だ。今日はもうゆっくり休んで、これからのことに備えろよ。疲れているだろう」

 光明の要請を受け副将軍の元へと向かった南雲は、もうすでに大京にあった。南雲が到着した時、ちょうど副将軍は執務室で仕事をしていた。通常の副将軍としての仕事に加え、留守中の将軍の仕事があったため、彼は普段よりも一層忙しかった。それに将軍が留守であることに付け込んでなにやら画策している大名がいないとも限らない。そのような可能性がある者たちに対しては強い警戒が必要であったし、また、皇子誘拐事件の事務的な事後処理もあり、副将軍は目の回るような思いをしていた。そこに南雲が更なる難問を運んできたのであるから、彼にとっては気の毒と言うほかはない。しかし南雲と対面したとき、さすがに副将軍はそんな様子を微塵も見せなかった。
「で、お主がわざわざこちらに戻ってくるからには、よほど重要な用件なのであろう。一体何が起きたのだ」
 恰幅の良い副将軍も、このときは多忙な日々によって幾分やつれていた。しかし南雲はそんな副将軍の様子を見ても、それが仕事なのだから、と思っただけであった。そして南雲は副将軍に新たな仕事を提示した。
「将軍が何者かに暗殺されました。誰の手によるものかは、まだはっきりとはしません」
 それを聞いた副将軍の顔は、目の下だけにあった青いくまが顔全体に広がったかのようになった。
「つきましては副将軍を将軍代理とし、その指示を仰ぎたく存じます」
 南雲はほぼ無表情で話を進めていたが、副将軍はその言葉が右から左へと抜けているようであった。
「訃報は一部の者を除いて誰にも知らせてはいません。しかし将軍が暗殺された直後に朝廷からの使者があり、皇子誘拐事件についての会談の日取りを伝えて参りました。ですから、朝廷はこの暗殺に関して何らかの関わりがあるとも思われます」
 南雲の話の途中で気を取り直した副将軍はそれに答えて言った。
「ふむ。阿部が将軍を暗殺し、その阿部と結託している天皇は将軍がいないことを知りながら会談を申し込む。こちらとしては将軍がいないものだから、会談の中止、あるいは代理の者を立てて行うことになる。しかしいずれにせよ、将軍がいないわけだから会談での取り決めも実際的な効力が薄くなる。そんなところだろうな」
「はい、おそらくは」
「そして最終的には皇子誘拐事件の責任と将軍の不在を理由に幕府を解体、大政奉還を行う」
「もちろんその際には、阿部が関白となる」
「ああ」
「いかがなさいましょうか?」
 副将軍は様々な要素を噛み砕くかのように目を閉じ、頷きながら思案していたが、やがて口を開いた。
「取り敢えず会談だな。私が出られれば良いのだが…、いつだ」
「明後日」
「無理だな。では光明殿に頼もうか」
 事もなげにそう言った副将軍に対し、南雲は驚きを隠せなかった。
「本気ですか」
「別段、おかしなことはあるまい。光明殿は次期将軍であったのだから、将軍がいない今、光明殿が出ても不思議はない」
「しかし光明様では…」
 南雲がそこまで言ったとき、副将軍は手を挙げて制した。
「それ以上言うと、将軍家に対し叛意ありと見なすぞ」
 そう言われると、南雲は黙っているしかなかった。
「まあしかし、お前の心配はもっともだ。会談にあたっては、小早川を同行させよう。小早川は陽京守護職だから、すぐに呼べるであろう」
「は、わかりました」
「その他の細かいことはこちらで処理する。お前は陽京に戻ってこのことを光明殿に。後は会談が終わってからだ」
 このような会話がなされ、南雲は副将軍から書簡を受け取ってすぐに陽京へと戻って行った。

 ローレンスがエアルス・ファーンの家庭教師となってから幾日かが経過していた。ローレンスは朝、起きてからすぐに王宮へと向かう。そして朝食を王子と一緒にする。これはローレンスが食事における作法を教えるためである。そして食後には武術・馬術・水練等の稽古を行い、昼食後には政治学・経済学・地理・歴史・数学・軍学・魔法学等の講義を行う。普通はこういった教育はそれぞれの分野の専門家が教えるのであるが、ローレンスはそれらをほぼ一通りこなしているため、一人で全てを担当することになった。そのため彼の報酬は莫大なものとなっていた。しかし音楽・絵画といった芸術だけはローレンスは不得手であり、それだけは別の人間が受け持っている。芸術の授業の日にはローレンスは休日となるので、その担当者との面識はないが、エアルスの話によればラードルール出身の、権威主義に凝り固まった頑固者の老人であるという。まだ若い国であるファーンには、それほど優れた芸術家はいないから仕方のないことらしかった。
