第八章 陰謀−芽吹く悪意

第一話 看破

河原崎の気紛れに救われた形になった芝田は、はらわたが煮えくり返るような気分であったが、今は何もできずに陣の中で大人しくしていることしかできなかった。皇居で負傷した兵は残してきたこともあって、元々、この地に来た兵士の数は少なかった上に疲労していたが、先程の奇襲によってまともに戦える兵士はわずかしかいなかった。
そんな状況の中、死者を弔う者も、体中に包帯を巻いて寝込んでいる者も、いつまた砦からの襲撃があるのかと不安な時間を過ごしていた。それは芝田も同様であり、さすがの彼も将軍が早く到着することを願うばかりであった。
 それから二日後、ちょうど芝田が仙斉と筒木を呼び集めて軍議を開いている時に、ようやく将軍の軍勢が姿を現した。あの奇襲から後、何事もなく援軍到着の報を聞くことができ、三人ともホッと胸をなでおろした。芝田は自ら将軍を出迎えに行きたい衝動に駆られたが、それを抑えて筒木を迎えに送った。しかし芝田達の前に現れたのは、小早川ひとりであった。
「閣下はどうされた?」
 本来から言えば芝田よりも官職は上である自分自身には一言もなく、いきなりそのような質問を浴びせられた小早川であったが、特にそれを気にした様子もなかった。そして差し出された椅子に腰掛けながらゆっくりと兜の緒を解き、いつも通り穏やかに答えた。
「閣下は後からいらっしゃる。輿にお乗りになられている陛下に行軍を合わせているから多少の時間はかかろうが、それでも明日には着くだろう。芝田殿が奇襲を受けたと聞き、取り急ぎ、私だけでもと先行してきたのだ。しかし…」
小早川は芝田軍の惨状を見て思った。
(阿部は護兵だけではなく、十分に戦闘訓練を積んだ兵士を連れてきているようだな)
 辺りを見回す小早川を見て、芝田は溜息交じりに呟いた。
「全く面目ない」
「いや、それより光明様は無事なのだろうな」
 その小早川の質問には、芝田に代わって仙斉が答えた。
「それは問題ありません。奇襲に遭った時、あのまま攻撃を続けられていたらおそらく全滅していたと思われますが、敵軍が途中で引き上げましたから」
「ふうむ、どういうことだろうか」
 考え込む小早川の横で、芝田が感情を顕にして吐き捨てるように言った。
「ヤツめ、我々をコケにしているのだ」
「ヤツ?」
 小早川は聞き返したが、聞こえていなかったのか答えたくなかったのか、芝田は何も言わなかった。その代わりに仙斉が答えた。
「河原崎です。どうやらあちらは河原崎が与しているようです」
 それを聞いて小早川は不審に思った。
「河原崎…。剣聖・河原崎か。しかし彼はすでに隠居したと聞く。何故、いまさら貴族方に?」
「ふん、大方、生活にでも困って貴族に取り入ったのだろう。かつての剣聖も落ちぶれたものだな」
 芝田はそう言ったが、小早川はその意見には賛同できなかった。
(いや、閣下を相手にしてさえ譲らなかったというあの誇り高い男が自らそんなことをするとは思えない。だが、だからと言って神楽の方から誘いかけたとしてもそれに乗るはずもない。並の貴族などに飼い馴らせることができるような人間ではないし、何より今回の神楽の行動が河原崎の大義に通じる部分などはないからな。これは何かあるな。…しかし河原崎、か。彼が奇襲部隊を率いていたというのなら、この陣の惨状も道理だな)
「閣下も明日には到着されるだろう。見張りは我々で行うから、それまではゆっくり休まれるが良い」
「かたじけない」
 芝田の言葉に軽く頷くと、小早川は兜を手にして立ち上がった。

芝田の下を立ち去った小早川は、光明を尋ねた。数日振りに会った彼の様子からは疲れを感じ取れた。そのため小早川は最低限、必要な話だけをして早々に立ち去った方が良いと考えた。
「お疲れのようですね」
「ああ、小早川か」
 どうやら光明は、小早川が帳の中に入って来たことすらも気付かなかったらしい。小早川はその光明の表情から、心ここにあらず、と言った感じを受けた。
