外伝2:安倍清晴 「虚飾の日々」

(5)

あれ以来、親父は結納のことなど一言も口にしなくなった。先方とのやりとりのせいか、それとも俺の態度を見てそう決めたのかはわからない。いずれにせよ、俺にとっては立ち消えになってくれた方がありがたかったので、その話題に触れて蒸し返すようなことなどは決してしなかった。
 こうして俺はいつも通りの生活に戻った。気が付けばもう金曜日。今週は偶然にも休講が多かった。しかし今日は一コマも休講はない。朝から夕方まで、時間を持て余すことなく学校にいられる。
「オッス。もう学校に来られるのか?」
 俺の前の席に座った沢登はいつものように大きな声で聞いた。
「なんだ、お前、病気でもしてたのか」
 それを聞いたらしく、隣にいた奴も声を掛けてきた。名前は壱岐。あまり聞かない名前だから覚えてる。一年の時から名前の都合でいろいろなところで一緒になることの多かったやつだ。そんなに話をしたことはないが、この男と話をすると大抵、『うまい店』というものを紹介される。ラーメンから始まり、懐石、フレンチ、イタメシ、タイ料理やベトナム料理に至るまで全てを網羅している、と豪語する男だ。味にこだわるのは動物の中でも人間だけだ、だから人間は美食を追及しなければならない、というのがこいつの口癖だ。食べ物なんか死なない程度に食っとけばいい、と考える俺とは当然、趣味が合わない。だからこいつの話は適当に聞き流すことにしている。
「病気の時はやはり中華を勧めたいね」
 いや、結構。病気ではないしな。
「そもそも中国では医食同源と言って…」
 また、料理についての講釈が始まるのか。やめて欲しいものだ。そう思った時にちょうど講師が入って来たので、壱岐教授の中華料理講座はめでたく閉講となった。

 午前中の講義が終り、昼休みとなった。いつも思うのだが、なぜ昼休みというものは大抵、どこでも一時間ほど取っているのか。食事など長くても二十分もあれば終わる。こんなに長い時間昼休みを取るくらいなら、その分、午後の開始時間を早くしてさっさと帰らせて欲しいものだ。特に昼食を滅多に採らない俺にとっては、この昼の一時間は非常に無駄なものに感じられる。だから俺は、いつも図書館で知の世界へ旅立つことにしている。今日の本は『意志と表象としての世界』。この作者、ショーペンハウアーは哲学史の中でも非常に特殊な立場に位置する人間だ。彼の思想は彼のみによって生まれ、そして誰にも受け継がれることはなかった。また、彼は子を残さなかったので、ショーペンハウアーという姓は現代では残っていない。つまり彼がこの世に残したものは、その著作物のみであると言える。もっとも、その著作物でさえ、この『意志と表象としての世界』とそれを補完する『付録と補遺』しかないが。とにかく、孤高な存在とも呼べるこの人間は俺にとってはある意味、憧れの対象でもある。そんな彼の思想に触れるため、俺はこの本を読んでいる。
「お、安倍じゃないか」
 十ページほど読んだところで声を掛けられた。こいつはこの間、サッカー場で会った男、木村という名前と記憶している奴だ。
「なんだ、お前、ドイツ語の本なんか読んでるのか?」
 当たり前だ。本は原典で読まなければ書いた人間の思惑を正しく掴むことはできない。哲学書ともなればなおさらだ。
「お前、メシは?」
「いや、食べていないが」
「じゃ、一緒に行こうぜ」
 ほとんど話もしたことがないのに、どういうつもりだ?俺を誘うなんて。友達がいないのか?
「俺はいい」
「そんなこと言ってると、壱岐に怒られるぜ。人間は三食欠かさずに食べなければならない、とか言ってな」
 確かにあいつなら、言いかねないことだ。別に壱岐に何か言われることを心配した訳ではないが、この友達のいない男を憐れんで俺は一緒に昼食を採ることにした。
学食に何かを食べに来るのも久々だ。昼時の学食には大勢の人がいる。だがもう、ほとんどの人は食事を済ませたらしく、テーブルの上には食器は見当たらない。テーブルの上にノートを広げて何かを書いていたり、楽譜を広げて楽器を演奏したりしている。おそらく、こんなに客の回転の悪い店というのは大学の食堂くらいのものだろう。値段も安いのに、経営はちゃんと成り立っているのだろうか。そういえば、東京のある大学は四階建ての食堂があって某有名チェーン店がその一角に入っていたが、あまりにも客の回転が悪いために撤退したとかいう話を聞いたことがある。探せばあちこちの大学でそういう話はあるのだろうな。
俺達は窓際の席に鞄を置いて、メニューを見に行った。木村は早々に決めたようだが、俺は何を見ても食欲が湧かなかったので、一番量の少なそうな炒飯を選んだ。
「しかし、お前も隅に置けないね」
 席に座って食べ始めた途端、木村はそう言った。
「何のことだ?」
「とぼけるなよ。この間、サッカー、誰と見に来てた?」
 ああ、何だ、そういうことか。
「ただの成り行きだ」
「隠さなくてもいいさ。ほかの奴には黙っておいてやるから」
 別に隠してなどはいない。それに、お前はもう、誰かに喋ったのだろう?だから沢登が知っていたんじゃないのか?
「で、どうやって誘ったんだ?あのガードの固い女を」
「ノートを貸したお礼だっていうだけのことだ」
「へえ、うまくやったな。お前の成績なら他人のノートなんて必要ないだろうに」
「俺が貸したんだ」
「じゃあ、向こうから誘ってきたのか」
 いちいちうるさい奴だな。どうだっていいだろう、そんなことは。しかし、意外だな。あの女、ガードが固いのか。誰にでもホイホイとついて行きそうなものだがな。
 こうして俺は、木村の質問攻めの食事を終えて午後の講義に入った。午後の講義も無事に終えて帰途に着こうとした時、沢登が寄って来た。
「な、お前、今日は忙しいか?」
「いや、帰るだけだ」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれ」
「どこに?」
「ちょっと買い物だ」
 どうせ帰ってもやることはない。それにこの間、泊めてもらった恩もある。俺は付き合ってやることにした。

