外伝2:安倍清晴 「虚飾の日々」

(4)

翌朝、目が覚めて着替えていると、姉貴が部屋に入って来た。
「あんた、どこに行くつもり?」
「学校だよ。当たり前だろう」
「こんな日に?」
「どういう意味さ?」
 姉貴の様子がどこかおかしい。そういえばなぜ姉貴は墓参りでもないこんな時期に帰ってきたのだろうか。
「今日は結納でしょ」
 そんな話は聞いていない。そもそも、親類にそろそろ結婚するような人間がいただろうか。
「誰の?」
「あんたのよ」
 それこそ初耳だ。俺は階段を駆け下り、お袋の元へ向かった。そこには今日はまだ出勤していないらしく親父もいた。
「どういうことだ」
「何がだ?」
 親父は落ち着き払った様子だ。
「結納って何だよ」
「何だ、知らんのか。いいか、結納というのは、婚約の証として両家が然るべき品物を交換することだ」
「そんなことを聞いているんじゃない」
 俺の様子を見て、親父は真面目な表情になった。
「落ち着け。お前ももう、二十歳だ。そろそろいいだろう」
「冗談じゃない。俺に一言もなしでいきなり」
「今まで話さなかったのは謝ろう。しかしこれはお前が生まれる前から、芦屋と約束していたことだ」
 芦屋?それじゃあ、政略結婚じゃないか。
「そんな約束、勝手にするな」
 俺は声の限り叫ぶと、ヴァリエッタのキーを握って玄関のドアを勢いよく開けた。

 怒りに駆られて家を飛び出したものの、どこへ行こうか迷った。こんな日は当然、講義に出る気はしない。俺は適当に車を止め、目に付いた喫茶店でコロンビア・スプレモを注文した。このワインのようにコクがあり酸味と苦味と甘味の強いコーヒーを持ってしても、胸の中の苛立ちは収まらなかった。俺は煙草をくわえながら虚空を凝視していた。
 結婚だって?それも芦屋と?芦屋の娘と結婚しろっていうのは、つまりは仕事を継げってことだろう。一言もなしにいきなりかよ。無理矢理進めようっていうつもりだろうが、そうはいくか。
 怒りと苛立ちを胸に秘めながら宙を見つめていると、携帯電話が鳴った。どうせ家からだろう。出てやるものか。しばらく放っておくと、何度も切れてはかかってきた。どうやら出るまで続くらしい。他の客達もやかましいといった様子でこちらを見ている。仕方がない。俺は電話を握り締めると、ボタンを押して怒鳴った。
「うるさい、俺は結婚なんてしないぞ」
「……ああ、好きにしろよ」
 声の主は沢登だった。俺は一瞬、何と言ってフォローしたら良いかわからずに硬直した。
「そんなことより、お前、今どこにいるんだ」
 沢登は俺の言葉を深く追求せずに話し始めた。本当は誰とも喋りたくはなかったが、いきなり怒鳴りつけたのも申し訳なかったし、気分転換にもなるので答えることにした。
「いや、ちょっとな。何の用だ?」
「お前、今日の講義は出ないのか?」
「そんな気分じゃないんだ」
「そうか」
「どうかしたのか?」
「いや、川瀬さんがお前に借りたノートを返したいんだけど、来てないからどうしたのか知らないかって」
「ああ、代わりに受け取っておいてくれよ」
「それがちゃんと自分で渡したいらしいんだ」
 変なところで律儀だな。
「わかった。これから行くから、午後の講義が始まる前に返してくれって伝えてくれ」
「ああ」
 俺は電話を切ってポケットにしまった。まだ俺の方を見ている客がいた。今度は迷惑というよりも興味津々といった風だ。先程、怒鳴ったことで注意を引かれたのだろう。俺は会計を済ませ、逃げるように店を出た。

