第七章 動乱−揺れる登陽

第五話 秘めたる想い

部屋から逃げ出したライルは南棟を駆け出し、人々の間を抜け、息の続く限り走り続けた。自分がどこをどう走っているのかも分からなくなっていた彼であったが、中庭に差し掛かった途端に濡れた草に足を滑らせて前のめりに倒れた。そして仰向けになってしばらく呼吸を整えると、体についた草を払いながら立ち上がった。気が付けばそこは、先程、ミュウと会った湖だった。しばらく何もせずに立ち尽くしていたが、やがて腰を下ろして考え込んだ。
(俺はどうしてあんなことを言っちまったんだ。バランタイン公の顔を潰してしまった上に親父を怒らせるだけだっていうのに。それにミュウの立場だって悪くなる。…馬鹿だな、俺も)
 そんなことを考えながら無意識のうちに草をちぎって湖に向かって投げていた。そして水面で揺れる草を眺めながら溜息をつく。その時、後ろから声を掛けられた。
「どうかなさいましたか?」
 驚いて振り向くと、そこにはミュウがいた。近くに侍女の姿は見当たらない。今度は一人らしい。彼女は別れ際と同じく無表情のままであった。ライルは何をしゃべればいいのか分からず、黙ったままミュウを見つめていることしかできなかった。
「ここに来ればもう一度、会えるような気がしていました」
 ミュウはそう言いながら長いスカートを押さえ、ライルの隣に腰を下ろした。ライルが何も言えずにその様子を見ていると、やはり無表情のまま尋ねてきた。
「騎士の格好でお会いするのは、今日で二度目ですね」
 その服装のせいか、無表情のせいか、それともしゃべり方のせいか、今のミュウからは、あの花屋で見た明るい元気な女の子、という印象は感じられず、バランタインという名家の令嬢というに相応しい雰囲気を持っていた。そのためライルはますますしゃべりづらくなってしまっていた。
「あなたはこちらに勤務されているのですね」
 ライルは最初、ミュウの言っていることの意味がわからなかったが、彼女の次の言葉を聞いてその意味を理解した。
「私、まだお会いしたことがありませんけれど、公子様はどのような方でいらっしゃるのでしょうか?」
 どうやら彼女はライルのことをこの大公館に勤務する騎士と思い込んでいるようだった。ライルはどう答えたものかと迷ったが、ちょっと考えてから口を開いた。
「ロクなヤツじゃないな。あんなのとは結婚しない方がいい」
 どのような反応をするのかとライルはミュウの顔を見つめたが、その表情に変化はなかった。
「主に対して、随分な言い様ですね。騎士とあろう方が陰口というのは、みっともいいものじゃありませんわ。それとも、それを聞いて私が結婚を取り止めるとでも思っていらっしゃるのですか?」
「…できればそうあって欲しいものだが」
 感情を込めずにライルはそう呟いた。そしてしばらくの沈黙の後、ミュウは低い声で言った。
「私…、もう、決めました。諦めました。あなたがそうしたように」
 その言葉を聞いてライルは胸が締め付けられるような気がした。そしてあくまでも無表情でいるミュウの横顔を見ているうちに耐え切れなくなり、不意に立ち上がると彼女の両肩を掴んで言った。
「ダメだ、君はこんなところに嫁いじゃいけない。君は君の本当の幸せを追うべきだ」
 真っ直ぐに見つめるライルの視線を避けるようにミュウは顔を逸らした。
「でも…、でもあなたは結婚してしまうのでしょう?」
「ああ、そうだ。俺は諦めた。だが君には諦めて欲しくない。勝手な言い草だとは分かっている。でも俺は…、それでも俺は君には幸せになって欲しいんだ」
 肩を握る手に自然と力が入る。しかしミュウはそれに抵抗する素振りも見せず顔を逸らしたまま黙っていた。ライルもまた何も言わずにそんなミュウの横顔を見つめていた。
しばらくその状態が続いたが、やがてミュウの瞳から涙が溢れ出した。
「私は、私はあなたが…」
涙を散らしながらライルの方へと向き直ってそう叫ぶ彼女の言葉は、不意に途切れた。そして言葉を失ったかのように口を開いたまま動かなくなった。ライルはどうしたのかと思ったが、すぐにミュウが自分の胸元を見つめているのに気が付いた。