 沢登の目的の店、というのは花屋だった。どうやら一人でこういう店に入るのは苦手だということらしい。俺だって、花屋に入ったことなんてない。男二人で花屋に入るという珍妙な光景を知り合いに見られないよう、辺りに気を使いながら店に入る。むせ返るような植物の匂いが俺達を迎えた。
「いらっしゃいませ」
 花屋の店員とは思えない、ゴツイ男の声が店内に響き渡る。
「何かお探しでしょうか」
 この男と沢登を見ていると、とても舞台が花屋だとは思えない。
「なあ、何がいいと思う?」
「俺はついて来ただけだ。自分で選んだ方がいいだろう」
「そりゃ、そうだな」
 沢登と店員が何やら話している間、俺は店内を眺め回した。そう広くはないが、いろいろな花が置いてある。もっとも見ても何の花かはわからないが。清掃も行き届いていて、ガラス張りで採光も考えられている。なかなかちゃんとした店のようだな。その時、店の外を歩いている人と目が合った。よりにもよって、川瀬舞奈だ。彼女は笑顔で手を振ると、店の中に入って来た。
「お買い物?」
「俺じゃない」
 そう言って俺は沢登の方を指差した。
「へえ、ノボリ君って、花が好きなんだ。初めて知った」
 別に花が好きなわけではないだろうが。それよりも、彼女が沢登のことを『ノボリ君』と呼んだことの方が俺には気に掛かった。バイト先ではいつもそう呼んでいるのだろうか。彼女は沢登の方へ歩いて行こうとした。止めるべきか?そんなことを考えているうちに、彼女は沢登の所に着いてしまった。
「ノボリ君」
「まっ、舞奈ちゃん…」
 沢登は驚いた様子だった。まあ、そうだろう。しかし、『舞奈ちゃん』?俺といる時は『川瀬さん』と言うくせに。俺の知らない二人だけの世界があることに俺は何か、言葉では表現できないような奇妙な感情を抱いた。
「じゃあ、明日、取りに来ますから」
 沢登は店員にそう言って、川瀬舞奈と俺に店を出ようと言った。この場で渡してしまえば簡単なのに。きっちり誕生日に渡すつもりなのだろうか。そんなことを考えていると、沢登は三人で喫茶店でも行かないかと言い出した。俺は邪魔になることは目に見えていたので、用事があるからと断った。すると川瀬舞奈もバイトがあるからと帰ってしまった。こうして俺達三人は、その場で別れた。

