外伝1:土方翔 「霧の向こうに」

(3)

天気の良い日曜日ではあったが、心の中には未だに霧がかかっていた。そしてそれは、以前よりも濃くなっていた。昨夜、俺は家に帰ってからは夕食も採らずにベッドの上に寝転がっていた。そしてそのまま霧生さんの言葉を反芻していたが、それさえも起きていて思い出していたのか、眠っているうちに夢で見ていたのかも分からない。窓から朝日が差し込み小鳥の囀りが聞こえてきた頃、階下から母親の呼ぶ声が聞こえたので、階段を下りていった。今日は両親とも、昨夜来た急患の様子を見に行くので、食事は適当に済ませるように、ということだった。医者も大変だ。両親が出て行くのを見送ってから、俺は居間のソファに座ってぼんやりとしていた。
(『あの人』って、どんな人だろう。霧生さんにとっては『あの人』こそが生きる意味だったんだろうか。それを失ってしまったから、生きる意味そのものを否定することになったのかもしれない)
 ぼんやりと考え事をしていると、テーブルに置かれた父親の煙草の箱とその上に乗せられたライターが目に付いた。どうやら忘れて行ったらしい。しかし届けるまでもないだろう。きっと病院にだって煙草の自販機ぐらいはある。ライターだって誰かが持っているに違いない。そんなことを考えながらその箱を何気なくいじっていた。ふとした拍子に箱を落としてしまい、中から数本が落ちた。俺はそれを拾い上げ、再び箱の中にしまおうとした。と、その時、何気なく、拾ったうちの一本をくわえて火を点けてみた。深い考えがあったわけではない。ただ、父親が何か考え事をする時にはいつも煙草をくわえていたのを思い出して、自分でもやってみただけだった。そうして火を点け、息を吸い込んだ。いきなりむせた。俺は近くにあった吸殻でいっぱいになった灰皿で火をもみ消した。頭がクラクラして気分が悪くなった。俺は立ち上がって台所で水を飲んだ。と、その時、電話が鳴った。
「はい、土方です」
 どうせ両親はいない。取らなくても良かったかもしれない。そんなことを考えながらメモ用紙とペンを近くに引き寄せていると、電話口の向こうから聞きなれた声が聞こえてきた。
「あの、羽諸と申しますが、翔さんはいらっしゃいますか?」
「ああ、はい、俺だけど」
「あ、土方君。よかった。家の人が出るかと思って、ちょっと緊張しちゃった。休みの日のこんな朝早くにゴメンね」
 時計を見てみると、まだ七時半過ぎだった。
「いや、構わないよ、もう起きてたし。それより何で電話番号、知ってるの?」
「前に教えてもらったじゃない」
「そうだったっけ。で、何?」
「今、忙しい?ちょっと出て来られないかしら」
 別に今日は特別、用事はない。だが、なんとなく気が乗らない。何と言って断ろうかと俺はしばらく電話口で唸っていた。すると羽諸さんの方から言ってきた。
「ね、忙しければ少しの間だけでもいいから」
 例え忙しくても来て欲しいというのなら行くべきなのだろう。
「わかった。で、どこ?」
「そうねぇ。土方君の家の近くに公園があったでしょう。そこでどうかしら」
 霧生さんと一緒に行った公園だ。煙草と電話のために忘れかけていたことを思い出した。
「いいよ。じゃ、今から行くから」
 そういうと俺は電話を切って家を出た。俺が公園に着いた時にはすでに羽諸さんは来ていた。セーラー服を着て、ベンチに腰掛けている。
「早かったね」
「そう?」
ここからでは彼女の家の方が遠いはずだ。それなのにもう来ているということは、この公園の近くから電話したのだろう。しかし俺はそのことをあまり深く追求はしなかった。
「ゴメンね、忙しいのに」
「いや、大丈夫だよ」
 休日の公園といえば普通は親子連れなどがいるものであるが、まだ早い時間なので誰もいなかった。夏にはちょっと早い季節。公園の植物も清々しいまでに緑色だ。そんな周りの風景を眺めながら俺は羽諸さんの隣に腰掛けた。
「なんで制服なの?」
「この後、部活だから学校へ行くのよ」
 このベンチは奇しくも霧生さんと座ったベンチだ。しかも羽諸さんはセーラー服を着ている。俺はこの奇妙な符合を意識せずにはいられなかった。あまり長い時間、ここでこうしていたくはない。何となくそんな気がして、俺は早速、本題に入ろうとした。
「で、何?」