 このようなスケジュールの中でローレンスは暮らしていたが、ある日午後の講義を終えて帰ろうとした時、フィリー・メンダに呼び止められた。
「ロック殿、陛下からの伝言で、明日の授業は休みとしていただきたいとのことです。ただし、こちらへはいつも通りに来て下さい」
「それは構いませんが、何かあるのですか?」
「明日は年に一度の御前試合の日なのです。エアルス様にも見学していただくことになっています。それでロック殿には試合を見てエアルス様に解説していただきたいとのことです」
「分かりました」
「では明日はいつもと同じようにエアルス様の部屋まで来て下さい。詳しい説明はそこでいたしますから」
「はい」
 こうしてローレンスはその日の夜は大変な予習を免れることになった。そこで彼はジャックとジェイムズと三人で酒を飲んでいた。ローレンスがジャックの宿に泊まるようになってからいくらか経っていたので、無口なジャックとも打ち解けてきていた。その日は久々にゆっくりと夜を過ごすことができた。
 一夜明けてローレンスが王宮に行くと、一通り御前試合の日程等についての説明を受けてから広い中庭に設営された貴賓席の方へと連れて行かれた。そこにはすでに国王が座っていて、ローレンスとエアルスが来たのが目に入ると、立ち上がって二人の元へ歩いて来た。
「おはようございます」
「うむ。今日はわざわざ済まんな」
「いいえ、私も興味がありますし。試合開始を楽しみにしています」
「後で係の者に言ってプログラムを持って来させよう。そうだ、ちょうどいい。家族の者に紹介しよう」
 そう言って国王は貴賓席に座っている二人の女性に声をかけた。
「妻のルシアだ」
「あなたがロックさんね。お話はかねがね息子から聞いております」
 豪奢な金髪を腰の当たりまでのばし、その上には銀色の王冠があった。さすがにローレンスよりは低いがそれでも背は高い方で、白いドレスに身を包み優雅な歩みを見せるその姿は正にファースト・レディと呼ぶにふさわしかった。白い肌に整った目鼻立ち、皺一つない顔はとても子供がいるとは思えなかった。
「お目にかかれて光栄です」
 ローレンスは片膝をついて頭を下げた。それを見る王妃の顔にはどことなくいぶかしんでいる様子があったが、下を向いていたためローレンスは気が付かなかった。ローレンスが顔をあげ立ち上がると、続いてピンクのドレスを着た少女が前に歩みでた。
「娘のエオリアだ。エアルスより二つ下だ」
「初めまして、ロックさん」
 こちらも輝くようなブロンドで、エアルスとは違って母親似であることを伺わせた。元気良く頭を下げて挨拶をするその姿は、王族らしい気品は感じさせなかったが、まだまだ幼い女の子でもあれば仕方のないことだった。むしろローレンスにとってはその元気よさが微笑ましく、好ましいとさえ感じられた。
「初めまして、お姫様」
 そう言うとローレンスはエオリアの手を取り、その甲に口づけをした。
「まあ…」
 少女の頬はドレスと同じ色に染まり、うつむいてしまった。ローレンスは、少しやりすぎたか、と思った。しかし国王は、その様子をただ笑って見ているだけであった。
「陛下、そろそろ開幕式ですが…」
 その国王の前に一人の騎士が現れた。この男こそが元インベオの円卓の騎士の一人、現ファーン王国イースト・ガード・リーダーのウォルターク・ハービレである。髭のないすっきりとした顔立ちで茶色の髪の毛を長くのばしていて後ろで束ねている。体格的に非常に優れているようには見えない。だが、彼の優れた部分はその武勇よりもむしろ知略であるということは円卓の騎士であった頃から有名で、ローレンスも名前くらいは聞いたことはあった。その知将に向かって国王はちょっと不機嫌になって答えた。
「ああ、分かった。今行く」
 そしてローレンスの方へと向き直って言った。