 俺は土曜日には講義を入れていないので、大方の社会人と同じように土日が休みとなる。つまり俺が休みの日にはどこへ行っても人が多いということだ。ま、俺が行く所なんてのは本屋くらいのものだから、特段、問題はないが。で、やはり今日も俺は本屋に行くことにした。この辺りの本屋はいつも行っているので、何かしら新刊が出るまで目ぼしい本は見つからないだろう。そう考えた俺は、ちょっと離れた所にあるデパートの本屋に行った。この本屋は大手のチェーンなので、デパートの中とはいえ、それなりに数はある。俺はいつも通り、文庫本、趣味の本、辞典類などを眺めていった。その後で、コンピューター関係の雑誌をちょっと立ち読みし、外山滋比古の本を一冊買った。その後、各フロアを眺めていった。特に何かを買おうと思った訳ではない。ただの暇つぶしだ。しかし食器のフロアで、俺はちょっと目を引かれた物があったのでしばらく眺めていくことにした。そこにはシェーカー、ミキシング・グラス、バー・スプーン、ストレーナーといったカクテルを作るためのバー・ツールが並んでいた。俺は何種類かのシェーカーを手に取り、じっくりと観察をしたり実際にシェイクしてみたりした。その中で最も俺の手にフィットするものを一つ買った。俺は酒を飲むことはほとんどないが、カクテルを作るのは面白くて好きだ。姉貴が家にいる頃には、よく作ってやったものだ。
 家に帰り先程買ったシェーカーを眺めていたら、何だかカクテルが飲みたくなったので、俺は夜を待って以前に何度か行ったことがある店へと出かけることにした。久々に行くそのスカイラウンジは、昔よりも客が減っているかのようだった。もっとも、俺にとっては静かなのはありがたいことだったのであまり気にもしなかったが。
「久しぶりだね」
 マスターがそう言って、何も言わないうちに俺の前にソルティー・ドッグを置いた。スノー・スタイルだ。久々だというのに、マスターは俺の好みを覚えていたらしい。グレープフルーツの酸味がウォッカの味を際立たせている。シェーカーを振る音が心地良く、しかし静かに店内に響く。俺は街の灯を見下ろしながらその味わいを楽しんだ。
「高校卒業してからは、初めて来るんじゃない?」
「そうですね」
「お?二十歳になって敬語を覚えたようだね。初め、お姉さんに連れられて来た時には、生意気な高校生だと思ったものだけど」
「昔のことは言わないでくださいよ」
「はは、ま、ゆっくりしていってよ」
 このマスターは俺が高校二年の時から知っている。姉貴の大学の先輩らしく、開店祝いの時に連れられて来たことがある。その後も何度か来たことはあったが、大学に入ってからはすっかり御無沙汰だった。酒はあまり好きではない俺でも、この店ではなぜか気分良く飲める。このマスターの人柄だろうか。この人は、俺が高校生の時にも未成年だからと酒を飲むことに対してうるさく言うことはなかった。不思議なもので高校生の頃には禁じられていた酒を飲むことにいくらかの喜びを感じていたはずなのに、二十歳になってからはめっきり酒を飲まなくなった。あの頃は俺も子どもだったということか。その代わり、煙草は以前よりも格段に本数が増えたが。
 グラスはいつの間にか空になっていた。そのグラスを前に押しやると、マスターはスクイザーでグレープフルーツを絞り、それをウォッカとともにシェーカーに入れ、鮮やかな手付きでシェイクした。そして縁をグレープフルーツで湿らせて塩を塗ったグラスを用意すると、シェーカーを持った右手を高々と上げてその中身を新しいグラスに注いだ。俺は右手を前に差し出す。すると離れた所にいたマスターは静かにグラスを置いてカウンターの上を滑らせた。これをやってくれる店はそうそうない。俺は目を閉じたままグラスをキャッチし、口に運ぶ。こうしてソルティー・ドッグを四杯飲み、ほろ酔いになった俺は店を後にした。

 店を出た俺は家へ向かって歩き始めた。この店は家からはちょっと離れた所にあるが、タクシーを使うほどのことはない。カクテル四杯程度で足元が覚束なくなるようなこともないし、頬を撫でていく夜風が気持ち良かったので、歩いて帰ることにした。今夜は月も明るいが残念ながら満月ではない。立ち待ちぐらいだろうか。気分の良くなった俺は、舗道を歩きながら口笛でムソルグスキー作曲の「展覧会の絵」の「プロムナード」を吹きながら歩いた。辺りには人影もない。夜、口笛を吹くと蛇が出る、という人もいるが、あれは迷信だ。夜になってから口笛を吹くのは近所迷惑だから止めさせるための方便に過ぎない。しかし、ここは住宅もないし人もいないから別に構わないだろう。と思っていたら、正面から人が来たので、俺は口笛を吹くのを止めた。その人影とは街灯近くですれ違うことになった。あまり顔はよく見えなかったが、黒く艶やかな美しいショートヘアーの女性であった。
「安倍君?」
 すれ違ってちょっとした時、その人は言った。俺は振り返って見てみたが、誰かは分からなかった。
「こんな時間に出かけるなんて、珍しいわね」
 誰だ?いやに馴れ馴れしい。
「…失礼ですが、どちら様で?」
 その人はちょっと驚いた顔をした後、手に持っていた鞄から何か取り出して頭に乗せた。
「あたしよ、あ・た・し」
「川瀬さん?」
 茶色い頭髪のカツラを被ったその女性は、紛れもなく川瀬舞奈その人であった。
「それ…」
 少なからず動揺した俺は、カツラを指差してそう言うことしかできなかった。
「普段はこっちだからね。驚いた?」
 よく見ると化粧もいつもより薄い、というよりほとんどすっぴんだ。それでも元々の造りがいいので見られる顔をしている。
「何で…」
「バイトの帰りなの」
「バイト?」
「劇場のほう。今日は午前中から稽古だから、学校、休んじゃった」
 驚いた。役者なのか。
「なんでいつも別の格好してるんだ」
 俺はそう聞かずにはいられなかった。
「実験よ、実験」
「実験?」
 彼女は軽く笑ってから言った。
「ね、どこかに入りましょう」
 彼女の話にいくらかの興味を持った俺は了承した。生憎とこの辺りには深夜でも営業している喫茶店のようなものはほとんどなかったので、二十四時間営業のファミリーレストランに入った。

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