第六章 対立−二つの朝廷

第三話 亀裂

 ローレンスはエアルスと昼食を済ませると、彼を城へと送っていった。そしてその足で火浦とファクトを訪ねた。本当は今日、エアルスが訪ねて来なければ二人に朝から会う予定であったのだ。エアルスが来た時に、ローレンスは一日かかることを覚悟していたが、思いの外、早く済んだため足を運んだのだった。しかし生憎とファクトはおらず、会うことができたのは火浦だけであった。
「遅かったな。ファクトは出掛けてしまったぞ」
「そっかぁ、ごめん。ちょっと急用が入っちゃってね」
「そうか」
「ファクトはどこに行ったの?」
「トレーニングだとか言っていたな。どこへ行ったのかまでは分からん。それで、今日は何の用だったんだ?」
 椅子を勧めることもせずに火浦は腕を組んで座ったまま、相変わらずの射るような視線でローレンスを見た。もっともその目付きは生まれつきのものであり、敵意や悪意を含んだものではない。そのことを分かっているのか、それともただ単純に気にしていないのか、ローレンス自身はそんな火浦の様子にはお構いなしで椅子を引きながら答える。
「この間、分かれて調査したでしょ。その時の報告を、ね」
「その時のことなら、すでに聞いたぞ。それらしき人物に出くわしたが逃げられた、ということだろう?」
「うん。でもそれだけじゃないんだ」
「それ以上、何かあったのか?」
 火浦は興味を惹かれたらしく、身を乗り出した。
「実はね…」
 そう言いながらローレンスは懐から中指ほどの長さの木の枝を取り出した。先端が二又に分かれたその枝は、表面に何かの粉が振りかけてあるようだった。
「屋根の上に逃げられた時、ちょっと細工をしたんだ。それが成功したかどうかはっきりしていなかったから、この間は話さなかったんだけどね」
「ほう?」
 ローレンスは木の枝を弄繰り回しながら笑顔で説明を始めた。
「君は魔法は詳しいかい?」
「いや、全然だ」
「そっか。それじゃあ、説明して分かるかなぁ」
 ローレンスはちょっと困ったような顔をした。
「魔法を使ったのか?」
「うん、まあ、そうなんだ。ストーキング・パピヨン、って言っても分からないよね。簡単に言えば対象の人物をずっと追い回す蝶を作り出す魔法を使ったんだ。もっとも、その蝶は魔法をかけた僕自身にしか見えないものなんだけどね」
「なるほど、それでヤツの居場所が分かったと言う訳か」
 多少、得意気に返す火浦に対し、ローレンスは決まり悪そうに答える。
「残念ながら、そうじゃないんだ」
「失敗したのか?」
「いや、そうじゃなくって、僕にもその蝶の今の居場所は分からないんだよ」
「なんだそりゃ?じゃあ、その魔法はどういうふうに使うんだ」
「まあ、本当は居場所も分かるはずなんだけど、それはもっとレベルの高い魔法なんだ。専門にやったわけじゃない僕じゃ、蝶を作り出すまでしかできないんだよ。でも、一度作った蝶は僕が消さなければ、別の人物を対象にもう一度作らない限りはずっと消えることはないけどね」
「それじゃあ、ただのマーキングか。ま、何もないよりはマシなのかもしれんがな」
「いや、もうちょっと役には立つよ」
 ちょっとムッとした顔でローレンスは異議を唱えた。
「何ができるんだ?」
「この木の枝に戻って来させることはできるよ」
「それが何かの役に立つのか?」
「一度、戻って来た蝶をもう一度、同じ対象に向かわせられるんだよね」
 怪訝な顔をしていた火浦もそれを聞いて理解したらしく、頷きながら答えた。
「なるほど。それならば役に立ちそうだな。もっとも、相手がはるか遠く離れていなければ、だが。その蝶、そんなに高速で移動できるわけではないのだろう?」
「まあ、蝶だからねぇ」
「それで、もう呼び戻したのか?」
「いや、まだだよ。それを君とファクトに頼もうと思って来たんだ」
「何故、自分でやらない?」
「僕は普段、家庭教師があるから、長い時間は自由にならない。君も言ったように遠くにいるとしたら、戻って来るまではいいとしても、目標に向かっていく時に追いかけていくことができないからね」
「代わりに俺達に追って欲しい、ということか。しかしその蝶、お前にしか見えないのだろう?」
「それは大丈夫。これを持っていれば見えるから」
 そう言ってローレンスは、それまで弄んでいた木の枝を火浦に渡した。
「いいだろう。で、見つけたらすぐに捕まえればいいんだな?」
「相手が逃げられない状況ならね。何しろ身軽だから。ちょっとでも逃げられる危険性がある場合には、特定するだけで構わないよ」
「わかった、そうしよう。それで、すぐに始めるか?」
