第七章 動乱−揺れる登陽

第三話 奇襲

ラナンがルシアに導かれて退室した後、海老名とペギラもまた、国王と共に別室へと移っていた。そこは親しい者が尋ねてきた時に使う応接室であり、小姓たちもいない全くのプライベートな空間となっている。そのため、この部屋へと招かれる客へのもてなしは普段ではルシアが行っているのだったが、彼女が不在の今、国王自らが海老名たちのために飲物を用意した。
「忙しいところ悪いね」
 ファーンが入れたコーヒーを一口すすると、海老名はいつもの笑顔で言った。ペギラはコーヒーに手もつけずに黙ったまま座っている。先に来客の分の飲物を用意したファーンは、今度は自分の分の飲物を手にして二人が座っているソファの方へと向かって来た。
「いや、それは構わない。ちょうど用事は済んだところだ。それにお前達には聞きたいこともあるしな」
「そうかい?いやしかし、本当に久し振りだよね。今じゃ二人も子供がいるんだってね」
 陽気に話す海老名とは対照的に、ファーンは静かな表情であった。彼は自らのカップをテーブルに置くと海老名達の正面に座った。そしてテーブルに両肘をつき、顔の前で手を重ね合わせた。
「単刀直入に聞こう。お前達、なぜ十一年前と同じ、若いままの姿なのだ?私とルシアの間にはもう二人も子供がいるというのに、お前達は最後に別れたあの日のままに見える」
 そう言われて海老名とペギラは顔を見合わせた。ペギラは困ったような表情を見せたが、海老名はやはり笑っている。
「どうかしたのか?まさかお前たち、偽者ということはあるまい。それとも、説明できない訳でもあるのか?」
「そういう訳じゃないんだけどね。…じゃあ、ペギラ、僕から説明するよ?」
「分かった、任せる」
 ペギラの了解が得られると、海老名はカップに残っているコーヒーを一気に飲み干してソファから立ち上がり、窓の方へと歩き出した。ファーンは何か言おうとしたが思い留まったらしく、海老名の背中を見つめていた。その正面ではやはりペギラがファーンと同じように海老名の背中を見つめている。
「魔神討伐の時、僕とペギラは別の世界から来た人間だということは話したよね」
「ああ、確かそんなようなことを言っていたな」
 ファーンは何かを思い出すかのように宙を見つめながら返事をした。その様子を見て海老名は軽く頷いた。
「君はたぶん、実感として『別の世界』というものを理解していないんじゃないかと思う」
「どういうことだ?」
「別の世界、と聞いてもこの王国やラードルールなんかとは違う、遠い所にある別の国ぐらいにしか考えていないだろう?」
 ファーンは眉をひそめて海老名を見つめ直す。
「この世界では『別の世界』というものの存在は認められているらしい。しかしそれを言葉だけでなく、どういうことか本当に知っている人はごくわずかしかいないようだ」
「言葉、だけ…?」
 そう呟くファーンに頷いて海老名は話を続けた。
「この世界と僕達の世界は全く繋がっていないんだ。だからこの国からどれだけ遠くに行っても僕達の世界は見つけられない。逆に僕達の世界からこの国は見つけられない」
 そう言うと海老名はテーブルに置いてあった二枚のコースターを拾い上げた。
「この右手のコースターがこの世界、そして左手のコースターを僕達の世界としよう。この世界と僕達の世界は、例えて言うならばこんな風になっているんだ」
 二枚のコースターを上下に平行に並べて持って海老名は説明を続けた。
「この上の世界にいる君はどこをどう歩いていっても、下の世界にある僕達の世界には辿り着けないでしょう?」
 ファーンはそれを見てしばらく考え込んでいたが、やがてカップを手にしてコーヒーを一口すすった。
「なるほど、なんとなくではあるが分かった。しかし、それがどうしたというのだ?お前達が歳を取らないこととどう関係があるんだ?」
 海老名はソファに再び腰を下ろすとコースターをテーブルに置いてファーンに視線を返した。
「これほどに離れた、と言うより本来、関わりのない世界なんだから、この世界と僕達の世界っていうのは全然様子が違っている所だというのは分かるよね?」
「ああ、それはそうだろう。まず、自然環境が違うだろう。そうなれば歴史が違ってくる。ということは文化文明も違うはずだ」
「さすがに飲み込みがいいね。それでついでに時間の流れ方も違うみたいなんだよ」
 ファーンは海老名の言葉を聞き、数度、まばたきをすると口を開けたまま止まってしまった。海老名は変わらずに笑顔のまま言葉を続ける。
「まあ、これだけ色々と違っているんだから、時間の流れ方が違っていても不思議じゃない。というよりもむしろ違ってなきゃおかしいくらいだ。そんな訳で君達にとっては十一年でも僕らにとっては半年くらいだったりするのさ」
「…うぅん」
 海老名の言葉を聞いて、ファーンは唸って黙り込んでしまった。ちょうどその時、ノックの音がした。
「父上、こちらにいらっしゃるのですか?」
 その声を聞いて我に返ったらしく、ファーンはソファから立ち上がると大きな声で言った。
「エアルスか。今は来客中だ。後にしろ」
 そう言って戸を開けることもせずに追い返そうとするファーンに海老名は尋ねた。
「息子さんかい?」
「ああ、そうだが」
「紹介してよ。いいだろう?向こうも何か用事があるみたいだし」
 ファーンはちょっと何か考えていたようだったが、すぐに部屋の外にいるエアルスを呼び戻すと部屋へと招き入れた。
「初めまして。エアルス・ファーンと申します」
 その様子をペギラは微笑ましく思いながら見ていたが、海老名はエアルスの顔を見てハッとなった。
「エアリアー、この子は本当に君の子かい?」
「当たり前だ、失礼なことを言うな。ルシアは浮気などせん」
 多少、不機嫌な声でファーンは答えた。海老名はちょっと慌てて否定した。
「いや、そう意味じゃないんだ。…そうか、君の子か。運命とは不思議なものだな」
 後半の方はほとんど独り言のような呟きで回りにいた者には聞き取れないほどに小さな声だったため、その言葉の意味を追求する者はなかった。海老名はエアルスの顔をじっくりと見つめ、また、エアルスもその視線を真っ直ぐに受け止めて海老名を見つめ返していた。