(無理もない。本物の戦闘を間近で見るのは初めてだろうし、ましてや自分の命の危険すらあったくらいなのだからな)
「どうかしたのか?」
「いえ、なんでもございません。お疲れのようですから、報告すべき事項のみを申し上げ、失礼いたします」
 光明の様子を見て、重要な話をしてもいいのかどうか迷ったが、いずれは正式に将軍の座を継がねばならぬ以上、これも必要なことと自分に言い聞かせて、小早川は話を始めた。
「閣下のご遺体は輿に乗せてこちらへ運んできております。また、陛下は宿に残っていただき、大京よりの援軍が到着次第、その半数が秘密裡に大京城へとお連れする手筈となっております。こちらでの戦の間は影武者を立て、急激な環境の変化による体調の悪化を理由に輿の中に留まってい頂いているという形を取ります。そして各地よりこちらに向かいつつある援軍のうちいずれか、おそらくは喜山になると思いますが、それが到着次第、砦を攻めます。それまではこの陣を維持することに専念いたします」
「そうか、わかった」
 まくしたてるような説明に対して、一切問い質したりすることもなく頷いただけの光明を見て、小早川は不安になった。そして幕府の真の内情を知る者がほとんどいない今、自分の行動に幕府の全てが懸かってくるだろう、と覚悟を決めたのであった。

なかなか寝付けなかった光明は、帳を出て陣の外周にあたる柵にもたれかかって月を眺めていた。
(父上…、私はどうすればよろしいのでしょう。私ではもうどうにも対処できない事態にまでなってしまいました。叔父上がこの場にいらっしゃれば良い知恵を授けてくださるのでしょうが…)
そんなことを考えながら夜空を見上げていると、不意に月に小さな陰が映った。かと思うとそれはどんどん大きくなり、光明に迫ってきた。身を引いて目を凝らしよく見ようとしたその時、陰は光明の前に降り立った。それは風魔と翔であった。
「良かった、無事だったか」
 光明の姿を見た瞬間、翔はそう言って大きな溜息をついた。
「二人とも、今までどうしていた?」
 突然いなくなったと思ったら突然に空から帰ってきた二人を見ても、光明の表情にはさほど驚いた様子は見られず、冷静に何事もなかったかのように尋ねてきた。そんな光明の様子に翔はいささか拍子抜けしたが、気を取り直して話を始めた。
「いいか、光明。この周りには兵が伏せてあるはずだ」
「知っている。奇襲を受けたからな」
 翔の言葉を聞いても驚いた様子を見せず、光明は静かに答えた。逆に風魔と翔は光明の言葉に驚かされた。
「南雲は間に合わなかったか」
「そうらしいな」
 風魔と翔が話しているのを聞き、光明は尋ねた。
「南雲?南雲がどうかしたのか」
「いえ、何でもありません。それよりもご無事でなによりです」
「ああ。何故かは知らんが、突然、引き上げたからな」
「引き上げた?…そうか、そういうことか。それもあの男の思惑通り、ということだな」
 翔は腕組みをして考え込む。話の見えない光明は気になって再び尋ねた。
「思惑?誰のだ?」
「阿部だ。あの男は今は城にはいない。あの砦にいるはずだ」
 今度は光明も、多少、驚いたようであった。
「実は、俺と風魔は今まで烏丸城に行っていたんだ」
「やはりそうか。お前達二人が姿を消した時、おそらくそうだろうとは思っていたが」
「分かっていたのか。で、烏丸城だが、あそこはすでに、もぬけの空だった。阿部が今、身を置けるところは少ない。特にここで起こるであろう戦闘に関わろうと思ったら、あの砦しかあり得ないんだ」
 熱心に説明する翔の横で風魔は何も言わずに立っている。当然、風魔も同じ考えなのだろう。翔の言葉を聞いた光明はその言葉を噛み締めるようにして考え込んだ。
「なるほど、それは分かる。しかし、現在では砦には何の動きも見られない。芝田が一度、伏兵に襲われただけだ。それも、先程も言ったが、こちらを全滅させられたであろう状態で砦へと引き返した。阿部があそこにいるのなら、我々も無事では済まなかったのではないか?」