「いや、今日はやめておこう。ファクトもいないしね。明日、授業が終わったらまた来るよ。三人揃ったら始めよう。まずは蝶を呼び戻して、それがどのくらいの時間がかかるのかで追えるかどうか判断できるから、それで決めよう」
「わかった、ファクトにも話しておこう。後は今夜、カードのヤツが仕事をしないことを祈るだけだな」
 そう言いながら火浦は受け取った木の枝をしげしげと眺めていた。

 手持ち無沙汰の翔の元へ久々に光明が戻って来た。陽京に残らせてくれと頼みはしたものの、翔自身はやることなど何もない。それとは対照的に光明は忙しいらしく、一応は今だ二人は同室のままであったがあまり部屋に戻って来ることはなかった。風魔や南雲が護衛と見張りを兼ねて一緒にいる時もあったが、この二人は翔と距離をとっているようで、会話が弾むようなこともなかった。色々と質問をすることはあっても、時間を潰すための何気ない会話、とはいかなかったのである。そのため翔は何とはなしに気分の晴れない日々が続いていたが、光明が顔を見せると表情が明るくなった。一方の光明は翔ほど晴れやかな表情ではなかったが、それでも多少、憔悴した顔に笑顔を浮かべた。そんな様子を見て取った翔は、光明のために座布団とお茶を用意した。光明はお茶を一口すすると、ほっとしたかのように深いため息をついた。
「何だか久しぶりだな」
「ああ。でもしょうがないさ。忙しいんだろう?」
「まあ、それなりにはな。すぐに神楽を攻めることになったし」
「まずは神楽か。で、次に阿部か」
 結局、光明とでも他愛のない話にはならなかったが、彼の頭の中は今はそのことでいっぱいなのは翔にも分かっていたことだし、それに翔自身も気にはなっていることでもあったので、構わずにその話題を続けることにした。
「いや、神楽を倒したらそれで終わりだ」
 それを聞き、翔は不思議に思った。
「じゃあ阿部はどうするんだ?」
「どうって、どうもしない」
「黒幕をそのままにしてはおけないだろう」
「攻める理由がない。阿部は表向きは権力を剥奪されて引退した身だし、賢人達もそれで決着がついたということにしている。ゴリ押しはできない。それに傀儡である神楽を倒せば、阿部は何もできないだろう」
「だが、親父さんの仇だろう?」
「そうかもしれないが、はっきりとした証拠がない以上、何もできない」
 落ち着いた光明の様子と常識的な回答は翔を苛立たせた。
「お前はそれでいいのか?親父さんの仇だぞ。それを放っておくのか?」
 思いのほか強くなった翔の口調は、ほかの者が聞けば光明を責め立てているようにも聞こえただろう。光明もそんな翔の言葉に感情を刺激されたのか、気がつけば立ち上がって叫んでいた。
「そんなことはお前なんかに言われなくても分かっている。だが俺だって立場がある。どうしようもないんだ」
「しかし…」
「もうそれ以上は言うな。そもそもお前は幕府にとっては一介の食客に過ぎない。これ以上、幕府のことに首を突っ込むな」
「…ああ、分かったよ。どうせ俺には関係ないことさ。何よりも立場が大事だってんなら、そうすればいいさ」
 光明の言い草が癇に障ったのか、翔は嫌味を込めて吐き捨てるように言った。
「ああ、そうするさ」
 そう叫ぶと光明は部屋を出て行ってしまった。翔はしばらく黙ったままであったが、やがて大きなため息を一つついた。
「後悔するぐらいなら、はじめからあんなことは言わなければいい」
 声がすると同時に風魔が天井裏から現れた。
「お、お前…」
 突然のことに言葉を失った翔はそれだけしか喋ることはできなかった。
「話は聞いていた。何よりも悔しい思いをしているのは光明様だ。だが、気持ちだけでは動けない立場にあるというのも事実だ。あの年齢で自分の感情を押し殺しての選択をせねばならなかったのだ。それぐらい、察してやるべきだ」
 言われなくても分かっていたことではある。だが、改めてそう言われると風魔の言葉が胸に突き刺さるようであった。幾分、しょげた様子で翔は呟いた。
「それは分かっているさ。だが、阿部をこのままにしておいていいはずがないんだ」
「だが光明様の言うように、証拠も理由もないでは兵は出せない」
「そんなもの、後でどうにでもなる。それでも阿部を討つことの方が重要なんだ」
「どうやらお前は光明様に仇をとらせたいのではなく、阿部を亡き者にしたいようだな」
 どうやら風魔は翔の様子から何かを感じ取ったらしい。そう言われて翔は何かを思い返しているようだった。
「…そうかもしれない。いや、きっとそうだな」
「なぜ、阿部にこだわる?」
 そう聞かれてしばらく翔は黙ったまま下を向いていた。風魔は何も言わずに待ち続ける。やがて翔は意を決したように顔を上げ、風魔を正面から見つめた。