 学校に着いた時には、もう昼だった。朝も何も食べていなかったが、食欲などはなかったので川瀬舞奈が来るのを教室で待っていた。昼休みだというのに、教室には人がいる。講義が待ちきれないのか、昼食を早い時間に済ませてしまってやることがないのか、それとも俺と同じように誰かと待ち合わせているのか。語学の授業と違って大教室での講義だから、出席者の顔など大半は知らない。だから俺は誰とも話をすることなく川瀬舞奈が現れるのを待っていた。もっとも、顔見知りがいたところで話をするつもりなどは毛頭なかったが。
 大方の人が食事を終え、廊下が騒がしくなってきた頃に川瀬舞奈は現れた。
「安倍君、もう来ていたの」
 そう言って彼女は俺の隣の席に座り、鞄からノートを取り出した。
「ありがとう。助かったわ」
 俺はそれを受け取ったものの、生憎手ぶらで来たのでそれを入れるものなどなかったので、脇に抱えてその場を去ろうとした。
「授業は?」
 川瀬舞奈が尋ねる。
「今日はいい」
「体調でも悪いの?」
 どういう意味だ?俺は体調が悪くない限り休むことなどはないとでも思っているのか?
「なんか、元気なさそう」
 元気がないんじゃない、機嫌が悪いんだ。
「別に。気が乗らないだけだ」
 そう言って出口に向かおうとした時、川瀬舞奈も立ち上がった。
「私も今日はいいや」
 今日も、の間違いだろう。そう思って教室を出た俺の後を彼女もついて来た。気にせずに歩いていると、俺の隣に並んで歩き始めた。
「まだ何か?」
 うっとうしいので、川瀬舞奈の方を向いて聞いた。彼女は笑っていた。どうしてこの女はいつも笑っていられるのか。
「そうじゃないけど。この後、何か、用事でもあるの?」
「いや…。なあ、一人にしておいてくれないか?」
「そう、わかった」
 一瞬、どことなく残念そうな表情を見せたが、すぐに元の笑顔に戻って言った。
「じゃあね」
「ああ」
 向けて立ち去ろうとする彼女の背を見て、俺はふと思い出したことがあった。
「あの、……川瀬さん」
「何?」
 振り返った彼女の顔はやはり笑っていた。
「どうして俺のことを沢登に聞いたんだ?」
「だって、仲いいじゃない」
 他人からはそう見えるのか。
「沢登とはどういう知り合いなんだ?」
「うふふ。それはねぇ…、ひ・み・つ」
「わかった、もういい」
 立ち去ろうとする俺に走り寄り、腕を掴んで言った。
「あ、うそうそ。ごめん。バイト先が一緒なのよ」
「あのビデオ屋か」
「あっちじゃなくって、劇場の方」
 劇場でバイト?あまり聞かないな。ま、モギリか何かだろうな。
「あ、そう。わかった。じゃあ」
 そう言って立ち去ろうとする俺の背中に甲高い声で川瀬舞奈は挨拶をした。

 川瀬舞奈と別れた後、俺はキャンパス内のベンチに座ってぼうっとしていた。空は赤く染まり始め、大半の学生達も帰ってしまったようで、昼間とは打って変わって静かになっている。さてどうしたものか。家には帰りたくはないし、だからと言って行くアテもない。煙草をくわえたまま、少し冷たくなった風に身を晒していると、近寄って来て声を掛ける男がいた。
「よお、珍しいな。こんな時間まで学校にいるなんて」
 沢登だ。答えるのも面倒だったので、俺は一瞥をくれただけで下を向いた。
「川瀬さんには会えたみたいだな」
 横に置いてあるノートを見て沢登は言った。それにも答えなかった俺を沢登は覗き込むようにして言った。
「なんだ?元気ないじゃないか。…よし、飲みに行くか」
 大学生ってのはこんなやつばっかりだ。みんながみんな、酒好きだとでも思っているのか?俺は当然のごとく断ろうと思ったが、ふと思いついて言った。
「なあ、お前の家に泊めてくれないか?」
「ああ、構わないぜ」
 沢登はちょっと怪訝な顔をしたが、承諾した。これで家に帰らなくても済む。俺は沢登をヴァリエッタに乗せてやり、案内されるままに走った。俺が店に入るのは嫌だといったので、途中で飲食物を仕入れて沢登の部屋に行くことになった。沢登のアパートは街中からちょっと離れた所にあった。