「『飛び立つ鷹』…。それじゃあ、あなたが…」
 ミュウが見ていたのは、ライルの服に記された大公家の紋章であった。このラードルールにおいて、鷹が飛び立つ様をモチーフにした紋章がゲルミリオ大公家の紋章であることを知らない者などはいない。ましてやバランタイン家の人間ならなおさらである。そのことに気付いたライルはハッとしたが、かえって説明する手間が省けたとも考えた。そしてミュウの肩から手を離すと、彼女に背中を向けて言った。
「…そうだ。ライラック・レオドリア。それが俺の本当の名だ。そして、…君と結婚するはずの男だ」
 何の返事も聞こえてはこなかったが、振り返って彼女の表情を確認するのも怖かった。ライルは湖に浮かぶ草を凝視しながら、黙ったままミュウの言葉を待った。
「…ご存知だったのですか?」
 沈黙を破るにしては細く弱々しく、ともすれば風の音にかき消されてしまいそうな声だったが、ライルがそれを聞き逃すはずはなかった。そして落ち着いた声で静かに答えた。
「いや、君がバランタイン公の娘だと気付いたのは、さっき会った時だ」
「そうですか。…でも、あなたには都合が良かったでしょう?私のためだと言いながら、自分の結婚も取り止めることができますものね」
 背中から聞こえてくる低く呟くように発せられるその言葉にライルはギクリとした。そしてライルは慌ててミュウの方へ向き直って叫んだ。
「違う、そんなつもりはない。何でいまさら自分のことを考えるものか。俺は君の幸せを願っているだけだ」
「口先だけではどのようにでも言えますわね」
 冷たい視線を浴びせられてもライルは怯むことはなかった。それどころか、彼は決定的な言葉を口にした。
「俺が好きなのは君なんだ。だけど…、だけど君の幸せのためなら…」
そして感情を抑えきれなくなったライルはミュウを力強く抱きしめた。ミュウはされるがままに立ち尽くしていたが、やがてライルの胸に顔を埋めたまま尋ねた。
「ホント?」
 ミュウからの予想もしなかった言葉にライルは一瞬、戸惑ったが、すぐに気を取り直して言った。
「ああ、俺は君のことが好きだ。だからこそ君には本当の幸せを掴んで欲しいんだ」
 しばらく何の返事もなかった。ライルはミュウを抱きしめたまま見つめる。静かな風がその腕の中の彼女の髪を揺らした。
 やがてミュウは顔を上げると、ライルの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「わたしも…」
 ミュウはライルに体を預け、両腕をライルの背中に回すと強く抱き返した。
「わたしもあなたのことが好き。初めてお店で会ったあの日からずっと…」
 その表情は、ライルの良く知るあの花屋の看板娘のものだった。

 神楽が砦に到着した翌日の夕方、芝田の軍もまた砦付近にたどり着いた。もちろん小早川達もまだ到着しているはずもなく、芝田はひとまず砦の南側の丘に陣を張ることにした。
 この丘は砦から多少、距離はあるが、様子を確認することぐらいはできる位置にあった。本隊とも言える小早川達の軍が到着しないうちは本格的に戦端を開くわけにもいかない。そのため、砦から適度に距離の離れたこの丘を選んだのであった。
「ようし、ここに陣を張る。各々、夕餉の支度をしろ」
 陣の外側には柵が立てられ、各所に焚き火が灯った。この時期は陽が落ちるのが早い。今は鮮やかな夕陽が遠くに見える砦を照らしているが、程なく陽は落ち、気温も大幅に下がるだろう。そのため、兵達は最初に焚き火を起こしたのだった。そして土を掘り起こしてかまどを作り、焚き火から火を移す。やがて幾条もの煙が陣内に立ちのぼり始めた。
芝田は馬から降りると、陣のほぼ中央の帳を巡らせた中へと入った。そこにはすでに光明と仙斉がいた。
「後は閣下が到着するのを待つだけだな」
 腰を下ろして芝田がそう呟くと、仙斉は尋ねた。
「こちらから仕掛けることはしないので?」
