外伝2:安倍清晴 「虚飾の日々」

(6)

「ああ、お腹空いたぁ」
 席に着くなり彼女は言った。寄って来た店員に彼女はパエリヤを、そして俺はコーヒーを注文した。こういう店でのコーヒーは気が進まないのだが、他に頼むようなものもなかったので妥協した。まさか水だけ、というわけにもいくまい。
「安倍君は、人間を外見で判断する?」
 口一杯に、とてもしとやかとは表現できない様子でパエリヤを頬張りながら、彼女はいきなりそう切り出した。その唐突な質問に多少、戸惑いはしたが、先程の疑問の解決に繋がることが予測されるものでもあったので、素直に答えることにした。
「そうだな、服装や髪型なんかは、ある程度その人間性を判断する材料にはなるとは思う」
「でしょ?人間は他人を判断する時に、まず外見を見るものだと思うの。それで派手な格好をしていたら、やっぱり遊んでいそうに見えるでしょう?」
「普段の川瀬さんのように、か?」
 俺はズケズケと言った。しかし川瀬舞奈は怒った様子などなく、答えた。
「そういうこと。本来のわたしとは正反対の格好をしている時にみんながどんな反応をするか試してみたの。幸い、大学には同じ高校の人はいなかったし、元々の私を知っている人は誰もいないから」
「なぜそんなことを?」
 彼女は少しの間、黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
「最初は芝居の練習のつもりだったけど、そのうちにああいう格好をしているのが面白くなっちゃってね。それで今でも続けているの」
「面白いって、何が?」
「派手な格好をしていると、男の人たちが次々と声を掛けてくるんだもの。下心見え見えでね。簡単に落せるとでも思っているのかしら。京大生といっても、所詮は男ね」
 そう言った彼女の表情は、普段の人当たりの良さそうな顔とは全く違っていた。
「でも、安倍君は一度として声を掛けて来なかったわね」
 当たり前だ。俺はあんな格好をした女は大嫌いだ。
「最初は硬派なのかそれとも気取っているだけなのかと思ったけど…。あなた、わたしのことを見下していたでしょう?いいえ、わたしだけじゃないわ。あなたは他の人間を見下して生きている。違うかしら?」
見透かされていた。それも、こんな女に。ただの馬鹿な女と思っていたのに。だが彼女の言うことを認める訳にもいかない。
「別にそんなつもりは…」
「嘘ついても駄目。あなた、昔のわたしによく似ているもの」
 どうにか取り繕うとする俺の言葉すらも彼女は切り捨てた。
「そのままじゃ、生きるのも辛いわよ」
 そう言うと彼女はスプーンを投げ捨てた。それが空になった皿の上に落ち、金属音をたてた。客の少ない店内でその音は大きく響き渡った。
「まあ、あなたの人生だからどう生きようとあなたの勝手だけどね」
 冷たくそう言い放つと彼女はレシートを手にして立ち上がった。
「もう帰りましょう。そうそう、学校ではわたしが変装していることは黙っておいてもらえると嬉しいんだけど」
「…ああ」
 俺は力なくそう返事すると、店を出て彼女と別れた。

 彼女は俺のことを全て分かっていた。それでいて今まで、俺の前であの態度を崩すことはなかった。言いようのない屈辱感と敗北感に襲われ、酔いなどはすっかり覚めてしまった。なるほど沢登が惹かれるだけのことはあるとは思った。しかし、しかし…。
「くそっ」
 自分の部屋で煙草を吸いながらそんなことを考えていた俺の口から、思わず呟きが漏れた。苛立ちながら煙草を消した俺はメールでも読んで気を紛らわそうと思い、マシンを起動した。
 着信は一件。須山からだ。今、京都に帰ってきているから、久々に会おう、という内容のものだ。ここのところのゴタゴタですっかり忘れていたが、こっちに帰ってきているのだったな。夏休みでもないから、そう長くはいられないだろう。明日にでも連絡を取って会うとしよう。
 俺は了承のメールを送信すると、マシンの電源を落して床に就いた。気分が晴れない時には、眠ってしまうに限る。