 沢登は一人暮らしをしている。確か、名古屋出身だとか言っていた。なぜか名古屋出身の人間は『名古屋』出身という。『愛知』出身とは言わない。どうやら名古屋というのは、愛知県の中で特殊な場所らしい。そんなことを考えながら沢登の後について部屋に入った。ご多分に漏れず散らかっている。
「適当に座れよ」
 一応、座布団を出し、辺りのものを脇にどかして置いた。これでは『適当』とは言えない。座る場所を指定されたも同然だ。まあ、特にどこに座りたい、という希望などはないが。
「取り敢えずビールでいいか?」
 この、『取り敢えずビール』という感覚がよくわからない。『取り敢えず』日本酒やブランデーではいけないのだろうか?どちらにしろ俺は酒が好きではないから断った。沢登はちょっと不満げな様子だ。俺が飲まなければ自分の割り当てが増えるのだから、好ましいことだろうに。俺が煙草を吸う時にはお前も煙草を吸うのか?吸わないだろう。それなのに、自分が飲む時は他の人間も飲むと決め付けている。この辺の感覚も俺には理解し難いところだ。
「で、何だ?」
 俺の前に座った沢登は唐突にそう言った。
「何がだ?」
「何か、話したいことがあるんじゃないのか?だから来たんだろう」
 そんなつもりは全くないのだが。
「見合い話でも持ってこられたのか?」
 先程の電話での俺の対応を聞いてそう思ったのだろう。
「何でもないさ」
「あんまり話したくないみたいだな」
 そうじゃない。いちいち人に話すことではないというだけのことだ。話したところでどうにもならないことだしな。
「知りたきゃ教えてやるさ。親が、婚約しろってだけのことだ」
「婚約?前からそういう話はあったのか?」
「いや」
「そうか。だとしたらそれはまた、急な話だな」
「まあ、な」
「で?」
「…で?」
「どうするかってんだよ」
「どうもこうもないだろう。会ったこともない相手と婚約なんかできるか。戦国時代じゃあるまいし」
「会ったこともないのか。じゃ、まあ、そうだろうな」
 やはり話しても意味のないことだった。沢登に俺の手助けができるわけでもなし、俺も人に頼るつもりはない。話せば気が楽になる、という人間もいるんだろうが、生憎と俺はそうじゃない。むしろ、自分の私的な部分を曝け出すことに抵抗を覚えるくらいだ。
 沢登は何かしらできることをしてくれるつもりで聞いたのか、それとも興味本位で聞いたのかはわからないが、深く追求してこないところをみるとどうやら興味本位ではないらしい。俺もこれ以上、この話を続けたくはなかったので、話題を変えることにした。
「そういえば、来週、誕生日らしいな」
「いや、俺は十月生まれだが…」
「お前じゃない」
「え?…ああ」
 さすがにこの男は何も言わずとも気が付いたようだ。
「何で知ってるんだ?」
「本人がそう言っていた」
「そうか」
 こういう時、普通の人間が沢登の立場ならもっと色々と聞きたくなるのかもしれない。しかし沢登は何も言わない。この辺りなんだろうな。俺がこの男を普通の人間と違うと感じるのは。
「花は?」
「それなんだが、何がいいのか分からない。残念ながら、そういうのには疎いからなぁ」
 あの女の話なんかあまりしたくはなかったが、取り立てて他に話すこともなかったので、続けることにした。
「派手な女だからな。簡単にバラでもやっといたらどうだ」
「派手?彼女が?そう思うか」
「どう見たって派手だろう。お世辞にも地味とは言えないな」
「そう、か」
 納得いかない、といった表情だ。
「川瀬舞奈のことだろう?」
「ああ」
「派手、だよな?」
「そうは思わないが…」
 こいつはあれを派手とは思わないのか?
「そもそも、あの女のどこが気に入ったんだ?」
「どこって…、いい娘じゃないか」
 人格なんて目に見えないものだし、付き合いが深いわけでもないからわからない。しかしあの外見はどうにも馴染めない。やはりあの女の話をするのは気が進まない。俺は一方的に話を打ち切ることにした。
「まあいい。それより、風呂を貸してくれないか?」
「ああ、ユニットだけどいいか?」
 本当は嫌だが贅沢は言えない。一日だって体を洗わないというのは許せないからな。
「バスタオルは戸棚に入ってる。着替えも俺の服なら着られるだろうから、適当に着て構わない。ただし、下着は駄目だ」
 当たり前だ。頼まれたって、はくつもりはない。
「そういや、布団は一つしかないぞ」
「気にするな。適当に寝るさ」
 そして俺は、窮屈な浴室で体を洗ってから沢登の服を着て部屋に戻った。そのころには沢登はすでに眠っていた。辺りを見ると、ビールの缶が七本と三分の一にまで減った焼酎の瓶が転がっていた。さすがにこれだけ飲めばこうもなるだろう。そう思いながら俺は沢登に毛布をかけてやり、窓の外に見えるからす座を眺めながら壁にもたれて眠りについた。