「できればそうしたいところだが、あの砦にどの程度、兵がいるのか分からん。それにこちらの兵も疲弊している。今は休ませるしかあるまい」
 もちろん仙斉も同じことを考えていた。しかし、戦闘における根本的な思想が攻撃に偏っている芝田が今の状態をどのように捉えているのかを確認するため、あえて聞いてみたのだった。
「そうですな。光明様が仰られた通り、閣下の到着を待って我々はその後詰に回るべきでしょう。それまではここで陣を張り、神楽を牽制するぐらいしかできることはありませんな」
 芝田は兜を脱いで脇に置くと、それを軽く叩きながら呟くように言った。
「残念ながらそういうことだな。…ヤツラを追っては来たものの、ここでジッとしていることしかできんとはな」
 光明は黙って二人のやりとりを聞いているだけであった。と、その時、帳の外から声がした。
「お食事をお持ちしました」
 入ってきたのは筒木であった。両手にはそれぞれに椀があり、白い湯気を立ち上らせていた。
「芝田様、こちらにいらっしゃったのですか」
 そう言いながら筒木は二つの椀をそれぞれ光明と仙斉の前に置いた。中身は、固形の味噌をお湯で溶かした汁に、米と干した芋を入れたものであった。
「なんだ、ワシの分はないのか?」
「申し訳ありません、すぐにお持ちいたします」
 そう言って外に出ようとする筒木を芝田は呼び止めた。
「ああ、構わん。後で自分でもらいに行く。それよりも筒木、砦の様子はどうだ?」
「は。今の所は特に目立った動きはありません」
「そうか、ならいい。糧食だけは気をつけろ。篭城するならば、狙うはこちらの食物だろうからな。疲れているだろうが、半分は交代で見張りをさせろ」
「了解いたしました。それでは失礼します」
 そう言って筒木はその場を立ち去った。
「さて、閣下がいつ頃、到着されるか…」
 そう呟く芝田を光明と仙斉はじっと見ていた。その様子に気付いた芝田は組んでいた腕を解くと、二人に言った。
「ああ、特に何か話があるわけではない。気にせずに食事をしてくれ」
 そして芝田は兜を拾い上げながら立ち上がると、独り言のように、
「さて、陣中の様子でも見回ってくるとするか」
と言って外に出て行った。

 芝田が外に出た時には、もうすでに日は暮れていた。しばらく陣内を辺り歩き回っていると、人数のわりにやけに静かなのに気がついた。よくよく見てみれば焚き火の傍で食事を採っている者にも見張りに立っている者にもほとんど口を開く者はなく、半ば気の抜けたような表情をしている者ばかりであった。
(やはり疲労が激しいようだな。慌ててここへ来るべきではなかったのかもしれんな。敵に時間を与えぬためとは言っても、ここで陣を張るだけで何もできなければ大差はないからな)
 そんなことを考えながら陣の北側へ行き、砦の様子を確認した。砦にはいくらかの明かりが見えたが、この場から見た限りではいたって静かであり何の動きも見られない。芝田は少し安心して兵糧が置いてある西側へ行き、見張りの兵に声を掛けた。
「ヤツラが狙うとすればまずここだ。まあ、しばらくは何もないだろうが、十分に注意はしておけよ」
「はっ、心得ております」
 積まれた兵糧を眺めているうちに、自分がまだ夕食を食べていないことを思い出した。しかしそれほど空腹という訳でもなかったので、あまり気にしなかった。それよりもこの数日は忙しかったこともあって、全く酒を飲んでいないことに気がついた。
「ああ、それと…」
「はっ」
「…いや、何でもない」
 兵に酒を用意させようと思ったのだったが、いくら何も起きなさそうではあっても、陣を張った初日に総大将が自ら酒を飲むというのも憚られたので、諦めてその場を立ち去った。溜息をつきながら東側に向かって歩いていると、遠くでかすかに何かが光るのが見えた気がした。
(何だ?)
「どうかされましたか?」
 すぐ傍で見張りに立っていた兵士の一人が尋ねた。
「いや、向こうで何か光ったようだが…」
目を凝らしてそちらを見ると、闇の中で巨大な何かが蠢いた。そして次の瞬間には、それが大きな地響きを立ててこの丘へと迫ってくるのが分かった。
(まさか!)
