外伝2:安倍清晴 「虚飾の日々」

(2)

午後十一時。俺は読みかけの本を閉じると、風呂に入った。体を洗い終わって湯船に浸かろうとした時、玄関で鍵の開く音がした。親父が帰ってきたのだろう。これから食事をして風呂に入り、新聞を読む。寝るのは一時頃か。それで朝五時に起きて仕事に行くのだから大したものだ。俺ならとっくに辞表を出しているだろう。そもそも仕事は生活費を稼ぐためのものだ。仕事と生活は切り離せないが、仕事が生活の中心になるようでは本末転倒だ。俺はそんな仕事には就きたくないものだ。
 風呂をあがった俺を親父は陽気に向かえた。
「なんだ、風呂に入っていたのか。金曜日の夜だってのに、いい若いモンが家にいるなんてな」
 あんたは俺にフラフラと夜遊びする人間になって欲しいのか?それに遊ぶ奴は若かろうが若くなかろうが遊びまわる。俺はそうじゃない。それだけのことだ。
「ところでお前は卒業したらどうするんだ?」
「まだ考えていない」
 俺はまだ二年生だ。今からそんな心配はしなくていい。
「今はどこも就職が厳しいらしいからな。どうだ、俺の後を継ぐか?」
「考えとくよ」
 親父の仕事というのは、実に変なものだ。内閣専属の占い師らしい。なんでも家の先祖は平安時代に稀代の陰陽師と呼ばれた安倍清明とかいう人間で、代々、幕府や政府の専属占い師を生業としてきたらしい。昔は悪霊を祓ったりもしたそうだ。この平成の世に馬鹿馬鹿しい話だ。子供の頃にこれを聞かされた時、最初はからかわれているのかと思ったぐらいだ。しかし特級国家公務員という位置付けらしいから、それなりにもらうものはもらっているのだろう。政府も何を考えているのやら。ヒトラーじゃあるまいし、政治にオカルトを持ち込むなんてこの国ももう駄目かも知れないな。
「ま、その気になったらみっちり仕込んでやるからな」
 冗談じゃない。そんな胡散臭い仕事なんか、やる気はないね。こういう時はさっさと逃げた方がいい。
「もう、寝る。お休み」

 今日は土曜日。講義のない日だ。だからといってダラダラと眠っているつもりはない。俺はいつも通りに七時に起きて、顔を洗った。鏡を見る。ひどい寝癖だ。これを直すのにいつも二十分はかかる。別に髪型にこだわるわけではないが、せめてみっともないようなのは避けたい。俺はドライヤーを手に取り、髪の毛を整え始めた。その時、電話が鳴った。一瞬、手を止めたが、お袋が取ったらしく音が止んだので、俺は作業を続けた。
「清晴、あなたに電話よ」
 朝っぱらから誰だ、と思いながらも受話器を受け取った。
「同じ大学の、川瀬さんって女の子からよ」
 お袋は意味深な笑みを浮かべていた。どうして女というやつはこうなんだろう。それとも母親というものはこんなものなのか?いや、そんなことより、あの女が何のために俺に電話してきたのだろうか。そもそも、なぜ家の電話番号を知っているのか。不審に思いながらも電話口に出た。お袋が興味深そうにこっちを見ているので、俺は敢えて壁の方を向いた。
「おはよう」
「ああ」
 朝から甲高い声を聞かされるといらつく。きっと今の俺は不機嫌な顔をしているに違いない。
「あのね、ちょっとお願いがあるの」
 どうせロクなことではあるまい。
「一昨日のドイ語のノート、コピーさせて」
 ドイ語?ドイツ語と言え。『ツ』一文字を言うのがそんなに苦痛なのか?日本人はすぐに変な省略をする。全く度し難い民族だ。
「ああ。じゃあ、月曜日に持って行く」
「あ、その日は駄目なの。バイトがあるの」
 ふざけるな。学生なら授業が最優先だろう。講義にも出ず、他人のノートで単位だけ頂こうなんてどういう了見だ。こういう輩がいるから、大学生は遊んでばかりと思われるんだ。
「今日じゃ駄目?」
 今日?休みだぞ。何で休みの日にまであんたと顔を合わせなくちゃならないんだ。
「十一時に昨日の喫茶店でどう?」
 俺はまだ返事をしていないが?それなら最初から、今日の十一時に昨日の喫茶店までドイツ語のノートを持って来い、と言えばいいだろう。
「わかった」
 それでも結局はこう答えてしまう。もしかして俺は甘いのか?