「すまんな、ゆっくり話もできなくて。では今日は解説の方をしっかり頼むぞ。何しろ、エアルスが実戦を見る機会などはそうないからな」
 そう言うと国王は自らの務めを果たすべく、その場を去った。ローレンスは係員に導かれ、エアルスの隣の席に着いた。
 こういった祭典での退屈なセレモニーは万国共通である。国王の挨拶、来賓の言葉、大会プログラムの説明、諸注意などをローレンスはぼうっと聞いていた。昨夜は比較的遅くまで起きていたので思わず欠伸がでそうになったが、エアルスの隣、つまり貴賓席に座っているのでめったなことはできないとじっと耐えていた。開始を告げる花火が打ち上げられ場内が歓声に包まれると、ラッパの音と共に第一試合の選手が入場してきた。そうすると今度は出場者がそれぞれに持つ武器の解説、技の説明などをエアルスに聞かせなければならなくなったので、先程までとはうって変わって忙しくなった。
「あのように長い武器では遠距離戦では有利です。しかし振り回せば動きが遅くなりかわされやすくなります。ですから主に突きを使うことになるでしょう。逆にそれを知っていれば突きのみに注意をすれば良いということです」
「ふうん」
「相手は素手のようですが、それに気が付いているらしいですね。突きをかわしながらじりじりと距離を詰めています」
 試合場では槍を持つ選手と素手の選手が戦っていた。槍を持つ方はファーンでも有名な武術道場の代表選手だが、素手の方は黒髪でどうやら東方民族らしい。相手が突いてきた槍をかわすと、それを戻す前に自分の脇に挟んでしまった。槍を封じられ戸惑っているところへ黒髪の男は一気に間合いを詰めて腹部に肘で一撃を与えた。肘を食らった方は槍から手を離し、その場に崩れ落ちた。
「それまで」
 その電光石火の動きを見て、ローレンスは思わず叫んだ。
「早い!あの選手は一体…」
「火浦拳。登陽のやつだ」
 誰かに向けた言葉ではないのに後ろの方から答える声があったので、ローレンスは驚いて振り向いた。
「よう、久し振り」
 ローレンスの真後ろの席にはいつの間にかカイアンとミハイロフが座っていた。
「ど、どうしてここに?」
「国王に招待されてな。おい、それより次が始まるぞ」
 カイアンに促されてローレンスは再び試合場の方へと向き直り、エアルスに解説を始めた。ローレンスは突然のカイアン出現を不審に思いながらも解説を続けた。思いの外、仕事は忙しく、カイアンに質問する暇もなかった。昼食の休憩時にもエアルスと共に国王との相席となったため、カイアンと話す機会もないままに大会は午後の部に入った。そうして決勝戦が始まる頃にはもう太陽が試合場を赤く染め上げていた。決勝進出した選手の一人は先程の黒髪の拳士、登陽の火浦拳。動き易さを重視してか、簡素な胴着に身を包んでいる。年齢はローレンスとそう変わらないように見える。そしてもう一人はラードルールから来たという大剣使い、ルザル・ファクト。防御力を重視しているようで、金属性の全身鎧を着けている。こちらは年齢はローレンスほど若くはないようだが、それでもまだ三十には届いてはいないようだった。この御前試合には、ファーンの各流派、外国からの招待選手、自由参加選手など多数、参加しているが、その年齢の幅は広い。そんな中でこのように若い選手二人が決勝戦まで残ったことは十分に驚きに値する出来事である。しかもローレンスが試合を見た限りでは、どちらも偶然ではなく実力で勝ち進んできているといった様子だった。
この注目すべき決勝戦、試合開始の掛け声がかかってから二人の戦士はしばらく互いに睨み合い、動かなかった。観衆も水を打ったように静まり返り、固唾を呑んで見守っている。両者の距離はちょうど剣が届き、拳は届かない間合いであったため、火浦はそれを嫌って相手の攻撃を警戒しつつ、少しづつ近寄った。一方ファクトもこの間合いを維持しようと火浦が近付いた分だけ後ろへと下がって行った。やがて痺れを切らしたのか、火浦が一気にファクトの懐へ潜り込もうとした。しかしそれに反応したファクトは向かって来る火浦目がけて剣を突き出した。火浦は紙一重でそれをかわし、ファクトの顎へ向けて掌底を打ち出す。今度はそれをファクトがかわし、二人はともに後ろへ跳び退って先程と同じ間合いになった。この一連の行動が終わったとき、会場にいた者は皆、深く息を吐き出した。