「違う、さっきも言っただろう。それは阿部の思惑通りなんだ。阿部はここに幕府軍を呼び寄せるためにあえて引いたんだ」
「なんだって」
「もし芝田軍が全滅していたら、今、陽京に来ている幕府軍は直接、ここには向かわなかったはずだ。一度体勢を整えてから、大軍をもって砦へと向かっただろう。だが芝田軍がわずかでもここに残っていれば当然、救援のためにここへ来る。阿部は現状で幕府が集めることができる数の軍だけを相手にしたいんだ」
 光明は、翔の言いたいことが理解できなかったらしく、眉をひそめて話を聞いているだけだった。
「阿部の狙いは篭城だ」
「篭城?」
「風魔、篭城戦における定石と言えば何だ?」
 隣で黙ったまま立っていた風魔に翔は尋ねた。
「篭城戦における守備側の狙いと言えば、敵方の糧食に打撃を与え撤退を促すこと。逆に攻撃側の狙いは篭城した軍の兵糧が尽きるまで城砦を包囲し続けること」
 光明は風魔の解答を頷きながら聞いていた。今度はその光明に対して翔は質問をした。
「光明も同じ考えだな。では攻撃側はどのように戦うべきだ?」
「守備側の狙いが食料であるならばそれを守ることに留意しつつ、逆に相手の兵糧が尽きるのを待つべきだろう。アフェンディアの戦い、オーリディア攻城戦、ファーン独立戦争…。歴史に残る数々の戦いもそれを物語っている」
「そう、それがこの世界での模範的な解答だ。しかしこの場合、それは正解ではない」
「どういうことだ?」
「今、光明が挙げたような過去のいくつかの戦いがそういう認識をこの世界の人間に持たせてしまった。先程、風魔に聞いて確認した時にも、今の光明と同じような答えだったしな。当然、阿部はそれを知っている。この世界における篭城戦の定石を、な。あの男は逆に利用しようとしているんだ」
 すでに翔の考えを聞いていたのであろう風魔は静かに立っているだけであったが、光明は先程と同様、眉をひそめて聞いていた。
「俺達の世界において篭城戦と言えば、守備側にとっては援軍を当てにした戦法だ。そのため、援軍が到着するまでにいかに時間を稼ぎ、長引かせるかが重要となる。攻撃側もそのことを念頭に置いて、援軍の可能性がある時は早期落城を狙わなければならない。言ってみれば、戦闘を長引かせたい側、早く終わらせたい側が逆なんだ」
「つまり阿部は戦闘を長引かせたい、と?」
「そういうことだ。阿部はお前達に兵糧攻めをさせて時間を稼ぎ、その間に援軍を呼び寄せて、逆に幕府軍をここで囲む算段に違いない」
 翔の言うことを光明は理解したようだったが、その考えには賛同しかねたようだった。
「援軍だと?どこから?大京周辺で幕府に敵対しようとする大名などはいない。父上はそういった配置をしていたからな」
 今は亡き将軍・東山光秀は、幕府樹立の際、大京及び陽京周辺には長年、東山家に忠誠を誓っている大名のみを配置していた。逆にその忠誠心に疑うところがあると思われる者は地方へと追いやられていた。
「それは知っている。だがそのことは逆に言えば、地方の大名の中にはいまだに力を持ちながら心の底から幕府に従っている訳ではない者も多くいるということでもある。そういった連中をここへ向かわせているんだ。そのために時間を稼ぐ必要が、阿部にはあるということだ」
「まさか」
「まず、間違いないでしょう。私もそうでしたが、援軍と聞いて近隣からの応援しか予想できない。もうその時点で、土方の世界と我々では合戦観が違うということです。おそらく、土方のいた世界においては、そういった事例は稀有なことではないのでしょう。だとすれば、もちろん阿部もそれを知っているはず。阿部が相手であるならば、土方の考え方こそを基準にするべきなのです」
「そうか、そういうものなのか」
 翔の意見を後押しする風魔の言葉を聞き、光明も理解したようだった。
「そこで我々が取るべき道は二つ。一つは、この場で砦を牽制しつつもそれら援軍を迎え撃つ体勢を整えること。そしてもう一つは援軍が到着する前に砦を落とすこと。砦を手に入れれば、援軍を迎え撃つことも容易になる上に、阿部に勝ち目なしとして援軍も自国へ引き上げる可能性も出てきます」