「ありがと」
 俺は受話器を置いて、食卓に着いた。
「何の電話?」
「別に、なんでもない」
 お袋は興味津々だ。俺はさっさと朝食と済ませると、これ以上いらぬ詮索を受ける前に自分の部屋へと逃げた。パソコンの電源を入れ、メールチェックをする。一件、着信があった。須山からだ。こいつのメールはいつも長い。しかし文章が上手いから、読んでいても苦にならない。医者なんかよりも文章家になればいいものを。実際、日本人は文章が下手なのが多い。最近はメールのやり取りをする人間が多いが、読んでみるとどれもひどいものだ。普段からろくな喋り方をしていない人間が、それをそのまま文字にして他人に送りつけるのだから目も当てられないようなものが出来上がる。およそ『文章』とは呼べないものばかりだ。昔の文学者は、例え親しい人間に出す手紙であってもそれなりの文章を書いていた。見習って欲しいものである。まあ、俺も胸を張って他人に見せられるような文章を書いている訳ではないが。
今回のメールは、大学の授業の話題だった。死体解剖をした様子が事細かに書かれている。文章が上手いせいか、読んでいるだけで自分も死体を解剖している気になってきた。興味深くは読めたが、なんだか気持ち悪くなった。俺は簡単に返事を書いて送信するとマシンの電源を落とし、時計を見た。八時三十分。あの女との(一方的な)約束の時間にはまだ早い。この時間ならニュースをやっているはずだ。俺はテレビを点けた。
「…の投票に関し、野党は牛歩戦術を…」
 下らない。最近の政治はやはりろくなものではないな。特にこの牛歩戦術というヤツはいただけない。こんな滑稽な猿芝居を国民の代表たる者が大真面目な顔をしてやっている。国民が政治から離れていくのも道理だ。政治にヒーローはいらないというが、そろそろ国民を引きつけるような人物が必要なのかもしれない。しばらく俺は、偉そうな顔をした老人たちが足踏みしながらその場で行進の練習をする様を眺めていたが、馬鹿馬鹿しくなってテレビを消した。時計を見る。中途半端な時間だ。俺は夕べの読みかけの本を読むためにコーヒーを淹れた。今日はメキシコ・アルトゥーラ。大粒で甘味と酸味が強く、程よい香りを放つ種類の豆だ。これをミディアムで淹れる。白磁の器を満たす琥珀色した神秘の液体にやさしく口付けると、独特の香りが鼻腔をくすぐり俺を甘美の世界へと誘う。美味い。この一杯となら、世界を引き換えにしてもいい。続いて俺は煙草を箱から一本取り出してくわえ、マッチをすった。硫黄の匂いが立ち込める。煙草に火を点け、マッチの火を消すと、俺は魂が抜けるほどに深く息を吐き出した。コーヒーと煙草、そして夏目漱石。この組み合わせは何物にも代え難い。この至福の一時を妨げる者は、例え神でも俺は許さない。
 こうして意識を俗世間から切り離し、人生で唯一の幸せを感じる時をいつまでも続けていたかったが、そうもいかない。残酷にも時は刻まれてゆく。十時三十分。仕方なく俺は本を閉じ、コーヒーカップを洗った。携帯電話と懐中時計、そして財布をポケットに入れ、ノートの入った鞄とサングラスを手に取って家を出ようとした時、携帯電話の振動が俺を襲った。液晶画面の表示を見ると、『沢登正』とある。そういえば、なぜ昨日は携帯電話にかけてこなかったのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら仕方なく俺はアンテナを伸ばし、電話に出た。と言ってもこちらからはしゃべらなかったが。
「安倍か?」
「ああ」
「今日、暇か?」
「今から用事があって出掛けるところだが、すぐに終わるはずだ」