「…凄いな」
 ローレンスは解説の仕事も忘れて見入っていた。しかし国王もその周りの者達もそしてエアルスもローレンス同様、試合に集中していたため、それを指摘する者はなかった。試合はこのようにどちらかが仕掛け、それをかわして反撃、しかしそれもかわすという状態が続いていた。
「黒髪の方の勝ちだな」
 静まり返った会場の中で発せられたこの声は、辺りの人の気を引くには充分であった。ローレンスももちろんそちらを見た。その声の主はソレビー・カイアンであった。
「どうして?」
 両者とも互角に見えたローレンスはたまらずカイアンに聞いた。
「技術的に両者の差はそれほどない。しかし朝から夕方までかかる大会であの剣士はノーシードで決勝まで来た。ということはもうすでに七試合やっている。しかもこの決勝も試合開始からかなりの時間が経っている」
「あの火浦という選手だってノーシードだ」
「しかし彼は鎧どころか、武器さえ持っていない」
 そう言われて初めて気が付いたが、ファクトの動きがだんだんと遅くなってきている。幅広の両手剣を持って全身鎧を纏っていれば無理もなからぬことだろう。結局試合は、カイアンが予想した通り火浦の勝利に終わった。最後は火浦がファクトの疲れた足を狙って地面に組み伏せたのであった。表彰式の際、火浦のみならず敗れたファクトにも盛大な拍手が贈られた。ローレンスも他の観客と一緒に立ち上がって惜しみない拍手を贈った。そのため、横でカイアンが国王と何やら話をしているのには気が付かなかった。ローレンスは、残すは閉会式とばかりに腰をおろして会場の方を見ていた。司会を務めるウエスト・ガード・リーダーのフィリー・メンダが会場の真ん中に立った時、その口から予期せぬ言葉が発せられた。
「この後、閉会式の予定でしたが、来賓のある方の提案により、これより特別試合を行いたいと思います」
 ローレンスは決勝戦であれほどの試合を見せられた後では、どんな試合でも色褪せてしまうのではないかと思い、その試合の出場者を気の毒に思った。しかし次に司会の口から出た言葉を聞き、ローレンスは驚いて立ち上がった。
「これより行われます特別試合の出場者は、ソロレシア帝国皇子、ソレビー・カイアン」
 ローレンスが後ろを振り返ってみると、もうそこにはカイアンはいなかった。ただ空席の隣でミハイロフが困ったような表情をして座っているだけであった。
「対しますは、エアルス王子の武術指南、ロック」
 ローレンスは何が起きているのか分からず、その場に立ち尽くしていた。横に座っているエアルスの
「先生、がんばって」
という声も彼の耳には届いてはいなかった。動けないままのローレンスをウォルタークが腕をつかんで試合場の方へと引っ張って行った。そして槍を渡されて剣を持ったカイアンの前に立たされた。茫然としているローレンスを見て、カイアンは言った。
「何、寝ぼけてるんだよ。みんな、我々を見ているんだ。しっかりやろうぜ」
 カイアンの声を聞いてはじめて我に返ったローレンスが何か言おうとした時、試合開始の号令がかかった。会場中に歓声が沸きあがる。それと時を同じくして、カイアンは剣を振りかざしてローレンスに躍りかかってきた。さすがに皇子だけあって武芸の教育は受けていたらしく、その太刀筋はしっかりしたものである。しかしローレンスとてもカイアン同様に公子として武芸を学んだ身である。特にロクアドル家の者は槍術に長けている。偶然かどうか分からないがローレンスが渡された槍は重さ、長さともちょうど良く、カイアンの剣を受けるにあたって不自由さを感じることはなかった。しかしローレンスがたやすくカイアンの攻撃を受け流すことができたのはそれだけではない。カイアンが手加減しているせいもあった。そのことをローレンス自身も感じ取っているようで、彼は槍と剣を合わせるとカイアンに向かって小さな声で話した。
「どういうつもりだ?」
「試合を見ていたら自分もやりたくなった、ってのは駄目かい?」
「どうして僕が相手なんだ」
「ちょっと確かめたいことがあってね」