 芝田を大将とする幕府軍は、烏丸城を出発した翌日の夕方にはもう皇居に到着していた。歩兵を中心とした編成であったが、歩きやすい街道の行軍、そして少人数ということもあってさほど時間もかからなかったのであった。当初、この部隊の編成は当初、五百人を予定していたが、芝田を大将としたことにより彼の部下達が全て参加を熱望し、最終的には七百人となった。しかしそれでも広大な皇居を包囲するには十分とは言えず、結局幕府軍は皇居正門の前に立ち並ぶこととなった。皇居の外堀のさらに外側、皇居への公道にあたる部分は都合四台の馬車が行きかうことができるほどの大通りとなっているため、七百人の兵達が一つ所に集まっていると少なく見えるほどであった。さらにその大通りに面して貴族の屋敷や豪商達の商店が並んでいたが、彼らは現状では表立ってどちらに味方する訳にもいかず、ただ遠巻きに幕府軍を見ているだけであった。
 兵の配備を済ませるや否や、芝田は小早川から預かった書状を持たせた使いを皇居へ走らせた。その内容はもちろん皇居の引き渡しの要求である。堀にかかる橋を渡っていく使いを見送ると、芝田は主だった者を連れて宿へと入った。その一団にはもちろん光明もいた。この宿は将軍家が懇意にしている近くの商人の家を一時的に借り上げたものであった。
「あちらからの返答は明朝になるだろうな」
 応接室を軍議の間として各部隊長を集めた芝田はそう呟いた。
「しかし芝田様、あちらがそう簡単に皇居の引き渡しに応じるとは思えませぬが」
今回の出陣にあたって副将に任じられた仙斉が言った。しかし芝田はニヤリと笑うと腕組みを解いて身を乗り出して答えた。
「何の為に七百もの兵を連れて来たと思っている?応じねば、堀を渡るだけだ」
 その芝田の言葉を聞き、その場に居合わせた者は皆、ざわめいた。
「それは性急過ぎませぬか?」
「皇居を侵そうと仰せられるのですか」
 次々に出る反対意見に対し、芝田は何も答えず、その代わりに笑みを浮かべたまま、横にいる光明の方を向いて訪ねた。
「光明様、どう思われますかな?」
「ふむ…」
 話を振られた光明は腕組みをして考え込んだ。その様子を見て部隊長達も口を閉じ、光明に注目した。
「芝田殿の考えは妥当であろう。この出兵より以前、神楽にはすでに沖宮皇子の退位については通告済みだ。そしてその中において、武力行使も辞さない旨は伝えてある。ここで我らが動かねば、幕府は動くべき時に動かぬものと外様達に見くびられることとなろう。将軍たる父上は、必要とあらば大京の城下さえもいくさ場とした過去があることを忘れた者はおるまい。必要な時にためらうことなく動くことができる幕府だからこそ、外様をこれまで従えてくることができたとも言える。我々は動くべき時にためらってはならないのだ。それに皇居は確かに神聖にして侵さざる領域ではあるが、それも真なる帝が皇居にあってこそのもの。卑しき簒奪者を追放するための聖軍たる我らが浴びる批難などはない」
 静かに、だが確固たる決意を瞳に宿してそう話す光明の言葉を、部隊長達も頷きながら聞き入った。その様子を芝田も頷きながら見ていた。
「どうやら納得がいったようだな。では皆の者、今夜はしっかりと休め。それから仙斉、外の兵に半数ずつ交代で休みを取るように命じろ」
 そうしてその場は解散となり、各々、割り当てられた部屋へと移っていった。
「光明殿ももうお休みくださいませ」
「芝田殿はどうされるつもりか」
「某はもう少し、兵達と辺りの様子を確認してから休ませていただきます」
「そうか、よろしく頼む」
 そう言い残すと光明もまた、応接室を後にした。