「じゃあ、その後、俺に付き合えよ」
「何をするんだ?」
「サッカー、見に行こうぜ。サンガのチケットが二枚あるんだ」
 興味の無い分野だ。
「誰かほかの奴を誘えよ」
「なんだ、サッカー、嫌いなのか?」
「別にそういうわけじゃない」
「まあいい。わかった。誰か別の奴を誘うよ。じゃあな」
 それだけ言うと電話は切れた。俺は携帯電話を再びポケットにしまうと家を出た。

 京都駅で電車を降りて、俺は約束の場所へと向かった。十時五十五分。ちょうどいい時間か。土曜日の駅周辺は人が多い。特に京都は観光地でもあるので、色々な人間が集まっているようだ。こんな寺ばかりの街を見て何が面白いのだろうか。特に女は京都が好きなのが多いらしい。俺だったら寺なんかより、城の方が興味がある。幸い、この京都には二条城という城がある。大阪城や姫路城に比べれば見た目には物足りないかもしれないが、大政奉還も行われた歴史的にも重要な城だ。そんなことを考えているうちに、例の喫茶店に着いた。ドアを開け、店内を見回す。どうやらあの女はまだ来ていないようだ。俺は適当な席を選んで座り、ゴールデン・マタリを注文する。この店はコーヒー豆や紅茶の葉っぱの種類も多く、店員も接客態度がしっかりしている。店内には品の良いBGMが流れる、俺のお気に入りの店の一つだ。その割にはあまり流行っていないらしく、俺のほかにはニ組のカップルと土曜だと言うのにスーツを着たサラリーマンらしき男、そして窓辺で熱心に本を読んでいる女しかいない。ややあって注文した品が運ばれてきた。俺は煙草とコーヒーという黄金の取り合わせをしばらく堪能しながら外を眺めていた。しかし川瀬舞奈らしき女は現れない。やがて一組のカップルが店を出て、サラリーマン風の男も店を出た。時計は十一時四十分を指している。時間と場所まで指定してきたのにどういうつもりなのか。それで人から物を借りようというのだから図々しいにもほどがある。手持ち無沙汰の俺は鞄を持ち、席を立って便所へと向かった。店内に残る数少ない客のうち、窓辺の女の横を通り過ぎようとした時、その女が声を掛けてきた。
「遅かったじゃない」
 振り返ってみると、川瀬舞奈であった。どうやら彼女はすでに来ていたらしい。後姿であったため、気が付かなかった。彼女の方も、本を読んでいたので気が付かなかったようだ。
「ああ、悪い」
 言い訳するのも面倒なのでそう答えると、俺は彼女の前に座ることもせずに鞄からノートを取り出して渡した。
「じゃ」
 そう言って会計を済ませ、店を出た。
「待ってよ、安倍君」
 川瀬舞奈も会計を済ませ、店を出てきたようだ。昨日と同じパターンだ。しかし今日は、彼女はジーンズにシューズであったため、走っても転びそうになることはなかった。
「お礼も言わないうちに行っちゃわないでよ」
 大して感謝もしていないだろうに、そんなものは必要ない。さっさと帰らせてくれたほうがよっぽど俺の望みに適っている。
「お昼、まだでしょ。どこかで食べない?」
 こんなところまで昨日と一緒だとはな。
「お礼にご馳走するから」
 今後もノートを貸してもらえるようにか?俺は断ろうかと思ったが、この女が他人に何を食わせるのか興味が湧いたので応じることにした。
「ああ。場所は任せる」
「任せといて」