「あいつは、…俺と同じ国の人間なんだ」
「何?日本、といったか、お前の国は。阿部もそこの人間だというのか?」
「ああ、そうらしい。これは光明にも言ってないことだが、俺はあいつと二回、会っている。どうやってこの世界に来たのかまでは詳しく言わなかったが、話によれば、あいつは俺よりも少し前からこの世界にいるらしい」
「ほう、それで?」
「海老名から聞いているかもしれないが、俺たちの世界はこの世界よりも文化・文明・社会機構、あらゆる面で発達している。その知識と阿部の頭脳、そしてこの世界で得た権力を考えるとこのままにはしておけない。きっととんでもないことになる。討つとしたら今しかないんだ」
「それほどの人間なのか?」
「ああ、特にあの優れた頭脳は驚異的だ。こちらに来て半年も経たないうちにこの世界の様々なことを見抜いていた。そして何よりも恐ろしいのがあの冷静さ、冷酷さだ。自分の目的のためにはどんな手段も厭わないだろう」
 翔の言葉を聞き、風魔は何かを考えているようだった。
「俺が阿部を見たのは司月天皇の前での会見の時だけだが、確かに相当に頭がよく、しかもあの年齢でずいぶんと落ち着いた人間だとは思った。だが、いかに高い能力を持とうとも、実際的な権力はすでにない。それほど拘る必要はないのではないか?」
「それでも阿部家というこの国では伝統がある家柄にいる。やろうと思えばあいつならそれを利用して何でもできるだろう。それに阿部にとって貴族としての権力なんて、たまたま得た道具にしか過ぎない。それを失えばきっと別の何かを見つけ出すだろう。だからその前に、奴を止めなければならないんだ」
「権力がなくても良い、となると、阿部の目的は一体何だ?登陽の支配ではないのか?」
「それはあくまで目的のための道具の一つにしか過ぎない。良くは分からないが、阿部の目的はこの世界の生成の秘密を探ることらしい」
「それが我々に禍をもたらすと?」
「目的は問題じゃないんだ。あいつは自分の目的のためにこの世界を自分の都合の良いように変えていくと言っていた。それはきっと、多くの人間を不幸にすることに違いない」
 翔の熱弁をいつも通り冷めた様子で聞いていた風魔は立ち上がって言った。
「どうもお前の言うことは大袈裟なように感じる。それに、いくぶんお前自身の感情も混じっているようだな」
 確かに風魔の言うように翔の心の中には阿部に対する怖れがあった。それを否定することができない翔は、何も言えなかった。
「やはりそれでは兵は動かせんな」
 珍しく戸を開けて部屋を出ようとする風魔は振り返ることもなく言った。
「夕方まで待ってやる。準備をしておけ」
「え?」
「行くのだろう?阿部を討ちに」
「え?」
 風魔の言っていることの意味が分からず、翔は同じように繰り返すことしかできなかった。
「兵を動かせないなら、俺とお前で討つしかないだろう」
 振り返ってそれだけ言うと、風魔は部屋を出て行った。

 ライルは店に入るとテラスの席を指定した。そして目の前に出されたコーヒーの表面が風に揺れるのを睨みながら、彼女にどう話をしようかとじっと考えていた。本当のところは、彼はそれほど深い考えを持ってミュウを誘った訳ではない。確かに『自分の望みが叶わないなら、せめてミュウの力になりたい』と思ってはいたが、具体的に自分に何ができるのかなどということはまったく考えずに出てきてしまったのだった。それにこの間は気まずい雰囲気のまま別れてしまったこともある。ミュウも表面上は繕っていたが、ライルの誘いに対して戸惑いの表情を見せたのもそれがあったからであろう。そう考えるとどのように話を切り出したものか、そして何と言うべきなのかあまり良い考えは浮かばなかった。それでもミュウの元に来たのは、ただ単純に、彼女に会いたい、という気持ちのせいだったのかもしれない。特に結婚話が進みつつある今では、もうこれが最後の機会となる可能性もある。実際、ライルはそれほど深く自分の感情を自身で理解していた訳ではなかったが、会って話をしなければならない、という強い意識が心の内にあったのは確かだった。その意識に従ってミュウを誘ったところまでは良かったが、特に深い考えがあった訳でもないので彼女が来るまでの短い時間に考えをまとめなければならなかった。しかしそれを果たす前にミュウは姿を現した。
「お待たせしました」
 エプロンを外した彼女は淡いピンクのスカートを翻しながらライルの正面に座ると、軽く手を上げて店員を呼んで紅茶を注文した。そしてフワフワの髪の毛を揺らしながらライルの方へと向き直る。考えがまだまとまっていないことも忘れて、そんな彼女の様子に目を奪われていたが、店員の声によって意識を引き戻された。