 二人の言うことを理解し、ある程度納得した光明はじっくりと考えてから答えた。
「…これはこの戦の全てを決する判断ともなろう。であるならば、諸将とも相談して対応を決めなければ」
「それはなりません。光明様が決定し、それを将軍の決定として全軍に指示しなくてはなりません」
 強く諌めるように言い放った風魔の言葉に光明は驚き、聞き返した。
「私が?」
「先程も申し上げたでしょう。我々の世界の合戦観と今、展開されつつあるこの合戦とでは大きく様子が異なります。それを諸将がどれほど理解できるでしょうか?ここはそれを理解し、また、現状を良く知り、そして幕府の進むべき道を決めるべき立場にある光明様こそが判断して決定するべきなのです」
 風魔の言葉は、この戦において何もできないと考えていた光明にとって、衝撃的すぎる言葉であった。
(…父上、私にも、まだできること、すべきことがあるようです)
 二十歳に満たない少年にとって、それは重い決断であったが、逆に彼の心の中には覚悟も生まれてきていた。光明は目を閉じてしばらく考え込んでいたが、やがて顔を起こして目を開くと、力強く言い放った。
「引き続き、砦を包囲する。そして、幕府に逆らう者、全てを迎え撃つ」

 イトゥーリオ大公であるロレント・ロクアドルは今日も私室で食事をとっていた。もちろんこの屋敷にも大公とその家族のための立派な食堂がある。以前は大公とローレンス、親子二人で談笑しながらそこで食事をしていたのだが、ローレンスがこの屋敷から姿を消してから大公は食堂を使わなくなっていた。その代わり、現在では別の親子二人がそこを使っている。大公の正妻・アリーナとその子であるロイフィックである。
ローレンスがまだ屋敷にいた頃には、この二人が彼を嫌っていたので食卓を共にすることはなかった。そのローレンスがいない今、アリーナ達が食堂に姿を現すようになったのだが、今度は大公が現れない。これでは自分の面目が丸潰れであると考え、アリーナは大公を食堂へと誘ったのだが、一度として首を縦に振ることはなかった。だからと言って引き下がる訳にもいかず、アリーナ達は食堂を使い、大公は私室で食事をする、という状況になっていた。
 メニューは豪華だが侘しい食事を終えた大公は執務室へと向かった。落ち込んではいても仕事は山積している。また、仕事に没頭していた方が気が紛れるということもあり、大公は執務室と私室の間のみを往復する日が続いていた。
「閣下、オルフェリオからの使いが参っております」
 大公は大臣から提出された道路の整備計画図面を見るのを止めて顔を上げると、客間に通すようにと小姓に伝えた。そして第三種正装に着替えて客間へと向かった。
 使いはソファの横で片膝をつき、大公の到着を待っていた。そして大公が入室すると、懐から手紙を取り出して恭しい身振りをしながら大公に手渡した。
「マールと…、公子の連名か」
 封を開けようとして裏返した時に二人分の署名が目に入り、思わず呟いた。
「ほう…」
 手紙を一読した大公はそう言うと丁寧に手紙を折り畳んで再び封筒に収めた。
「大義であった。出席させていただこう。数日のうちに出発する故、宿を案内していただきたい」
「南木宮を用意してございます。ご家族を含め、百人からがゆったりと過ごせるかと存じますので、遠慮なくお使いください」
 南木宮というのはオルフェリオの大公館にごく近い位置に建てられた宿である。元々は南木亭という名の、大公家によらない民間の施設だが、公式行事などの際には優先的に場所を提供していたため、大公から特別に『宮』の名を冠することを許されたものである。オルフェリオだけでなくラードルールでも広く知られている最高級の宿の一つである。イトゥーリオ大公がオルフェリオを訪問する際には、いつもこの宿が用意されていた。
「そうか、いつも済まんな。…だが今回は家族は連れて行かぬ故、南木宮はガニウム殿にでも譲られるが良かろう」