 もっとも学生風情が、ご馳走する、と言っても大したものはないだろうが。彼女は車で来ていたらしく、この店の裏の駐車場へと連れて来られた。こんな駅近くの店に来るのに、車などは必要ないはずだ。電車も通っていない田舎ならともかく、この京都は電車もバスも十分にある。何も考えずに移動に車を使う人間が多いから、日本は渋滞が多いんだ。これでは何のために交通機関があるのかわからない。そんなことを考えながら、俺は促されるままに助手席に座った。トヨタのヴィッツ。トヨタというのも良くないが、ヴィッツという選択が致命的だ。人様を乗せるのなら、シーマかクラウンぐらいは用意して欲しいものだ。まあ、親のすねをかじって買ってもらうのにそんな車は無理だろうが。
 車に乗った途端、このおしゃべりな女が一言も喋らなくなった。真剣な表情だ。その割に危なっかしい運転をする。こんなんで人を車に乗せようというのだから恐ろしい。確か、交通事故で死亡率が一番高いのは助手席だったな。俺は心の中で一刻も早く目的地に着くことを祈った。
「あそこの店よ」
 赤と緑に彩られた、派手な目立つ看板の店がそうらしい。彼女はモタモタと右折すると、今にもこすりそうな車庫入れを済ませた。
「お待ちどうさま。ここ、結構おいしいのよ」
 看板が象徴するように、どうやらここはパスタの専門店らしい。土曜日の昼とあって、店の中には人がたくさんいる。待たされるのは御免だ。しかし一度、任せる、と言った以上、従うしかない。俺は彼女の後をついて店に入った。

 店内は若いカップルばかりだ。場違いな所に来てしまったものだ。俺がため息混じりに店内を見回している間に、彼女は従業員と何やら話をしている。
「どうぞ、こちらへ」
 従業員は窓際の席に俺達を連れて行き、そこのテーブルに置いてあった『予約席』というプレートを外した。なるほど。だからこれほど混んでいても待たされなかったのか。誰と来るつもりだったのかは知らないが、先方の都合が悪かったのだろう。その代わりが俺だとは、残念だったな。
 俺は彼女が勧めるものを注文して、窓の外を眺めた。海辺ならともかく、こんな国道沿いの店では走っている車しか見えない。外の景色などを眺めてもしかたないので、代わりに店内を見回した。明かりは少し暗めだが、床もテーブルも綺麗に磨き上げられていて、窓ガラスには曇り一つない。テーブルの上の調味料やナプキンなどもきちっと並べられている。観賞用の植物や飾られている絵画の趣味も悪くない。思ったよりまともな店だ。一通り店内の観察が終わってから気が付いたのだが、この女はじっと俺を見ている。まあ、そうだろう。席に着いてから一言も喋らず、あたりをジロジロと観察している男なんてそうはいないだろうからな。しかし俺が一言も言わなくとも、気にしないでいつもの通りに一人で勝手に喋っていればいいものを。
「何、見てるの?」
「別に」
「そう」
 簡潔なやりとりだった。この女と俺には通じるところなどは全くない、おそらく対極に位置する人間だろう。円滑に会話が成り立つはずもない。お互い黙ったまま注文の品が運ばれて来るのを待っていた。その時、テーブルの隅に一冊の本が置いてあるのに気が付いた。おそらく、彼女が先程の喫茶店で読んでいたものだろう。『斜陽』。太宰か。やはり俺とは相容れない人間のようだ。しかし、こんなアホそうな女が文学作品を読むなんて、少し意外だった。理解して読んでいるのだろうか?そんな俺の視線に気付いてか、彼女は沈黙を破った。
「ねえ、安倍君って、どんな本を読むの?」
「別に。何でも読む」
 また昨日と同じような会話だ。うんざりする。やはりこの時も彼女は少し困ったような顔をしていた。天の助けか、ちょうどその時、注文の品が運ばれて来た。俺は彼女から視線をそらし、食べることに集中した。
 食後のコーヒーを飲んでいる時に彼女が聞いてきた。
「ねえ、安倍君って、サッカーって見る?」