 果たしてそれは、敵の軍勢であった。しかし芝田が気付いた時には、その軍勢はもうすでに松明を灯し、槍を掲げて雄叫びを上げながら丘を登り始めていた。
「奇襲だ!迎え撃て」
 そう叫ぶ芝田ではあったが、砦に正対する北側、そして兵糧が置いてある西側に多くの兵を配備していたため、この東側は手薄であった。神速の速さで向かってくる敵兵は、芝田軍に体勢を整える間もなく丘を登りきり、柵を破って陣中へと飛び込んできた。騎馬兵が槍を振り回し、甲冑すら付けていない兵士達に襲い掛かる。松明の火が近くの帳を次々に焼いていく。見張りに立っていた兵達でどうにか応戦していたが、続々と登ってくる騎馬の大軍になす術もなかった。
 その中で、一際目立つ一騎があった。槍と見紛うほどに長い刀を自在に振り回し、当たるを幸いに次々と兵士を切り捨てていた。芝田は辺りを見回して馬を探したが、それよりも早く馬上から長刀が襲ってきた。芝田は咄嗟に軍配でそれを受けた。
「往生際が悪い。観念せい」
「生憎とこの首、それほど安くはないのでな。貴様如き小物にくれてやる訳にはいかん」
「この河原崎を捕まえて小物とはよく言った。貴様、名を名乗れ」
 自分が不利な状況であるにも拘らず、芝田は不敵な笑みを浮かべて答えた。
「貴様も武将の端くれならば、芝田吉勝の名ぐらいは聞いたことがあろう?」
「ほう、庄戸守か。面白い。ならばこんな所で首級を頂くのは勿体無いな。今宵の遊びはこれまでにして、後でもっと楽しませてもらおう」
 そう言うと河原崎はその長い刀をいとも容易く鞘に収め、陣内に響き渡ろうかと思われるほどの大声を上げた。
「者共、引け、引けぇい!」

 砦に戻った河原崎は、鎧も脱がず腰に刀を下げたまま神楽と阿部が待つ主室に入った。本来であれば帯刀しての入室など許されるはずもない。しかし彼の名声、そして先程の戦ぶりを伝え聞いていた小姓達の中にそれを注意をしようとする者などはいなかった。それは名目上は総大将となっている神楽も同様であった。唯一、阿部のみが河原崎と本当の意味で対等に話をすることができたのだが、彼自身は帯刀などは気にも留めなかったし、むしろ周りの人間が河原崎の格好を見て狼狽する様を面白がっていたため、あえて何も言わなかった。
「とりあえずはこんなものでどうだ?」
 大きな体躯に似合わず、音もなく静かに腰を下ろすと阿部に尋ねた。
「上出来だ。これであちらも援軍があるまでは迂闊に動けまい。しかし、何故、十白を送る前に動いた?」
「砦からは見えなかったかもしれんが、炊煙が見えたからな」
「なるほど、さすがだな。しかし、十白も途方に暮れたろうな」
「うむ、丹波には悪いことをしたかもしれんな」
 この主室には二人の他にも当然、神楽や小姓達がいたが、河原崎も阿部も、まるで二人しかいないかのような振る舞いであった。しかし神楽はそれを咎めようとはしなかった。いや、できなかったのだ。いくら先見の明のない神楽と言えど、阿部と河原崎がいなくては幕府軍と戦えようはずもないことは分かっていた。それ故、自分に一言もないのを不満には思っていたが、この二人の機嫌を損ねないよう何も言わなかったのだった。
「これで河原崎殿に先陣を任せることができますかな?」
 阿部から話を振られた神楽は、自分がないがしろにされていたわけではないと思い、多少、ホッとした。
「うむ、良いだろう。これでもまだ河原崎殿を認めぬ者があるなら、私が総大将の名において、然るべき対処をしよう。存分にその力、振るわれるが良い」
余裕のある総大将らしく振舞おうとした神楽だったが、それはかえって阿部と河原崎の失笑を買っただけであった。
「ありがたきお言葉。正統なる新帝のため、粉骨砕身の覚悟で戦うこと、お約束いたしましょう」
 自分でもわざとらしいと思いながらも、河原崎はそう言って深々と頭を下げると、それ以上は何も言わずにすぐに退室してしまった。