 そう言うとカイアンは左手を剣の峰に当てて力強くそれを押して、鍔競り合いの状態から離れた。カイアンが持つ剣は西方ではあまり見ることのない東方型の刀に近い造りの細いものであったため、あまりその状態が長く続くと剣が折れると判断してのことであった。二人がある程度の距離をとって離れると、カイアンはローレンスに向かって剣を上から振り下ろした。ローレンスは反射的に三つ又になっている槍の穂先に剣を搦め捕り、そのまま槍を回転させてカイアンの剣を折った。そして続けざまに槍の柄の部分でカイアンの胸元を突いた。
「あの技は!」
 エアリアー・ファーン国王は我を忘れ立ち上がって叫んでいた。王妃や王子、家臣たちが何事かと主を見つめたが、当の本人はそんな様子も意に介さず独り言を呟いていた。
「そうか、なるほどそういうことか」
「それまで」
 カイアンが武器を失い地についた時点でローレンスの勝利は決まった。審判を務めるフィリー・メンダの声を聞いてローレンスは動きを止め、肩で息をしながら腰を下ろしているカイアンを見つめていた。立ち上がろうとするカイアンに手を貸すこともせずただ茫然としていたが、カイアンが次に発した一言で我に返った。
「やっぱりそうか」
 カイアンが何を言っているのか最初、ローレンスには分からなかったが、次に出てきた言葉を聞いて理解した。
「お前、ローレンス・ロクアドルだろう?」
 ローレンスがカイアンの剣を折った技は槍術の達人であったラヴァーダのころより大公家に伝えられているといわれる奥義の一つであった。カイアンの一言でそれに気が付いたローレンスははっとなって貴賓席の方を見た。すると国王は立ち上がって驚きの表情でこちらを見つめている。
(ばれた!)
 ローレンスは試合後の礼を済ませると槍をフィリーに渡し、貴賓席には向かわずそのまま王宮を出て宿へと向かった。急いで荷物をまとめて宿を出たとき、すでにそこにはフィリー・メンダが数人の部下と一緒に待ち構えていた。
「どちらへ行かれるのですかな」
 武装した一団を見てローレンスは覚悟を決めた。案の定、そのまま王宮に連れられ、謁見の間で国王と対面することになった。ローレンスは膝をついたまま何も言えずにいた。王国の成立した状況を考えれば、当然ラードルールとの仲は良いものとは言えない。となれば有事の際、ラードルールの公子を人質として置いておくことは有利さをもたらすことは自明である。ましてやローレンスは王宮の中を歩き回り、この国の中枢と呼べるようなところもいくらかは知ってしまった。当然、このままで済むはずはないだろう。自分のしたことが祖国に、そして何より父親対して不利に働くような結果になったことをローレンスは悔やんだ。もう頭の中ではこれから起こるであろう事を色々と考えて顔を上げることもできなくなっていた。そのため、国王の隣にある人物が現れたことにも気が付かなかった。ローレンスがその人物の存在に気が付いたのは国王に呼ばれて顔を上げた時であった。
「ロック殿」
 意外にも国王はローレンスを本名ではなく、偽名で呼んだ。しかしもっと意外であったのは国王の隣にいた人物であった。ソレビー・カイアン。なぜこの男がここにいるのか。先程も思ったことであったが、いくら考えても分からなかった。帝国と王国が繋がっているという話などは聞いたこともない。それどころか帝国はもう存在しないとカイアン自身の口から聞かされていた。あるいはソロレシアの生き残りはファーンでなんらかの重職に就くことになったのだろうか。そんなことを考えているローレンスの様子を不審に思い、国王は尋ねた。
「どうされましたかな?」
 何も言えずに黙っていると、国王は先を続けた。
「こちらのカイアン殿に伺いましたが、お二人は友人だそうで。それなのに友人の姿を見たその日のうちにここを去られようとは、カイアン殿も可哀想というものですぞ」
 その言葉に対して反応したのはカイアンであった。
「いやいやいや、友人と言っても私が一方的にそう思っているだけで、ロック自身は私の事を嫌っているのです」
 カイアンがそう言って笑うと、国王もつられて笑った。
「いや、しかしトゥイバーン殿からの親書を運んで来た際にロック殿の姿を見止め、特別試合までなされたのに、いささか冷たいですな」
 国王の言葉を聞いてローレンスはまた混乱した。