 今朝も同じような質問を受けたな。
「いや、見ない」
「そう。実はね、今夜のJリーグの試合のチケットがあるのよ。一緒に行かない?」
 俺はそんなものは見ないと言ったはずだが?まあ、これがこの女の会話の方法なのだろう。仕方がない、もう一度言ってやるか。
「いや、俺はいい」
「サッカー、嫌いなの?」
「別にそうじゃない」
 そう、俺はサッカーに限らずスポーツ全般は嫌いではない。ただそれを見せることを商売とするプロスポーツというものが嫌いなのだ。スポーツと言うのは本来、自分のためにやるもののはずだ。他人のためにやるものではない。ましてや金を取って他人に見せるなどという発想は信じられない。だから自分でやることはあっても、他人がやるのを見ようなどとは思わない。それだけのことだ。決してスポーツが嫌いなわけではない。事実、俺は中学生の時はサッカー部でキャプテンだった。中学三年間サッカーをやって感じたことは、こんなことは実生活において何の役にも立たないということだ。それで高校に入ってからは空手を学んだ。こちらは非常に役に立った。特に三年生になってから修学旅行で東京に行った時に。班別行動の時に渋谷を歩いていたら、見るからに頭の悪そうな連中がからんできたので、日頃の練習の成果を試させてもらった。一人が泡を吹いて倒れた時の仲間の顔が非常に滑稽で楽しかったのを覚えている。それを思い出して、俺は軽く笑った。
「どうしたの?」
 彼女は不思議そうな顔をしている。
「いや、なんでもない」
「ね、サッカーが嫌いじゃないんだったら、行こうよ。きっと面白いから」
 冗談じゃない。どうせそのチケットもこの予約席と同じで誰かの代わりなのだろう。俺は断ろうかと思ったが、ふと考え直した。確か以前、ニュースでJリーグとやらの試合の中継を少し流していたことがあった。客席の様子とかいって、顔に絵を描き込んだ金や茶色の髪をしたガキ共が怒鳴り散らしている映像が映っていた。彼女が言うように面白いかもしれない。そんな連中を真近で見るのは。俺は彼女の誘いを受けることにした。

 彼女に車を置いてこさせ、俺達は電車で競技場へ向かった。彼女は車で行った方が楽だと言ったが、俺にとってはその方が疲れる。競技場に入ると、鼓膜が破れるかと思うくらいの騒音が俺達を向かえた。
「安倍君、こっちこっち」
 俺の手を引いて、彼女は階段を駆け上がった。最上段の席らしい。ここなら観客の様子が良く見える。悪くはない。
「何か飲み物買って来るけど、何がいい?」
「いらない」
「そう?じゃ、ちょっと行って来るから」
 そう言って彼女は小走りに去って行った。なるほど。ジーンズなのはそのためか。
 彼女がいない間に、俺は場内の観客を観察した。見物に来たつもりが自分達が見物されているとは、夢にも思うまい。しかしこいつらは何なんだ?まだ試合も始まっていないのに、選手が姿を現しただけで異常なほどに熱狂している。独裁者の演説集会に集まったその信奉者か宗教法人の集会に集まった信者か、はたまた決起集会を前にした過激派の学生か。試合の結果に大金を賭けてでもいるのだろうか?と、その時、俺の前を通りかかった男が声を掛けてきた。
「お、安倍じゃないか」
 こいつは確か同じ大学の、…木村、だったか?よく覚えていないが、とにかく同じ学校の奴だ。ま、よく覚えていないだけあって、大した人間じゃない。しかしJリーグのチケットというのはただで配っているものなのか?どいつもこいつもサッカーを見に来るなんて。
「誰と来たんだ?」