 翌日の朝、俺は早速、須山に電話してみた。須山は休みの日でも朝六時に起きるような男だ。きっともう、起きているに違いない。
「安倍か、久しいな。息災か?」
 知性的な声と理性的な物言いは相変わらずのようだ。この男は高校生の時からこんな感じだった。
「今日、暇か?」
「ああ、そうだな。もう私はこちらでの用事は済ませてしまったから、都合はつく。いや、むしろそろそろ東京に行くつもりだったから、早い方が良いだろう」
「で、どうする?」
「そうだな。昼はどうだ?」
「わかった、そうしよう」
 若い男同士の場合、普通は夜に会って酒を酌み交わすものなのだろう。しかし須山は下戸だったし、俺自身もアルコールはそれほど好むところではない。だから俺達が会う時は食事を一緒にするというのが常だった。俺は昼まで、次の講義に向けてドイツ語の予習を軽く済ませることにした。鞄からノートを取り出そうとしたが見当たらない。そういえば川瀬舞奈に返してもらってそのままだった。机の上を見ると果たしてそこにあった。手にとってパラパラとめくっていくと、ノートの間から何か紙が落ちた。不審に思って拾い上げてみると、変形丸文字で『ノ→トありがと→。安倍クンって、アタマいいのね。またヨロシク!マイナより』とあった。昨日、あんな話を聞いた後だから、この文字や書き方もきっと練習して無理矢理に書いたものなのだろうと思った。嫌なことを思い出してしまった。俺は予習を続けたが、一向に集中できずさっぱりはかどらなかった。そうこうしているうちに十一時になってしまったので、身支度を整えて出かけることにした。

 俺と須山が会う場合、大抵は徒歩で済む所になる。今回も近くの店になった。そこは湯豆腐が有名で観光客もよく来るところだ。俺達は個室を取って、湯豆腐を二人前注文した。
「東京はどうだ?」
 特に東京に興味などはなかったが、まずはそうやって話を切り出した。
「あまり面白くもない街だな。大学がなければ絶対に住まないと思う」
「そうか」
 やはり須山は俺に近い性質を持っているようだ。
「お前はどうだ。一年経って、友達はできたか?」
「いいや」
「だと思ったよ。お前が満足するような人間は、そうはいないからな」
 須山は呆れ顔だ。
「ま、お前くらい切れる人間だと、対等に付き合うというだけで大変だ。ましてやお前の上をいく人間など、まずいないだろう」
「それは遠まわしに自分を誉めているのか?」
 俺達は自然と笑っていた。
「しかし、その様子じゃ彼女もまだだな」
「…女は、もういい」
「まだひきずっているのか。あまり気にするな。あれはただ、巡り合せが悪かっただけだ」
「そう簡単に割り切れるものじゃあないのさ」
 須山の慰めも俺にとっては無意味だった。
「彼女だけが一方的に傷ついた訳じゃないだろう。お前だって、傷ついているはずだ」
「あれは俺が悪かったんだ。いや、この話はやめよう」
「…そうだな」
 その後、俺達は湯豆腐をつつきながらお互いの近況報告などをした。その中で須山は、例の恩人に会ったという話をした。土方とかいう名前で現在は病院を経営していて、高校生の一人息子がいるとかいう話だ。
「土方さんの息子さん、彼はなかなかに頭がいいようだ。それに何か、お前に似ているような気がする」
「どういう風に?」
「言葉にするのは難しいな。ただ、意志が強いというか、こうと信じたものは絶対に譲らないような人間だな」
「俺もそう見えるか?」
「ああ。お前も意思が強い、と言うか、なかなかに頑固だと思うぞ」
 こいつの言うことは大抵、正しい。自分ではあまり気が付かないが、須山が言うのなら、きっとそうなのだろう。
「頭のいい人間、と言えば一人いたな」
 須山の話を聞いていて川瀬舞なのことを思い出した俺は思わず口にした。他の人間が相手なら絶対に喋らないであろうことも自然に話せる。それが俺にとっての須山という人間だ。
「どんなやつだ?」
「俺を手玉に取れるような女だ」
「ほう、女ね」
 須山は興味を惹かれた風だった。詳しい話を知りたがったので、俺は簡単に説明してやった。
「なるほど。案外、お前にはそういう女の方が合っているのかもな」
「冗談じゃない。それに女はもういいと言っただろう」
「ま、よく考えてみるんだな」
 そう言って須山は軽く笑った。

 食後に喫茶店でコーヒーを飲みながら、多少話をして俺達は別れた。
「次に会えるのは多分、夏休みだな」
「ああ」
「次に帰って来る時には、友達の一人でも紹介できるようになっていろよ」
「さあ、それはどうかな」
 須山の後姿を見送ってから俺は目に付いた公園のベンチで一服した。須山は元気なようだった。あいつと離れてしまってガッカリしたのは俺だけだったのか。友達、か。その範疇は人によって大きく違う。ただ同じ団体に所属するだけの人間でも友達と思う奴、どんなことでも包み隠さず話すことができる人間のみを友達と思う奴、一定以上の頻度で会う人間を友達と思う奴…。おそらく、俺が思う『友達』の範疇は普通の人間よりも狭いのだろう。それが不幸なことなのかどうかはわからない。友達、か。よくわからないものだな。
 誰もいない公園でそんなことを考えていると、突然、携帯電話が鳴り出した。家からだ。
「もしもし」
「清晴か?」
 当たり前だ。俺が携帯している電話に他人が出ることなどまずない。それに仮にも父親なら俺の声を聞けばわかるだろう。
「お前に客が来ている。すぐに帰って来い」
「誰?」
「知らん。若い女だ。いきなり上がり込んで来て、お前に会うまでは帰らない、と言っている」
 やれやれ。一体誰だ?仕方ない、帰るとするか。