(トゥイバーン殿からの親書?なぜインベオの大公と国王が親書のやり取りをするんだ。ラードルールの他の国と親密になることはあっても、インベオとだけは決してそうはならないはずでは…)
 ローレンスの困惑をよそに国王はなおも話し続けた。
「まあ、ロック殿はエアルスの家庭教師の仕事もある。あまりカイアン殿を毛嫌いせずにこの国に留まっていて下され」
 それだけ言うと国王は姿を消した。会見はそれで終わりであった。
(一体どういうことだ?国王は気が付いていないというのか。いや、そんなはずはない)

 サロンでは二人の若者、ソレビー・カイアンとローレンス・ロクアドルが話をしていた。国王との会見を無事に終えたとあって、ローレンスは幾分ほっとした様子だった。そんなローレンスを見てカイアンは言った。
「良かったな、何事もなくて」
 他人事のようなカイアンの言葉にローレンスはカチンときて怒鳴った。
「誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ」
 両手でテーブルを叩き、ローレンスはカイアンに問い詰めた。辺りにいた人々は何事かと二人が座っている席の方を振り返った。周りの注目を集めることとなってしまったので、カイアンは少し慌てた様子でローレンスを制した。
「おいおい、ちょっと落ち着けよ」
「君が無理矢理あんな所に引きずり出すから僕の正体がばれてしまったんだ」
「悪かった、謝るよ。お前がイトゥーリオの公子じゃないかと思っていたんだが、今一つ確信が持てなくてな。それでちょっと小細工をさせてもらったんだ」
 謝りはしたものの、全く悪びれる様子のないカイアンをローレンスは呆れ顔で見た。
「僕が誰だっていいだろう。そんなことを調べてどうするんだ」
「ただ、その…、旧交をあたためようと思っただけなんだが」
 実際にはカイアンはそこまで考えていた訳ではない。ただ、このロックと名乗る男の正体を確かめようとしただけだったが、咄嗟に思いついてこう言い訳をしたのだ。
「旧交?」
「覚えてないのか。まあ、無理もないか。お互い小さかったしな。でもな、昔、我々は会ったことがあるし、一緒に遊んだこともある。短い間だったけど。確かお前の親父さんがこっちに用事があった時だったな」
「…全然覚えてない」
「やっぱりな。でもこっちは覚えてる。だから船で会ったときに声をかけたのに、全然気が付かない。ああ、なんてひどい奴」
 そう言ってカイアンは手で目を押さえて頭を振った。
「嘘泣きはやめろ。でも、悪かった。覚えてなくて」
 カイアンは口からでまかせの言い訳でこの場を切り抜けられたことで安心した。ただし、二人が幼少の頃に出会っているというのは事実であった。
「まあいいさ。お陰で珍しいものも見れたし」
「何が?」
「ロクアドル家槍術奥義・龍牙折り」
「ああ、あれね」
「その為に三又の槍を渡すように頼んだんだ。でもよくよく考えればこの国の首脳は元々は円卓の騎士なんだよな。奥義を見て気が付かないはずはないのに。軽率だった。悪かったよ」
「いいよ、もう」
「しかし一体なぜこんなところに?」
「君に話すとロクなことがなさそうだ」
「そう言うなよ。結果的には無事だったんだから、それで良しとしろよ」
 この調子ではこれ以上言っても無駄だとローレンスは思い、今度は逆に質問した。
「君こそ何でここに?」
「国王がさっき言っただろう?インベオから親書を預かって来ただけさ」
「何で君が?」
「さあ?しかしあの国王、何を考えているさっぱり分からない。インベオと親書のやり取りはするし、お前の正体を知った時にも、『そういう素性ならエアルスの家庭教師としてふさわしい』としか言わなかったしな」
「インベオのことは分からないけど、僕に家庭教師を続けろというのは、この国に軟禁しているも同然とも考えられる」
「そうかもな。でもあのオッサン、なんか面白いな。気に入った」
「君は気楽でいいね。僕は気掛かりばかりだよ。結局正体は知られてしまった訳だし」
 そう言うとローレンスは大きく溜息をついた。こうして数々の疑問を抱えたまま、ローレンスはこの国に留まり続けることになった。

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