 羽諸さんは何か、話すのを躊躇っている様子だった。俺は黙って回答を待った。やがて羽諸さんは公園の中央の噴水を見ながら言った。
「昨日のあの女の人、どういう人?」
 予想外の質問だった。だが、この質問に対して一から説明するつもりはない。適当に流して話を変えてしまうのが一番だ。
「いや、ちょっとした知り合いだよ。それより悪かったね、ちゃんと送っていってあげられなくて」
「それはいいんだけど…」
 羽諸さんは俺の答えに満足しなかったらしい。しばらく何か考えていたが、今度は俺の方を向いて言った。
「土方君がずっと考えていたのって、もしかしてあの女の人のこと?」
 いきなり核心を突く質問だった。俺は答えようがなく、しばらく黙っていた。
「そうなのね」
 このことが羽諸さんに一体何の関係があるというのかさっぱり分からない。だが、本当のことを知られたくなかったので、別の答えを彼女に与えた。
「そうじゃないんだ。そうじゃなくって、俺が考えていたのは、その…、人間が生きる意味って、何だろうってこと」
 羽諸さんはキョトンとした顔をした。
「え?どういう意味?」
「人生の意味、なんてことを考えるのは人間だけなのかな」
 咄嗟のでまかせではあったが、確かにこれは誰かに聞いてみたいことではあった。俺は羽諸さんの答えをしばらく待った。彼女はちょっと考え込んでから口を開いた。
「うん、それはそうかもね。でも、生きる意味とか人生の目標とかを考えるのが、人間の素晴らしいところじゃない?」
 羽諸さんは笑顔でしゃべり始めた。
「私ね、将来、看護婦になりたいの。看護婦になって、いろんな人の役に立ちたい。私の生きる意味っていうと、そんなところかしらね。答えになってないかもしれないけど」
 実に素直で分かりやすい。言われてみれば、俺にも将来の目標というものがある。裁判官になることだ。現在の日本は行政府と立法府が近しい位置にあり、モンテスキューの言う三権の中で行政が主導を取りやすい。一方、政治において司法が活躍する機会はほとんどない。だからこそ俺は、裁判官となって司法が政治に対して大きな役割を果たすことができるようにしたいと考えている。そうすれば官僚主導の日本を変えることができるかもしれない。
「土方君も、将来やりたいこととか、自分がやるべきだと思っていることとかあるんでしょう?」
「うん、まあね」
「じゃあ、それが土方君の『生きる意味』ってことね」
 何となく納得できるような気はしたが、まだ完全ではない。ここで俺は別の質問をしてみた。
「じゃあ例えばさ、自分が本気で好きになった人がいたとするよ。もう、本当にこの人しかいない、この人こそが自分の人生の全てだ、って思えるような人が。でも、その人とはどうあっても結ばれないとしたら、もう人生に意味はないのかな?」
 羽諸さんはちょっと困ったような顔をして言った。
「確かに恋愛も重要だと思うわ。でも、そのほかに仕事とか、趣味とか、同じ尺度では測れない、だけど同等に自分にとって価値があるものになり得るものがあるんじゃないかしら。だとしたら、恋愛は叶わなくてもそういったものを見つけられれば、いえ、見つけようとすることも意味のある人生、って言えると思うけれど」
「羽諸さんだったら、そうやって生きていける?」
 彼女はちょっと考えてから答えた。
「分からないわね。そこまで人を好きになったこともないし。でも、生きてさえいればきっと何か見つかるとは思うわ。別の人を好きになるってこともあると思うし」
「『人間』だから?」
「そういうことかもね」
 笑顔でそう答える彼女を見て、俺は霧が薄らぐのを感じた。そして自然に言葉が出た。
「ありがとう」
「ちょっとは参考になったかしら?あ、もうそろそろ行かなきゃ。わざわざ来てくれてありがとう。じゃ、またね」
「うん。部活、がんばってね」
 そう言って俺は走っていく彼女の後姿をいつまでも見つめていた。

 公園からの帰り道、俺は考え事をしながら歩いていた。
(生きる意味、か…。霧生さんはそれを人間の傲慢と言い、羽諸さんは人間の素晴らしさと言った)
 そんなことを考えながら住宅街を歩いていると、犬の吠える声が聞こえた。そちら目をやると、門に前足を掛けながらこっちを向いて吠えている犬がいる。俺はその犬を眺めながら思った。
(お前の生きる意味は何だ?)