 家に着いた俺を待っていたのは、見知らぬ女だった。外見からすると二十歳くらい。客間で座布団にきちんと正座してずっと待っていたようだ。整った目鼻立ち。艶があって流れるような長い黒髪。ほっそりした体。良家のお嬢様、といった感じの服装だ。
「貴方が清晴さん?」
 その女性の正面に座った俺に向かっての第一声がそれだった。決して大きな声ではなかったが、よく通る高い声をしていた。しかし甲高くて耳につく、といったような感じではなく、抑揚のしっかりした、むしろ心地良く響くような声だった。美しい顔立ち、清楚な服装、物静かな印象。はっきり言って好みだった。
「ああ。君は?」
 多少、緊張して俺は答えた。
「芦屋遙と申します」
 芦屋の娘か。しかし芦屋との縁談は終わったはずだが、一体どういう理由なのだろうか?
「突然押しかけて来て申し訳ありません。今日、伺ったのはほかでもありません。なぜ、会う前から私との縁談を断ったのか、その理由を知りたいと思い、参りました」
「あれは俺じゃない。親父が断ったんだ」
「ではお父様がお許しになられたら、会ってくださったのですか?」
「それは…」
 おそらく、会ってはいないだろう。
「このようはことは今更言っても仕方ありませんね。では改めてお願い致します。私と結婚してください」
「なっ…」
 予想もしなかった一言に俺は言葉を失った。
「貴方のお父様が反対なさっていることは存じ上げております。しかし私達二人と私の両親が結婚を願えばあるいは、と思い、貴方にお願い申し上げているのです」
「いくつだ?」
「は?」
「年はいくつなんだ?」
「今年で十九になります」
「じゃあ、まだ早いだろう」
 俺は至極、常識的な理由を持ち出しての説得を試みた。
「私はそうは思いません。法律的にも何の問題もありません」
「俺は早いと思う。それに今日初めて会う人間同士がいきなり結婚なんてできるものか」
 俺の言葉を聞いた瞬間、彼女は何か言おうとしたが、思い留まったようで一呼吸おいてから言った。
「では待ちます。まだ早い、とおっしゃるのなら、相応しい時期まで待ちましょう。お互いを知る時間が必要とお思いなら、丁度良いでしょう。今回は結納だけで我慢します。元々、今は結納だけ、という話でしたから」
 どうやら普通の説得では駄目らしい。俺は思い切って言ってやった。
「この話は親父だけじゃない。俺も反対なんだ」
 俺の言葉を聞いて芦屋の娘は長い睫を携えた目に涙を浮かべた。
「私が…、私のことが嫌いなのですね?」
 俺はほとほと困り果てた。
「そうじゃない。会ったばかりで嫌いも何もないだろう」
「本当ですか?」
 彼女は涙を拭って尋ねた。
「ああ。ただ、今から将来を、それも他人に決められることが気に食わないだけだ」
「でも、それは…。いえ、何でもありません。今日のところはこれで失礼します」
 そう言うと彼女は音もなく立ち上がった。一応、俺は玄関まで見送ってやった。彼女は一礼して去って行った。
 俺が玄関から居間に戻ると、親父が声を掛けてきた。
「誰だ、あれは」
「芦屋の娘」
「そうか、やっぱりな」
「知ってるんだったら言って欲しかったね」
「いや、ついさっき分かった。芦屋の嫁の若い頃に似ていると思ってな。で、何だって?」
「結婚しろってさ」
「ほう。で?」
「もちろん断ったさ」
「正解だ。三女となんて、結婚するな」
「なぜ?」
「この安倍家が長男を出すなら、向こうは長女を出さねばならん。でなければ芦屋が安倍に下ったことにはならんからな」
 くだらない。今時、家も何もないだろうに。そもそも、なぜ長女でなければ下ったことにならないのかがよくわからない。ともかく俺はこの問題にはあまり深入りしたくはなかったので、それ以上は何も言わずに自分の部屋へと戻った。

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