「お代わりをお持ちいたします」
 手付かずのコーヒーは冷めてしまった訳ではないが、ミュウの注文に合わせたのだろう。しかしうろたえたライルはそんな店員の心遣いにも気がつかなかった。
「いや、まだ残っているから…」
「幾分、冷めてしまっていますので…」
 そこまで言わせて、ライルはやっと気がついたようで、赤面しながら答えた。
「あ…、ああ、じゃあ、よろしく頼む」
 店員が立ち去ると、ミュウの方から話し始めた。
「今日はどうかなさいましたの?」
「いや、その…、元気にしてるかと思って」
 結局、何の考えも浮かばなかったライルはそう答えた。しかし何気ない一言のつもりだったが、ミュウの表情は暗くなった。
「すいません、気を遣わせてしまって。私の個人的なことなのに…」
 そう言われてライルはしまった、と思った。
「あ、いや、俺の方こそ済まない」
 重い雰囲気になってしまったが、話題がその方向へと向いたのはかえって都合が良いとも言える。そう考えたライルは思い切って言ってみた。
「その後はどうだい?」
「え?」
「彼とは何も?」
「いえ、別に…。あなたとお話した日以来は、一度も会ってはいませんし、それにこの間も言ったと思いますけど、私はもう、諦めていますから…」
「蒸し返すようだが、本当にそれでいいのか?」
 怪訝な表情を浮かべてミュウは尋ねる。
「なぜそんなに気にかけるのですか?あなたには関係のないことですのに」
「俺も同じような悩みを抱えていたからさ」
「どういうことですか?」
「俺もね、好きな人がいたんだ。けど、親の決めた相手と結婚することになったんだ」
 ミュウはやや間をおいて答えた。
「そう、なんですか。でも、どうして?」
「そうだなぁ。はっきり言ってしまえば、望みがないからさ。俺が好きだった人は他に好きな人がいるらしい。だが、その人と結ばれないのであれば、相手は誰だって一緒だ。なら、親父が喜ぶような相手にしようと思っただけさ」
 ミュウは何も言わずにただじっと聞いている。
「だけど君には、俺と同じような思いはして欲しくはない。それで何か力になれないかと思ってね」
 やはりミュウは何も答えない。不安になったライルは取り繕うように言葉を続けた。
「いや、余計なお節介だとは自分でも思うよ。だけど放っておけないし、だから…」
 そう言いかけた時、今度はミュウは彼の言葉を切った。
「でも、あなたも諦めたのでしょう?自分でできなかったことを私には強要するのですか?」
 意外な言葉にライルは戸惑った。
「強要って…、そんなつもりじゃない。ただ力になれればと思って…」
「では何ができるのですか?何をしてくださるんですか?」
 敵意を含んでいる訳ではないだろうが、冷たい視線をライルに向けて抑揚のない声でそう呟く。
「いや、それは…」
 ミュウの様子に多少、怯んだライルは上手く言葉を続けられなかった。しかしミュウは、最初からライルに対して的確な回答を期待していた訳ではなかったらしく、お構いなしに続ける。
「いいんです。放っておいてください。もう手遅れなんですから。…先日、父から言われました。見合いの先方から改めて連絡があって、式の日取りを決めたいと話があったと。もう、どうしようもないんです」
 彼の知っているミュウとは違う態度に驚いてはいたが、それにも増してこの言葉はショックだった。ミュウが自分以外の男のものになる。それも、彼女が望んでいない相手と。そしてそれに対して自分は何もできない。悔しさと悲しさの入り混じった感情が彼を襲い、目の前の景色が歪んでいくようだった。それでも何かを言おうとしたが、声にならなかった。ミュウはうつむいたままで、そんなライルの様子には気付かなかったようである。何も言わないミュウ。何も言えないライル。互いに視線を交わすこともなく、ただ止まったまま。そうしてしばらく無言の時が流れた。二人とも、通りを歩く人のざわめきがやけに遠くに聞こえた。日が翳って冷たくなってきた風にも気付かずにただ座っているだけである。凍れる時を溶かしたのは、店員だった。
「お待たせ致しました」
 そう言うと彼はテーブルにカップを二つ置いて去って行った。二人ともそれを見ることもしなかったが、ミュウが口を開いた。
「近々、あの店も辞めます。もう会うこともないでしょう」
 それだけ言うと彼女は立ち上がり、紅茶代をテーブルに置いて立ち去った。しかしライルの時はいまだ止ったままであり、彼女を追うこともできずただただ冷たい風に身を晒しているだけであった。

前の話へ  本編目次へ戻る  ホームへ戻る  次の話へ