「それでは私もこれで失礼いたします。これから河原崎殿と陣容のことなど、詳しく決めなければなりませぬ故」
 そう言って阿部も退室した。本来であれば、戦に関することを決めるのは総大将たる神楽の役目である。だが、そんな常識と言っても良いことさえ知らぬ神楽は気にした様子もなかった。しかし、だからと言って実際に指揮を執れと言われてもできるはずもないし、仮にそうした場合、戦場が混乱に見舞われることは明らかであった。故に、何も言わず何もせず、何も期待できないこのお飾りの総大将は、逆に阿部にとって非常に都合が良かったとも言えた。

 この砦にもそれほど広くはないが、武者溜りがあった。そこで一戦交えた兵士達は、鎧を脱ぎ馬の体を拭いてやったりしていた。
「皆、よく働いてくれた。これからもお主等と轡を並べて戦えること、心強く思うぞ。これからもよろしく頼む」
 兵達の下に戻ってきた河原崎がそう言うと、歓声があがった。登陽で知らない者のいない、かの剣聖・河原崎慧斗に認められる…。それは武士として最高の誉れでもあった。彼らは皆、河原崎が連れて来た兵である。彼が庵に籠る以前に部下として働いていた者達であったが、今回、この戦に参加するかどうか迷っていたちょうどその時に、主だった者が揃って彼の元を尋ねて来たのだ。もちろんその裏には、阿部の働きかけがあったのだが。
そんな河原崎の部下達は、実際には貴族のために戦うことをあまり面白くは思っていなかった。しかし河原崎にそう言われると、そんなことはもうどうでも良くなってしまった。まして先程、奇襲を成功させて勝利を収めてきたばかりである。部隊内の士気は嫌が応にも高まっていた。
 河原崎の後を追って来た阿部は、その様子を見ながら、出陣前からあらかじめ用意させておいた酒を兵達に振舞った。笑いながら肩を組み、酒を酌み交わす兵達。それを静かに見守る河原崎の横に、阿部が立った。
「あんたが連れて来ただけあって、なかなかの強さだな。…いや、統制が取れている、と言った方がいいか」
 阿部の言葉を聞いて、河原崎は感心したような顔をした。かつての部下達が容易く集まったことの裏に阿部の存在を薄々は感じてはいたが、あえて河原崎はそのことについては何も言わなかった。
「ほう、よく見ている。貴様、やはりただの貴族ではないな。…確かに、この兵達は剣技という面においては特に優れているというほどではない。しかし、出された指示に対して即座に反応して動くことができる。末端の兵までな。いくさ場で一対一の戦いなどはそうそうない。それならば部隊として的確に素早く動けることの方が重要だ。これまでそういう兵の育て方をしてきたつもりだ」
「なるほど、それが一対一を極めたアンタの戦術観か」
「皮肉のつもりか?」
 自嘲するかの様な笑みを含んで河原崎はそう言った。
「いや、単純に感心しているだけだ。その調子で頼む。お目当ての御剣到着までには、まだしばらく時間がかかるだろうからな」
「そうか。ならあの時、庄戸守を討たなくて正解だったな」
 呟くような河原崎の言葉を阿部は聞きとがめた。
「何?」
「先程の奇襲の際、庄戸守と相対したが、馬にも乗らず刀も持っていなかった。そこで討ってもつまらんからな。だから引き上げてきた」
(庄戸守…。芝田か。コイツ、芝田を見逃したのか。始末してくれれば楽になったものを)
「御剣の到着がまだ先なら、それまで庄戸守を相手に楽しませてもらおうか」
(仕方ないな。元々、この男は自分のためだけにこの戦に加わっているんだ。俺もそういう条件で誘いをかけたしな。ならば芝田を見逃したことは咎めだてるべきではないな)
 嬉しそうにそう話す河原崎を見て、阿部は芝田を見逃したことについては不問に付すことにした。

前の話へ  本編目次へ戻る  ホームへ戻る  次の話へ