 確かに霧生さんの言う通り、生きる意味なんていうのは人間だけが考えていることだろう。もっと大きな視点で見れば、人間一人ひとりの生きる意味なんていうものはないのかもしれない。俺が裁判官になりたいということだって、他人の人生には関係ないことだろう。俺の生きる意味は俺にとってしか意味を成さない。それは分かる。それでも俺は、これを譲れない。『人間だから』だな、きっと。

 朝、起きて食事をしている時、父親が帰って来た。昨日は昼頃、両親ともに一度家には戻ってきたが、父親だけはもう一度、病院に行った。患者の容態は回復したが、今度は別の難しい患者が入ったらしい。父親は元々は大学病院にいたが、母方の祖父が亡くなった後、開業した。本人にはそのつもりはなかったらしいが、祖父の遺言状に病院を建てるよう書かれていたらしい。母親も医者だが、父親とは別の私立の病院で働いていた。夫婦揃って同じ所で働けるように、という祖父の心遣いだったのかもしれない。
「翔、悪いが父さんも母さんも、またちょっと遅くなる。夕食は何とかしてくれ」
「分かった。今日は道場に行く日だから、帰りに何か食べて来るよ」
「済まんな」
 最近、こういうことが多い。まだ小学生の時は開業していなかったので、ここまで忙しくはなかったように思う。自分の病院を持つというのはこういうことなのだろうか。しかし人の命を救う仕事をしているのだ。尊敬はしても、文句などはあろうはずがなかった。
「父さん、なんで父さんは医者になったの?」
 父親はちょっと意外そうな顔をした。俺がそんな質問をするとは思わなかったのだろうか。そして、しばらく考えてから答えた。
「はっきりとした理由はないな。ただ、大学に進む時に医学部に合格したからな」
「どうして医学部を受けたの?」
「いろんな学部を受けてその中に医学部が入っていただけのことだ。ま、受かったのは一つだけじゃなかったし、その中からどうして医学部を選んだかと聞かれれば、…やっぱり人の命を救う医者という職業に対して憧れみたいなものがあったからだろうな」
「ふうん。それで、医者になって、どう?」
「ああ、良かったと思う。母さんにも会えたし、自分の病院も持てた。それに何より、病気が治って退院していく人たちを見るのは嬉しいものだ。いいことばかりではないがな」
「それはやっぱり、助けられなかった時とか?」
「そうだな。そのほかにもいろいろあるが。だが、医者に限らずどの仕事だって良い面もあれば悪い面もある。まあ、今では医者こそが俺の天職だと思う」
 それが今の父親にとっての『生きる意味』か。
「お前が将来のことをもう考えているのかどうか知らんが、俺のように、なってしまえばその道に馴染んでしまうということもある。今からあまり自分の将来を決め付けて道を狭めるようなことはするな」
「うん、分かった」
 思えば父親とこういう話をしたのは初めてだ。今度、機会があったら母親にも聞いてみよう。また違った話が聞けるかもしれない。

 羽諸さんと話をして、何か大切なことが分かりかけてきた気がする。だが、それでも霧はまだ晴れていない。以前よりも薄くはなったが。この『何か』を掴んだ時、この霧は晴れるのだろうか。それともこの霧が晴れた時、それを掴むことができるのだろうか。
霧生さんと会って以来、俺は考え事ばかりだ。例えそれが授業中であっても変わらない。ただ、初めてあの人と会った時から日を置いているためか、この間よりはマシになっている。授業中に指されてもきちんと答えられる程度には。だから今日は、道場にも行く気になった。部活をやっていない俺の場合、学校が終わってまっすぐ家に帰るとまだ四時にもなっていない。道場へ行くにはまだ早い。俺は新聞を読み始めた。
(そう言えば新聞を読むのも何日か振りだな。この間はベルマーレ、勝ったのかな)
 そんなことを考えながら三面から順に目を通していく。あまり興味を引かない記事は流してしまう。そうして社会面まで来た時、一つの見出しが俺の目を引いた。『女子高校生、高層ビルから飛び降り自殺』。俺はドキッとして読み始めた。千葉の県立高校に通う生徒、とある。胸を撫で下ろす。
(あの人は大丈夫なんだろうか?)