 そんなことはどうでもいいだろう。俺は適当に答えて木村(?)を追い払った。気が付けば試合は始まっていた。中学生の頃、一度だけ日本リーグの試合を見たことがある。確か全日空と読売クラブだった。あの頃と比べれば多少はマシなレベルの試合をしているようだ。だがやはり大した試合ではない。チケットがいくらするのか知らないが、こんなものを見せるのに高い金を要求するなんて、詐欺に近い。五分とは見ないうちに飽きた。そういえばあの女が戻ってこない。試合も始まっているのに何をしているのか。飲み物一つ満足に買えないのか。仕方がないので、俺は探しに行くことにした。そこまでしてやるのは嫌だったが、元々チケットは彼女が持っていたものだ。試合が始まったことぐらい教えてやるのが礼儀というものだろう。しかし売店に来てみたがあの女の姿はなかった。席から一番近いのがここだから、このあたりにいるはずなのだが。そう思って辺りを見回していると、物陰から彼女の声が聞こえた。誰かと話しているらしい。一体何をしているのやら。俺は彼女の方へ向かって行った。
「知り合いか?」
 不意に後ろから声を掛けられたので驚いたらしい。ビクッとして彼女は振り返った。その顔はどこか怯えている風でもあったが、俺の姿を見るとホッとしたような顔をした。俺は彼女が話していた相手の顔を見た。品性の欠片も感じさせない男の姿がそこにはあった。神様の失敗作とも言えるような顔のうえ、男のくせに肩の辺りまで髪を伸ばし金色に染めている。本人は格好良いとでも思っているのだろうか?傷んでパサパサじゃないか。何やら敵意を含んだ目でこちらを見ている。その男は俺を睨みつけて言った。
「何だ、お前は」
「お前こそ何だ?」
 馬鹿馬鹿しい問答だが、こういう手合いにはこれで十分だ。
「うるせえ、どっか行け。その女は俺と試合を見るんだよ」
「そうなのか?」
 俺は彼女に尋ねた。もしそれが本当なら、俺は御役御免だ。こんなにありがたいことはない。しかし彼女の答えは俺の期待を裏切るもので、半分は予期していたものだった。
「ううん、違うの。助けて、安倍君」
 やはりそうか。いちいち面倒なことだ。
「違うと言っているが?」
 俺が親切にも彼女の意志を伝えてやったのに、その男は怒りをあらわにして俺の胸倉を掴んだ。
「うるせえ、さっさと消えろ。お呼びじゃないんだよ」
 お呼びじゃないのはお前の方だろう?俺はその手を振り払った。するとその男は拳を振り上げて襲い掛かって来た。馬鹿が。俺はパンチをかわすとその腕を掴んで捻りあげ、背中に蹴りをくれてやった。誰彼構わず噛み付くなんて、狂犬か、貴様は。俺は無様に倒れているその男の髪の毛を掴んで顔を上げさせて言った。
「試合はとっくに始まっているぞ。一人で見てるんだな」
 周りに人が集まってきたので、騒ぎが大きくならないうちに俺は川瀬舞奈の腕を掴んでその場から退散した。
「ありがとう」
 半分、涙声で彼女は言った。全く、これぐらいのことは自分でなんとかしろ。この女は俺にとっては疫病神そのものだな。不安げな表情のまま彼女は言った。
「ねえ、もう帰ろう」
 賛成だ。これ以上、こんな所にはいたくない。元々、サッカーの試合が見たくて来たわけではないし、こういう所にいる人間がどういうものなのかも大体分かった。歓声に包まれる競技場を俺達は後にした。
 帰りの電車の中で、彼女は黙ったままだった。ありがたいことだ。しかし何だか暗い表情をしていたので、一応俺は彼女を家まで送ってやった。彼女はぜひ、上がっていってくれと言ったが、さっさと帰りたかったのでその申し出は辞退した。

前の話へ  外伝目次へ戻る  ホームへ戻る  次の話へ