「…左様でございますか。それではそのように申し伝えます」
「ああ、よろしく頼む」

 使者との謁見を終えた大公は、オルフェリオ行きのための準備を部下に指示した。そして執務室に戻ると、先程受け取った手紙をもう一度、見返した。
(そうか、いよいよか。しかも相手はバランタイン。これでマールも安心だろうな)
 それはライラック・レオドリアの婚礼の儀と大公継承式への案内状であった。オルフェリオはライラック結婚の後、現大公が引退し、ライラックが大公を継ぐということになっていたのだ。
(これまでにない、ずいぶんと若い大公の誕生だな。親友の晴れ姿、ローレンスにも見せてやりたかったが…。今頃、どこで何をしているのか)
 手紙を見つめたまま息子の行方に想いを馳せていると、ノックの音がした。現実に引き戻された大公は、手紙を封筒にしまいながら言った。
「何だ?」
「お話がございます」
 外から聞こえてきた女性の声は、彼の正妻であるアリーナのものだった。押し殺してはいるようだが、少し怒りが含まれていることは容易に察せられた。その理由が分かっていたために大公は鬱陶しく思ったが、
「開いている」
とだけ言って、封筒を引き出しに入れた。
「失礼いたします」
 静かにドアを開けて入ってきたのは、背の高い中年の女であった。切れ長の目の上に細い眉を携えたプラチナブロンドの美しい女性であったが、加齢による美の衰えを隠すかのように厚く化粧を塗り、大きなイヤリングを着けて豪華なドレスを身に纏っていた。その姿を見ると大公はうんざりとした顔をしただけで何も言わなかった。アリーナは近くにあった椅子を引き寄せると大公の傍に座った。
「先程、オルフェリオより使者が参ったそうですね」
 アリーナの問いに対して大公は道路計画図を眺めながら顔を上げることもせずに興味なさ気に答えた。
「それがどうかしたのか」
「どのような用向きで参ったのでしょうか?」
 詰問するような調子だったが、大公は気にした様子もなかった。
「お前には関係のないことだ」
 アリーナは目を合わせることもなく答える大公の様子に苛立ちが頂点に達したらしく、椅子から立ち上がると図面の上に手を置いて言った。
「公子の婚礼と継承式への招待、でしょう?私が何も知らないとでも思ってらっしゃるのですか」
 妻の手に邪魔されて図面を見ることができなくなった大公は、顔を上げると溜息をつきながら言った。
「知っているのならわざわざ聞くな」
「そう、知っていますわ。家族全員が招待されていることも知っていますし、あなたがそれに自分一人で出席しようとしていることも知っています。そしてあの女の子供がまだここにいたのなら、一緒に連れて行くつもりだったということも知っています」
 何も答えない大公に向かって、アリーナは叫ぶようにまくし立てた。
「そんなにあの女の子供が可愛いのですか?あんな素性の知れない女の血を引く子供が。あなたがあの女のことを愛していたのは知っています。私のことを愛していないのも知っています。それでも私は正妻としてあなたのため、そしてロクアドル家のために尽くしてきたつもりです。それなのに大公継承式というラードルールにおける公式行事への出席も許されないなんて、諸国になんと言われましょう。それはあなたも同じことですわ。あなたはそれでもよろしいのですか?」
 アリーナと目を合わせようともせず、何も言わない大公を見て彼女は大きな溜息をついて部屋を後にした。

「母さん、やっぱりダメだったのかい?」
 部屋の外に出ると、そこには彼の息子であるロイフィックがいた。「ええ、ロクに話を聞こうともしないわ」
「ふうん…」
 母親似の細面で整った顔立ちの中で、唯一調和を乱している濃い隈に覆われた目を細めてそう呟くと、口の端に歪んだ笑みを浮かべた。しかし母親はそれには気付かなかったようだった。

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