彼女は『人生に意味はない』と言った。もし彼女の人生に意味を与えられる人がいるとしたら、それはきっと、『あの人』だけなのだろう。『あの人』もいない今、彼女が生きている理由はあるのだろうか。
(彼女は今、生きる意味を失くしているはずだ。だとしたら、なんでもいい。彼女が生きる理由を作らなければならない。それが彼女を救うことになるかもしれない)
そう思ったが、どうすればいいのか分からなかった。それでもまず彼女に会わなければならないと思った。だが、そこまでだ。俺は彼女がどこにいるのか分からない。学校は分かっているが、全然行っていないらしい。結局はもう一度、偶然を頼るしかなかった。俺はそう結論付けて無理矢理に自分を納得させ、空手着を持って家を出た。駅に着いて改札を通り抜けると、たくさんの人が階段を上って来た。幸い、俺が使うのは逆ホームだ。いつも時刻表の確認などはしないから、ホームに着いた途端、置いてけぼりを喰らうことはあるが、今日は大丈夫らしい。そんなことを思いながら、ホームへ向かうと、声を掛けられた。
「おい、お前、この間の中学生だろう」
 振り返ってみると、西生田高校の沖原氏だった。
「あ、どうも。平塚に住んでいるんですか?」
「いや。先生に言われて霧生に届け物だよ。あの後、霧生には会えたのか?」
「ええ、まあ…」
「なんだ、そっか。まだ会ってないんなら一緒に、って思ったけど、じゃあいいか」
 これはチャンスだと思った。
「あ、会うには会えたんですけど、ちゃんと話はできなかったんです。もし良かったら、一緒に行ってもいいですか」
「ああ、構わないけど。でもこれからどっかに行くところだったんじゃないのか?」
 この際、空手のことなどは構っていられない。
「大丈夫です。それより霧生さんの家をご存知なんですか?」
「地図はもらったよ。けど平塚は初めてだからな。分かる奴がいた方が助かる。お前、地元なんだろう?」
「ええ。地図、見せてもらえますか」
 そう言って俺は地図を受け取った。あまり行ったことはないが、商店街の向こう側の住宅地らしい。
「なんだ、家は知らないのか?」
「まだあの人、引っ越して来たばかりでしたから」
 俺は、あまり深く突っ込んでくれるな、と祈りながら答えた。
「ま、いいや。その地図で分かるか」
「たぶん、大丈夫だと思います」
 こうして俺は沖原氏と霧生さんの家へ行くことになった。
「そういや、俺は沖原ってんだけど、お前、なんていうんだ?」
「あ、土方です」
「ふうん、よろしくな。背は高いけど、中学生だよな?」
「ええ」
「どうして霧生のことを知ってるんだ?」
「えっと、その、親がちょっと」
 嘘をつくのは嫌いだが、一から説明するのはもっと嫌だった。俺は仕方なくそう言った。幸い沖原氏はそれ以上、何も聞いてはこなかった。

前の話へ  外伝目次へ戻る  ホームへ戻る  次の話へ