 食事を済ませて床に就いていた光明は、大きな声によって起こされた。声の主は芝田であった。
「光明殿、お休みのところ申し訳ございません」
「どうかしたのか?」
 目を擦りながら光明は尋ねた。芝田は多少、慌てた様子で答えた。
「市中数ヶ所において火事が発生しました」
 その言葉を裏付けるかのように、外からはかすかに半鐘の音が聞こえていた。光明は布団を跳ね上げて起き上がった。
「それで、状況は?」
「京の火消しだけでは人手が足りないため、仙斉に命じて兵を鎮火に当たらせています。家屋が十件ほど焼失いたしましたが、そう長い時間はかからずに収められるかと思われます。逃げ遅れたことによる負傷者は二十余名おりますが、幸い今のところ死者はありません」
「そうか、それは何よりだ。で、出火の原因は?」
「まだはっきりとはしませんが、この季節にこれだけの火事が同時に起こる事は通常では考えらぬこと。恐らく人為的なものかと」
「だろうな。取り敢えず今は全力で消火に当たり、夜が明けたら詳しい被害状況を調べて報告させるか」
 光明はそう呟きながら窓を開けて外の様子を観察した。ざっと見渡しただけでも四ヶ所で空が赤く染まっているのが見える。遠くから人々の騒ぎ立てる声が聞こえてきた。半鐘の音はいまだに市中に響いている。
(何てことだ。一体誰が、何のために…?)
 そんなことを考えながら街を見ていると、今度は間近でさらに大きな声が聞こえてきた。
「敵襲だー」
 声のする方を見ると、皇居の堀を渡ってくる護兵の軍勢が見えた。

 突然、正門を飛び出してくる騎馬の軍勢に、火事に気を取られていた幕軍の兵士達が耐えられるはずもなかった。おまけに半数は宿で休み、さらにその内の半数は鎮火に当たっている。皇居に常駐している護兵はおよそ千人ほどであったが、いかに兵としての練度の差があっても十倍近い兵を相手に戦えるはずもない。皇居正門前では陰惨な虐殺劇が繰り広げられることとなった。怒涛の勢いで迫り来る騎馬に踏み潰される兵士、多数の護兵に取り囲まれて一斉に槍を突き立てる兵士…。そんな目を覆いたくなるような光景を、光明はなす術もなく窓から呆然と見ていることしかできなかった。
(何てことだ…。一体、何故こんなことになってしまったんだ)
 口を半開きにしたまま立ち尽くす彼を現実に引き戻したのは芝田の声だった。
「光明殿、どうする?」
 この屋敷の中に兵士の半数は残っている。しかしすぐに戦に加わることができるような準備などは整っているはずもない。全員を叩き起こして武装を整えている間にも表の兵士は全滅しているだろう。だからと言ってこのまま留まっていればこの屋敷にも火をかけられる恐れがある。しかし光明はそんなところにまで考えが及ばぬほど混乱していたので、何も言うことはできなかった。
「光明殿、ここは私の判断で動く。よろしいな?」
 芝田がそう怒鳴って部屋を出て行こうとした時、外の声が静かになった。何事かと思った芝田は室内へと戻り窓から外を見下ろした。
 見下ろした風景を見て芝田は一瞬、驚いた。その血の海が広がる眼下の景色から護兵達が遠ざかっていくのが見えたのだった。護兵達は大通りを西に向かって馬を進めている。幕府の兵は五十人ほど残ってはいたが、それを追撃するだけの気力もないようで、走り去る護兵の後姿を見守っているだけであった。もっとも、歩兵ばかりの彼らでは騎馬に追いつくこともできなかったであろう。敵方もそれを分かっているらしく、殿の護兵ですら、後ろを一瞥することもなく一目散に西へと向かっている。良く見てみれば西側では火災がない。この火災は敵の手によるものであることは明白であった。芝田は歯噛みしながらも思いの外、被害が少なかったことに安心した。