 目が覚めたのは午前の遅い時間だった。沢登はすでに起きていた。台所でフライパンを使って何かを作っているようだ。人の家に泊まることなどめったにしない俺は、この空気に奇妙な違和感を覚えた。と、同時に昨日あったことを思い出し、憂鬱な気分にもなった。
「おう、起きたか。飯、食って行くだろう?」
 そういえば昨日は一日、何も食べていなかった。夕べですら、飲み食いするのは沢登ばかりで、俺はと言えば缶コーヒーを一本、飲んだだけだった。
「ちょっとその辺、片付けてくれ」
 沢登は皿と茶碗、箸を両手に持って来た。
「おお、杓文字がない」
 俺の目の前にカニ玉が乗った皿と箸を置くと、沢登は再び立ち上がって台所から杓文字を持って来た。
「さ、食おうぜ」
 言われるままに茶碗と箸を持って、カニ玉を取って口に運んだ。なかなかの味だ。
「北海道の叔父さんが送ってきたカニが余ってたんだ。結構、イケるだろう?」
 カニのせいだけではあるまい。卵はふんわりとやわらかく焼きあがっていて、上にかかっている餡も絶妙の味付けだ。意外な特技があるものだな。
「ご馳走様」
 軽めのブランチを終えると、俺は食器を持って台所に向かった。
「いいよ、そんなことしなくて」
「泊めてもらったうえに食わせてもらったんだ。食器ぐらい、洗うさ」
「お前は客なんだから座ってりゃいいのに」
 沢登はそう言ったが、俺の気が済まない。それに、洗い物は嫌いではないしな。
「お前、今日は授業は?」
 やはりまだそんな気分にはなれない。俺は黙ったまま、首を振った。
「お前は?行かなくていいのか?」
「今日は午後からだから、まだ平気だ」
「じゃ、学校まで送って行ってやる」
 身支度を整えると、俺達はヴァリエッタで学校へ向かった。

「じゃあな」
 沢登がそう言って立ち去った後、俺は何をするべきか考え込んだ。家には帰りたくない。しかし、このままでは何も解決しない。俺は思い切って家に帰り、親父と話し合ってみることにした。
 家に着き、ドアを開けて家の中に入った。居間に行くと、親父が不機嫌そうな顔をして座っていた。今日は仕事に行っていないらしい。まさか昨日、俺が飛び出した後、ずっとこのままというわけではあるまい。
「夕べはどうしたんだ」
「学校の奴の所に泊まった。…言っておくが、俺は婚約なんてしないぞ。自分の結婚相手ぐらい、自分で決める」
「ああ、勝手にしろ」
 何だ?いやにあっさりしてるな。
「結納はやめだ。俺は仕事に行って来る」
 そう言って親父は出て行ってしまった。拍子抜けした俺は、立ち尽くしていた。そこに姉貴がやって来て、俺に告げた。
「残念ね。労せずして彼女が出来たかもしれないのに」
「何言ってんだ。それより一体、親父はどうしたんだ?」
「喧嘩したのよ」
 姉貴は悪戯っぽく笑いながら言った。その表情は、まるで少女のようであった。俺より年上のくせに。
「昨日、あの後に芦屋家に行ったんだけど、お父さんたら先方と喧嘩して帰って来たのよ」
「俺のせいか?」
「違うわよ。向こうは三女を出してきたのよ。それでてっきり長女が相手だと思っていたお父さんは怒って結納を取りやめたのよ」
「何だよ、それは」
「ま、お互い古い家だからね。面子とか大事なのよ」
 結納だと言っていた割には詳細どころか、そんな根本的なところさえ決まっていなかったのか。馬鹿馬鹿しい。こんなことで人を振り回して。
「ああ、それとね、誤解してるかもしれないから一つだけ、言っておくわ。お父さんはあなたを芦屋の娘と結婚させるつもりはあっても、必ずしも仕事を継がなくてもいいと考えているみたいよ」
「どういうことだ?」
「芦屋の長女がウチの家に入れば、後はどうでもいいみたい。『安倍』が全ての陰陽師の頂点に立ちさえすればいいらしいわ。清晴が継がないなら俺が現役でやるだけだって、前も言ってたし。あなたを飛び越して孫にでも継がせるつもりかしらね」
 ま、今更そんなことはどうでもいい。婚約がご破算になってくれさえすれば。
「ねえ、あんた今日は学校行くの?」
「いや」
「じゃ、駅まで送って。あっちに帰るから。休暇も二日しか取ってないし」
 面倒だったが、ヴァリエッタで姉貴を駅まで送ってやった。家に戻って来てからも何もする気が起きなかったので、俺はカフェ・ド・シトロンを作って漱石と共に一日の残りを過ごすことにした。エル・サルバドルSHGを少し濃い目に入れ、ブランデーを一滴垂らしてレモンスライスを浮かべる。コーヒーの豊かな香りとブランデーの香りにレモンのフレーバーが加わってえも言われぬ芳醇な芳香を放つ。やわらかな甘味を持つこの豆とレモンの風味の取り合わせは、昨日からの滑稽な三文芝居を帳消しにしてくれるほどの幸福を俺にもたらした。もっとも、問題が解決したからこそ、そう思えるのであって、未だに問題を引きずっていたならばこのコーヒーの味わいを楽しむこともできなかったろう。人生において平穏は何物にも変え難い宝石であることを俺は改めて確認した。

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