 夜が明けた頃、鎮火に当たっていた兵士達は戻ってきたが、当然、正門前の状況を見て仰天した。火災による死者は一人もいなかったが、その代わりに百十七名の兵の命が失われたのだ。
鎮火の指示に当たっていた仙斉も、昨夜の惨劇を聞いて驚いた。そしてもうすでに乾いて変色してしまった血で染まった大通りを渡って、宿にいる芝田の下へと報告に訪れた。
「芝田殿、大変だったようだな。…こちらの方は鎮火は全て終わった。幸い死者はなかったが、負傷者は約八十名。いずれも火災はそれほど大きなものではなかったが、住宅が多く固まっている場所ばかりであった。それゆえ、鎮火そのものよりも避難する人々の誘導と負傷者の対応の方に時間を要したくらいだ。おそらくこれは、付け火であろう」
「だろうな。そう判断できる材料はいくらでもある」
 芝田は吐き捨てるように答える。
「これが神楽の返答、という訳だな。…光明様は?」
「寝かせてある。よほど衝撃が強かったのだろうな。昨夜は半分、放心状態だったぞ」
「無理もない。こんなことは初めてだろうからな」
 ちょうどその時、部屋の外から声がした。
「お話中、申し訳ありません。ご報告に参りました」
「ああ、構わん。入れ」
「失礼します」
 そう言って現れたのは、芝田の部下の一人、筒木恭久だった。血気盛んで荒々しい者が多い芝田の部下の中では珍しく落ち着いた雰囲気を持つ青年である。まだ若くはあったが、芝田も筒木のそんなところを評価して重く用いていた。
「やはり皇居には皇子も神楽もいませんでした。残っているのは女官ぐらいのもの。そして、勾玉もありませんでした」
「そうか、やはり持ち去っていたか。皇居は取り戻しても勾玉がなければな」
 芝田は護兵が去った後に筒木に命じて皇居内部の調査に当たらせていた。それは万に一つでも、帝位継承の証である星屑の勾玉が皇居内に残されていないかと期待してのことであったが、やはりそれは徒労に終わったようであった。
「芝田殿、これからどうする?」
「将軍の下へ戻ろう。このような恥ずかしい戦果では全く面目のないことだが、いたしかたあるまい」
(本当は神楽を追撃中、兵達の士気が上がったところで小早川殿が合流、というのが理想だったのだろうな。だが逆に護兵共に勢いを与える結果となってしまったな。繰場砦での決戦という形は達成されるだろうが、それも本来は京の街に被害を出さないためのものだったはず。…これでは将軍に顔向けできんな)
 そんなことを考えながら芝田は仙斉や筒木に撤退の指示を出した。

 繰場砦付近の小高い丘。そこに二つの騎馬の影があった。その後ろにさらにもう一つ、影が現れた。
「護兵は首尾良く、こちらへと向かっているようです」
「大した手並みだったぞ、十白。こちらかも京の街が燃えるのが見えたほどだ。それに神楽も思ったよりもちゃんと動いてくれたようだ」
 現れたのは丹波十白。そして答えたのは阿部であった。
「しかし、京の街に火をかけろ、なんて言うのは初めてでしたね」
「ふん、俺にとってここは『京』なんて呼べる街ではないからな」
「ヒッヒッヒ、そうでしたな」
 そんな丹波の言葉を無視して、阿部はもう一人の馬上の男に声をかけた。
「それよりもどうだ、河原崎。これでこちらに付く気になったか?」
 声をかけられた男、河原崎慧斗は不機嫌な表情で答えた。
「俺にとって、貴様達が勝てるかどうかなどは興味がない。御剣と決着が付けられればそれでいい」
「心配するな。俺の読みでは、御剣はきっと現れる」
「なぜ、そう言い切れる?御剣は今、大京にいるはず。例えここで戦になったとしても、援軍に来るのは近隣の大名達のはずだ」
「そうだな、近隣の大名達は当然、来るだろう。しかし大京からも援軍を呼ばなくてはならない。そういう事情が幕府にはあるのさ」
「事情?」
「そこまで知る必要はない。だが、芝田がこちらに来ている以上、その援軍は御剣でなくてはならない。何しろ、他の主だった幕府の重鎮は今、忙しくて手が離せない状況にあるからな」
 阿部はそう言うと薄く笑って風が吹く丘から野原を見下ろした。

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